名を呼れ春行夢のよみがへり 打越
弥生の鰒をにくや又売る 前句
山藤の覚束なきは楽出家 付句(通算49句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
【付句】二ノ折・裏13句目。山藤(春)=本来13句目は花の座だが10句目(月の座)に引き上げたので藤の花をあしらったか。 覚束(おぼつか)なき=「藤のおぼつかなきさましたる」(徒然草・19段)による藤の縁語。 楽出家(らくしゆつけ)=世を安楽に過ごすための出家。
【句意】(兼好のいう)山藤のように覚束ないのは楽出家(した僧の心だ)。
【付け・転じ】前句の魚売りへの憎悪を、鮮魚を食べられない出家者の感情としてとらえ、その不安定な心へと転じた。
【自註】大かたは世に捨てられ、道心の山居(さんきよ)、さのみ何をかありがたき〔とも〕事とも覚えず。せんかたなくて、松のちり葉に煙を立てて暮しぬ。又、世を捨てて思ひ入る山、一たび殊勝なれども、*勝手〔不〕自由にあらぬより、むかしの生肴(なまざかな)に心移して俗にかへる人、数をしらず。*前句の「弥生」によせて「山藤」と出す事、法師、心「覚束なき」といはんための句作り也。 〔 〕=原文ママ
*勝手=暮し向き。 *前句の「弥生」によせて「山藤」と出す事=藤の花のぼうっとして覚束ない様を、僧のブレがちな心に転用した。なお「藤→覚束なし」の縁語は浮世草子にも頻出する(後述)。
【意訳】(出家の)だいたいは世間に捨てられ、(にわかに)道心をおこして山にこもるが、さほど有り難いとも思えない。(その人たちは)どうしようもなくて、松の落葉で炊煙をたてて暮すのだ。また自ら世を捨てて山に入る人も、一旦は感心なことだけれども、暮し向きが自由ではないので、昔の生魚を思い出して還俗する人、その数は限りない。前句の「弥生」という言葉に寄せて春の「山藤」を出したのは、法師の心の「覚束なき」を言わんがための句の仕立てである。
【三工程】
(前句)弥生の鰒をにくや又売る
生ざかな心に移す楽出家 〔見込〕
↓
【句意】(兼好のいう)山藤のように覚束ないのは楽出家(した僧の心だ)。
【付け・転じ】前句の魚売りへの憎悪を、鮮魚を食べられない出家者の感情としてとらえ、その不安定な心へと転じた。
【自註】大かたは世に捨てられ、道心の山居(さんきよ)、さのみ何をかありがたき〔とも〕事とも覚えず。せんかたなくて、松のちり葉に煙を立てて暮しぬ。又、世を捨てて思ひ入る山、一たび殊勝なれども、*勝手〔不〕自由にあらぬより、むかしの生肴(なまざかな)に心移して俗にかへる人、数をしらず。*前句の「弥生」によせて「山藤」と出す事、法師、心「覚束なき」といはんための句作り也。 〔 〕=原文ママ
*勝手=暮し向き。 *前句の「弥生」によせて「山藤」と出す事=藤の花のぼうっとして覚束ない様を、僧のブレがちな心に転用した。なお「藤→覚束なし」の縁語は浮世草子にも頻出する(後述)。
【意訳】(出家の)だいたいは世間に捨てられ、(にわかに)道心をおこして山にこもるが、さほど有り難いとも思えない。(その人たちは)どうしようもなくて、松の落葉で炊煙をたてて暮すのだ。また自ら世を捨てて山に入る人も、一旦は感心なことだけれども、暮し向きが自由ではないので、昔の生魚を思い出して還俗する人、その数は限りない。前句の「弥生」という言葉に寄せて春の「山藤」を出したのは、法師の心の「覚束なき」を言わんがための句の仕立てである。
【三工程】
(前句)弥生の鰒をにくや又売る
生ざかな心に移す楽出家 〔見込〕
↓
数知らず俗にかへるは楽出家 〔趣向〕
↓
山藤の覚束なきは楽出家 〔句作〕
前句の感情を、鮮魚を食べられない出家者の憎しみと見て〔見込〕、〈その結果どうなるのか〉と問いながら、典型例をあげ〔趣向〕、「弥生→藤」と季を定め、「藤→覚束なし」と縁語をたどって楽出家の頼りない心を表現した〔句作〕。
『好色五人女』には〈藤〉をかざしてなよなよと〈覚束なき〉美女、なんて描写がありましたね。
↓
山藤の覚束なきは楽出家 〔句作〕
前句の感情を、鮮魚を食べられない出家者の憎しみと見て〔見込〕、〈その結果どうなるのか〉と問いながら、典型例をあげ〔趣向〕、「弥生→藤」と季を定め、「藤→覚束なし」と縁語をたどって楽出家の頼りない心を表現した〔句作〕。
●
「そやったか、な」
『武道伝来記』にいたっては藤村佐太右衛門という(藤の字を名に持つ)男が酒に酔って足元も〈覚束なき〉ようすが描かれてましたが。
「そやったか、……それは〈藤〉と書けば〈覚束な〉と書きたくなるいう談林の病いやな」
はぁ、なんかパブロフの犬みたいですね。
「サブロフの犬? そんなん西の鶴の一声で追い払ったるわ」
●
0 件のコメント:
コメントを投稿