2019年8月3日土曜日

●土曜日の読書〔らくがき〕小津夜景



小津夜景








らくがき

チョークをもって、海辺までらくがきに行った。

らくがきすると考えごとがはかどる。身体の中に無意識のテンポが生まれるのだ。逆に手足をうごかさず、じっとしながら考えると全然うまくゆかない。思考の底でまったく別の案件を同時にいくつも思い巡らしてしまい、のうみその動作が重く鈍くなるらしい。

らくがきの癖は母親譲りで、母もまた家中のいたるところにらくがきをする人だった。特に会話をしていると手がとまらない。なんだったのだろうあれは。人と話すのが退屈なのだろうか。
かの有名なポンペイの壁に彫られた落書きもまた、古代の人々の退屈を記録したラテン語碑文であるが、こちらはもっといたずらっぽい感じだ。その壁は一面ラテン語で落書きされていた。古代ローマのどこかのチンピラが、そこに茶化すようにこう彫りつけている。「壁よ! こんなにも大勢の連中の退屈を受け止めて、よく粉々にならないものだな」。(……)今日においてもまさにそうだが、落書きというのはたいてい退屈した若者たちの、暇にまかせた破壊行為の産物なのだ。(ピーター・トゥーヒー『退屈 息もつかせぬその歴史』青土社、168頁)
トゥーヒーによれば、退屈とは世界から疎外された時に感じる空虚であり、セネカが『道徳書簡集』においてそれを「吐き気」と喩えた時代からの長い伝統がある。あの有名なサルトル『嘔吐』もこの系譜だ。もちろんいにしえの素朴な退屈が実存の退屈へと進化をとげるには、近代的知性を通過する必要があるのだけれど。

そう、話をふりだしに戻す。私は海辺に出たのだった。ささやかな、けれども回避しがたい生活上のある難題についてよく考えるため、代謝色をした一世紀前のレンガの壁に、私は波の線を引いた。それからレモンの形をしたクラゲをそのあわいに浮かべた。さらに椰子風の海藻を描いていたら、ストローハットの老人がにこやかに近づいてきて、

「ほら、あそこにたくさん鳥がいる。ぜひあれも描いてください」と空を指さした。

  私は空を見る。鳥は一羽もいない。

「見えないかな。あそこですよ」

  私の肩に手を回すと、老人は空のようすを実況しはじめた。

「よく見える目ですね」

「そうさ。長く生きてきたからとてもよく見えるんだ。あなたのチョーク絵だって、たとえ明日には消えてしまうとしても、いま見えるものをぜんぶ描いておかないとね」

老人は言った。子供に教え伝えるように。その表情から、この老人が、一人で絵を描いている私が孤独にみえて放っておけなかったのだ、とわかった。


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