小津夜景
砂の絵よりも
掃除していて、古い岩波文庫をひらくと、オチさんとドライブした日のレシートが栞になっていた。
オチさんの喉元には2つの傷跡がある。俺、さいきんシャバに生還したんやけど、一番死にかけてたときは喉の、ここんとこに穴あけて何年も栄養とっててん、と初めて会った日にオチさんは語った。へえ、それでよく大学に入れたね。そら内部生やし。小学生の時に勉強しといてよかったわ。
オチさんとは大学の必修科目の体育で知り合った。登録者が5人の特別養護クラスである。授業はビリヤード、ダーツ、輪投げなどからその日の自分にできるものをやる。私はダーツにはまった。武術に似て、心技体のコントロールがおもしろい。オチさんはビデオゲームをやりたいですとよく教師に掛け合っていた。瞬発力や動体視力を競う種目など、どう考えてもオチさんには過酷すぎるのに。
ドライブの日は海まで行って、鳥など眺めつつ、なんのへんてつもない砂浜を歩いた。
「わ」
「どないしたん」
「足跡がついてきてる」
「ほんまや。これ、空からみたら、ものすごく怪しい砂絵にみえるんちゃう。呪い的な」
「そうだ、この辺に大きなドアを描いておこう。そしたら足跡が迷子にならないし、空からみても怪しくなくなるよ」
「よし」
砂にめりこみ、オチさんの足がうまく上がらない。オチさんの体力にあわせて、私たちはゆっくりと砂の上に線を引く。
私にとっての砂絵の魅力は、その正面性という性格にある。つまり、易しく言うと、平べったいところがいいのである。(…)ドアーが平べったいことは私を感動させる。そして私にとって、ドアーは、ほとんどひとつの象徴性をもっている。それは、その平べったさによって、ひとつにはその向う側にある「奥行き」を暗示しているからでもある。正面性の強い美術作品に私が感動するのは、多分こういうことだと思う。(金関寿夫『ナヴァホの砂絵―詩的アメリカ』小沢書店)雲の流れがはやい。なぜあんなにはやいのだろう。空と人との正面性について。そういえば、病院のベッドの上で眺めていた天井にはたしかな奥行きがあった。髪が顔にはりつくみたいに、風と波とが両耳をおおう。聞こえない音。その存在を肌で知る音。私はサンド・ペインティングよりも、波と風と砂とが奏でるサウンド・ペインティングの方がずっと好きだった。
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