相子智恵
ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪 佐藤文香
ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪 佐藤文香
句集『菊は雪』(2021.6 左右社)所載
不思議な句である。一つずつ読んでいくと「何も無い」のに、残像の切なさが心を締め付けて、心の中にはそれが「在る」。なのに、さらにそれは「消えて」しまうのだ。無いものが消失するという、不思議な句なのである。
こう書いても分かりにくいと思うので、一つずつ見ていきたい。〈ゆめにゆめ〉まず、夢は現実ではない。夢をいくら重ねたところで、実際には何もない。なのにそれを周到に〈かさねうちけし〉で重ねて塗りつぶすように打ち消してしまう。そして菊の句なのかと思いきや、実はそれは雪で、雪は溶けて無くなってしまう。この句からは、折口信夫がすぐれた歌を雪にたとえた「無内容」の論(「俳句と近代詩」)も思い出す。
〈菊は雪〉はぱっと見、ずいぶん乱暴に組み合わせた断定のように思えるのだけれど、雪は古くから「六花」と呼ばれていたし、菊と雪はそれほど遠くない断定だと私には思われた。〈菊は雪〉から、私は古くからある「雪輪」という文様を思い出した。雪輪文は雪を図案化した文様で、円形のような六角形のような不思議な形をしている。顕微鏡がない時代にこの文様を初めて作った人は、雪をじっと観察し、その結晶が六角形であることを薄々と理解したのであろう。結晶という顕微鏡でしか見られない姿と、実際に肉眼で見える雪の丸さ、さらにはそれが溶けた水滴も思われてきて、一つの文様の中に「見えないのに在る」という視点が何重にも隠れていて、不思議であり、好きな文様だ。
だいぶ脱線してしまった。この表題句のように、無いものを言葉で立たせようとする思いと、そして、やはりそれが無いのだと思わせてしまう切なさがこの句集にはある。手数が多い句集で、いかようにも切り取り方があるのだけれど、私はその中でも以下のような、純粋な思いが性急に表れている句こそが、個人的にはこの人の真骨頂だと思っていて、ぎゅっと心をつかまれてしまう。
みづうみの氷るすべてがそのからだ
言へばいいことの氷つてゆくことの
雪降ればいいのに帰るまでに今
今週の今日のいてふの降りかさなる
桜また来るから桜忘れていい
これらは、言葉が立ち上げた景色が、今この瞬間のどうしようもないくらいの切なさと直結していて、破調のリズムがそれを加速させている。あとがき代わりの句集制作日記の中に、〈日本語の姿や音に意味内容が勝つのであれば、定型詩を書く必要はない〉とあって、それがこの作者のステートメントなのだと思うのだけれど、これらの句には、日本語の姿・音と意味内容の勝ち負けではない融合があって、しかもこの作者にしか書けない痛みのようなものが透けて見えている。この作者の句の中では、私はいつも、こういう句に落とされてしまうのである。
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