2008年11月28日金曜日
●大本義幸『硝子器に春の影みち』を読む・続〔 1 〕羽田野令
大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む・続
〔 1 〕
羽田野 令
硝子器に春の影さすような人 大本義幸
という句は確か、欠席した北の句会の投句一覧で見た。この句から取られた句集名だ。硝子とは、大本義幸の初期からのモチーフであると大井氏はあとがきに書いている。
大本さんと初めて会った時のことはよく覚えている。ある日曜日の大阪駅前第2ビルの5階、句会場の前に見知らぬ人が居た。その人が一番に来ていて、次に私だった。それから誰かが来て、その誰かと私は喋って待っていたのだが、次々に誰が来ても見知らぬ人は何も言わずになお崖のように立っていた。吟さんが来られてやっとその人が大本さんだと判った。
句集巻末の年譜によるとそれは2004年10月のことだそうだ。「大阪府梅田の「北の句会」に初めて出席する」とある。癌で長期入院し手術で声を失った後、初めての句会だったのだ。
マイクのようなものを喉に当てると音が電気的に発せられるような仕掛けの機械を使われて何度かは発言しようとされたが、機械の調整が上手くいかないのかちゃんと音が出ず、意見は紙に書かれて発言された。
その後も年譜によると入院、手術をされているのだが、その合間に何回も読書会にはよく出席された。
葉桜よわれにある疵をてらせよ 大本義幸
ゆるぎない言葉。葉桜の輝きが身にまぶしい。病身故の言葉だが、この「疵」は病身でなくとも読者に普遍的に自らの疵を思わせる。またその茂りの青さは身に沁み入るようだ。
(つづく)
〔参照〕 高山れおな 少年はいつもそう 大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む ―俳句空間―豈weekly 第11号
〔Amazon〕 『硝子器に春の影みち』
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葉桜よわれにある疵をてらせよ 大本義幸」
返信削除この句は、「われにある疵をてらせよ」にどういう状況を被せるか、というところに、個性とか技が見えてくるものだ。
作者は、光源を「葉桜」にもとめた。
葉桜の、透明感在る緑の葉のほうだろうか。
それとも、ちらちらする合間にみえる太陽の光の散乱、葉群の裂け目を通ってくる日光にそれを求めたのだろうか?
疵というのが、この人の場合、ほんとに疵があるから、それを知っていると、じつになまなましい。
緑からその葉っぱのひやりとした生気、と、日光の斑の光と影が、喉のあたりでちらちらするそのぬくもりがともに感じ取られる。
それから、
葉桜のなかに無数の空がある・篠原梵
という無季俳句があり、このイメージがすでに下地にあるともおもえるので、それをいれると、ここでは「葉桜」のえだのあたりにある 無数の葉と、空の破片、日光の影。それらの点々がえがく宇宙と交感、したいという願望の叫びが聞こえる。。大本義幸の句には、広い空や陽のにつつまれた絶対自由の時空をもとめる音のない声の叫びが。
令さんがまず好い句をとってくれたので、おもわず書き込みがながくなりました。
「葉桜よ」という呼びかけにこの人ならではの率直な願望があらわにされている。
吟さま、コメントありがとうございます。
返信削除>作者は、光源を「葉桜」にもとめた。
そうですね。光源。
青々とした葉と、葉桜の頃の明るい日差し両方の「葉桜よ」だと思いました。
結構この句は読者をじーんとさせるところがあって、そこが好きなのですが、それはやはり「疵をてらせよ」だと思ってます。なので、あまり葉桜のざわめきや、吟さんのおっしゃる、<ちらちらする合間にみえる太陽の光の散乱>や<空の破片>へもイメージが広がらずに読んで、そう、光源としての葉桜にとどめておいた感じなので、篠原梵の「葉桜のなかに無数の空がある」は全く思いませんでした。
それにしても、「葉桜よわれにある疵をてらせよ」、いいですねー。