2021年10月13日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#2 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#2
 
浅沼璞
 

オモテ序段が終わったところで番外篇の続きを。


番外篇1で「西鶴晩年の連句を老人文学として」読み直したい旨、記しました。
 
その直後、老いに関する文献を漁ろうとしていたところ、Eテレ「100分de名著」でボーヴォワールの『老い』(1970年)が取りあげられるという幸運に出くわしました。

ゲストの上野千鶴子氏はボーヴォワールの『老い』をダシに、説得力ある自説をたんたんと語っていきます。さっそく入手したNHKテキストも平易で、目から鱗。
 
わけても老化を生理的、社会的、文化的、心理的という四つの次元にわけるエリクソン説への言及に蒙を啓かれました。以下、要約します。

まず生理的老いとは、肉体的な衰え。つぎに社会的老いとは、定年退職に代表される社会的な死といっていいようなもの。文化的老いとは、家族カテゴリー上の変化で、江戸時代なら隠居などがそれに該当します。そして最も遅れてあらわれるのが心理的老い。老化した自分を受けいれられないという自己否定感が他の次元とのアンバランスをうみます。で自己同一性の喪失であるアイデンティティの危機が起きる、といった寸法です。


以上を西鶴にあてはめながら考えてみましょう。
 
まず生理的老い――西鶴没(1693年、享年52歳)の前年の春、つまり『独吟自註絵巻』成立の頃、目の不調、筆の衰えを知人あての書簡にしたためています。実はすでにその前年、『俳諧団袋』序では弟子・団水との両吟歌仙二巻について「中々老の浪のよつてもつかぬぞ」と自らの老化による歌仙中断を嘆いてもいました。【注】

社会的老い――やはり『独吟自註絵巻』成立の年、傑作『世間胸算用』をものしていますし、没後続々と刊行された遺稿集を鑑みるに、浮世草子作家としては生涯現役だったかと(俳諧師としての社会的老化に関しては【注】参照)。

文化的老い――自らの眼病を書簡に記した直後(51歳)、盲目の娘を亡くし、独居老人の身となりました。『世間胸算用』で活写した楽隠居とはほど遠い境涯でした。

心理的老い――発句「難波ぶり」前書において「行年五十、口八十、心は十八」と書いています。実年齢は50歳、軽口は80倍、精神年齢は18歳、といったアンバラはまさに「アイデンティティの危機」を感じさせます。老化を自認できない鶴翁の姿がここにあります。

されば最晩年の西鶴が『独吟自註絵巻』において新風の元禄疎句体にトライしたのは、まさにこの「アイデンティティの危機」を克服せんがためだったのではないでしょうか。

「うーん、えらい理詰めやけど、自分のことは自分でもようわからんて」
 
 
【注】
厳密に言いますと、歌仙二巻の中断については、生理的老化つまり体力的劣化だけでなく、社会的な老いをも考慮する必要がありそうです。というのも浮世草子作家としては生涯現役であった西鶴ですが、俳諧師としてはほぼ引退の状態が長く続いていたからです。その間、団水が転居した京では俳風が大きく変化。中断した歌仙は久々の一座だったわけで、すでに元禄疎句体を身につけていた団水に合わせようと「あとより泳ぎつけども、とかく足のおもたく、やうやう歌仙の中ほど、瀬を越す所にして止みぬ」(『団袋』序)といった体たらくでした。このように社会的老化も歌仙中断には少なからず作用していたわけです。これを巨視的にみれば、二万翁西鶴の「アイデンティティの危機」は生理的かつ社会的な、未分化で複合的な老化現象によってもたらされていたと概括できます。よって歌仙中断は重要なターニングポイントで、たとえば野間光辰氏も、「西鶴晩年の俳風の変化推移は、恐らくこの辺(団水との両吟――浅沼註)から始まつてゐるといつてよいであらう」(『補刪西鶴年譜考證』1983年)としています。ふり返れば西鶴の俳壇復帰は、引退という社会的老化を克服するための然るべき一歩だったと思われます。
 

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