相子智恵
水に置く流燈母を照らし出し 白石渕路
水に置く流燈母を照らし出し 白石渕路
句集『蝶の家』(2017.9 朔出版)所収
灯籠流しは『図説 俳句大歳時記』の初版には〈精霊舟を流すことと送り火をたくことが結びついてできた行事のようである。もとは、やはり火の力で精霊を送り出そうとしたもので、西国の港町などには古くから名物と化して、いろいろの趣向がこらされた〉とある。考証には〈『世話尽』(明暦二)に「流し火」として七月に初出〉とはあるものの俳諧の例句はなく、〈流燈の唯白きこそあはれなれ 虚子〉は昭和5年。他の例句から見ても、私が想像したよりも新しい季語のようだ。
流燈の「火」が何を表しているのか(精霊そのものが宿ったものなのか)を知りたくて調べたのだけれど、送り火だとしたら、精霊の帰り道を照らす役割ということになるのだろう。
掲句、流燈が流れ出す前の、一瞬の滞留時間が描かれている。流燈に先導されてこれから母の元を去る精霊が、母との別れを惜しんでいる。そんな流燈に照らされた母を詠む作者の思いも、母と、そして精霊と一緒なのだろう。今はこの世にいない精霊を含めた家族の思いの重層性が、句に静かな厚みをもたらしている。
流すべき流灯われの胸照らす 寺山修司
流燈や一つにはかにさかのぼる 飯田蛇笏
修司は流燈を描きつつ自分自身を詠み、蛇笏は流燈そのものに意思(それは精霊の意思であろう)があるように詠んでいて、どちらもその作者らしい。渕路氏は流燈と母を詠み、家族としての自分の思いもそこに表れている。それぞれの向き合い方が、いずれも美しい。
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