2022年7月20日水曜日

西鶴ざんまい #30 浅沼璞


西鶴ざんまい #30
 
浅沼璞
 

夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰  打越(裏五句目)
 宮古の絵馬きのふ見残す   前句(裏六句目)
心持ち医者にも問はず髪剃りて 付句(裏七句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「三句の放れ」を吟味します。
 
要は、都の絵馬を眺め残した人物を、医者の言うこともきかない身勝手な病人と見定めた「其人」の転じでしょう。

これを「眼差し」の観点からみると――
 
鬼の夢を現存の絵馬に見立てるルポライターの「眼差し」から、その絵馬見たさに無断外出しようとする人物をあばく、暴露本作家の「眼差し」への転換とでもいえばよいでしょうか。
 
 
 
さて今回の若殿(若之氏)からのメールには愚説への賛意が述べられていました。
 
つまり、やや唐突に「髪剃りて」と付句で詠まれているのは、前句自註の「福禄寿が月代を剃る」という絵馬の描写を受けた結果ではないか、という例の愚説への賛意です。

曰く、〈福禄寿のことは、自註を抜きにはほぼ辿りえないですね。このテクストならではの面白みがよく出ているところかと思います〉

思えばこの付合は、独吟で、百韻で、自註という本作タイトルの特性をよく顕現しているといえそうです。

「そやな、『西鶴独吟百韻自註絵巻』いうのは後世の名付けやけど、この一巻の質(たち)をよう言い当てとる思うわ」
 
 
 
それにしても付句の自註だけでなく、前句の自註までが付句に影響しているとなると、いよいよ自註=「抜け」の散文化、と思えてくるのですが。

「そんなんワシが答えたら、この連載、終いやないかい」

……たしかに。

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