相子智恵
小面をつければ永遠の花ざかり 生駒大祐
句集『水界園丁』(港の人 2019.7)所載
「月曜日の一句」は一句集から一句、なるべく当季の句を読もうと決めている(別にそう指示されたわけではない。自由な欄なので、自分の中で定型感?が欲しくてそうしているだけだ)のだが、今日は『水界園丁』からもう一句取り上げたい。というのも、角川「俳句」2019年10月号の「新刊サロン」で本句集を紹介したのだが、紙幅が足りず、改めて読み返してみたら、掲句について書いた箇所の意味がとても分かりにくかったので、もう少し書き加えてみたい気持ちになったのだ。
以下は、角川「俳句」2019年10月号「新刊サロン」に書いた一部である(発売中です、と、販促に貢献)。
本句集の章立ては、冬、春、雑、夏、秋の順となっている。「雑」がこの位置にあるのは珍しい。さらに雑の中に
小面をつければ永遠の花ざかり
など季語と取れる句があり、考えさせられた。〈永遠の〉だから「花」でも雑なのだろう。逆に我々の方が「花=桜」に狭め過ぎなのかも。『白冊子』に「花といふは桜の事ながら、すべて春の花をいふ」とある。儚さを知ればこそ永遠を願う花の本意に触れた一句だ。掲句は雑の句だ。能の小面をつけた人が出てくる幽玄な世界である。掲句が雑の章にあるのは〈永遠の〉が重要であり、四季を巡りくる花(あるいは桜)の盛りという通常のイメージとは離れたかったのだろうと思う。
それを踏まえたうえで、私はこう感じた。〈小面をつければ〉ということは、それをつけていない世界では〈永遠の花ざかり〉なんてない、ということが暗に提示されている。小面をつけない世界では季節は巡りゆくのであり、花盛りがあれば必ず花は散っていく、儚い世界なのである。
小面をつければ〈永遠の花ざかり〉に居続けることができるけれど(主体は小面をつけた能楽師本人と読みたい気がする)、小面をつけない時、自分は無常の中にいる。〈儚さを知ればこそ永遠を願う〉と書いたのはそれを思ったからだ。
ところで「桜」が晩春の季語であるのに対して、「花」が三春に渡る季語であるのは「花」が「春の花すべての代表」だということを示しているからだ。〈逆に我々の方が「花=桜」に狭め過ぎなのかも。〉と書いたのは、それを書きたかったのだけれど、いささか唐突だった。
服部土芳の『三冊子』の中の「白冊子」に、
「実は梅・菊・牡丹など下心にして仕立て、正花になしたる句、その木草に随ひ、季を持たすべきか。或は、正月に花を見る、また九月に花咲くなどといふ句はいかが」といへば、師の曰く「九月に花咲くなどいふ句は、非言なり。なき事なり。たとへ名木を隠して花とばかりいふとも正花なり。花といふは桜の事ながら、すべて春花をいふ。是等を正花にせずしては、花の句多く出づる。賞軽し」となり。という一節がある。
現代語訳は、
「実際には、桜ではなく梅・菊・牡丹などを想って句作りして正花とした作品は、それらの草木の花の季節に随って、季とするのですか。そして、正月に花を見たとか、九月に花が咲くなどという花の句はどうですか」などお尋ねしましたところ、先生(芭蕉:筆者注)は「九月に花が咲くなどということは、だめだ。そんなことは現実としてないことだからだ。また、梅・菊・牡丹などの名木を下心に隠し置いて花とだけ表現した場合であっても、それは正花扱いとなり、季はあくまでも春である。花というときには、元来は桜をさすのであるが、桜にこだわらずに春の花一般をも花と見做すのである。それを正花としなかったらば花の句が四つの定座よりも多くなってしまう。そうなると賞翫の心が軽くなってしまう」と答えられた。これはあくまで花や月の定座がある俳諧の約束事を伝えているので、俳句とは違うけれども、やはり「花といふは桜の事ながら、すべて春の花をいふ」の心を引き継いでいるのが「花」という季語なのだと思う。
(上記すべて『新編日本古典文学全集88』(小学館)の復本一郎校注・訳による)
花の咲き乱れる春が永遠に続くことを希求する心を、掲句の裏側には濃厚に感じる。もしかしたら私たちが「花=桜」と教条主義的に捉えていて、「〈永遠の花ざかり〉だから桜とは言えないし、春季とは言えない」などと短絡的に評するとしたら(あるいはそれを避けて作者が「雑」としたのかもしれないな、とふと思ったりしてしまって)それは何だか惜しいことのように思う。
この句が「雑」であることはとてもいいと思うし、そこに作者の明確な意志を感じるけれど、この句がたとえ「春」の章で出てきたとしても、それを表層だけで弾いてしまいたくはないと、そう思える句なのである。
それにしても、有季・無季を厳しく言い立てがちな現代の俳句界において、四季と雑が隣り合う章立てはいい。何だかほっとする。