2019年7月27日土曜日

●土曜日の読書〔自分の名前〕小津夜景



小津夜景








自分の名前

昔住んでいたアパートのベランダは広い庭に面していて、大量の鳥がわっさわっさと大樹をゆらしていた。手すりから腕をのばすと触れられる距離で彼らはおしゃべりしていたのだけれど、何を言っているのかはわからなかった。

ベランダの向かい側は市の公団で、お互いの生活がよく見えた。公団の地階は児童館になっていて、子供たちが朝から夜まで叫びながら遊んでいる。だがどの子供もアラビア語まじりで何を言っているのかはわからなった。

「ねえ、言葉の意味がわからないまま生きていると、だんだん周囲の存在と風景との境目がぼんやりして、自分の輪郭ばかりがきわだってこない?」

あるとき電車の中で、たまたま隣に座った女性から突然そう話しかけられた。びっくりして相手の顔を見ると、特に変わったところのない女性である。もっとも世間話のテーマには国ごとに強い訛りがある。きっとこの女性はすこぶる思弁的な国から来たのだろう。

「いいえ、存在の一つ一つがぐんとリアルに粒立ってきて、むしろ自分の方こそ背景と一体化してしまいます。透明人間になったみたいに」
「透明人間? それは大変ね。なったあとはどうするの?」
「適当な頃合いを見計らって、普通の人間にもどるんです」
「どうやって」
「自分の名前を自分で呼ぶんですよ。初めは寝ている人を起こすように優しく、次第に大きな声で呼ぶようにするとうまくゆきます」

見知らぬ女性と別れ、アパートのドアをあける。誰もいない部屋。ふと思いついて、自分の名を呼んでみる。するといくぶん透明になっていたのか意識がはっきりする。そして意識がはっきりすると、心がからっぽなのにも気づいた。なんだか意味が恋しい。犬が飼い主を呼ぶように、私はくりかえし自分の名を呼んだ。

自分で聞く自分の名前はいつだって新鮮で、それでいて心のかたちにぴたっとはまる。誰しも一番よく意味をわかっている言葉、それは自分の名前だ。そしてそこから存在の哲学も始まる。
だから、哲学を「大人になってから、子供に帰ること」とも言えるだろう。たくさんの遊戯を経て、多くの博物誌に触れて、思想の果実がなる頃に、また、なにももたない子供に戻る。/そんな風にして、私たちはまた哲学を始められる。すでにある思想にがんじがらめになってゆく、知らぬ間に。そのなかで、はっとした気づきから、はじめの心に立ち返る。(木村洋平『遊戯哲学博物誌 なにもかも遊び戯れている』はるかぜ書房)

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