シネマのへそ05ネガとポジと
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
(2008年 デビッド・フィンチャー監督)村田 篠ラブストーリーだと思って観ると、荒唐無稽でしかないかもしれない。だいいち、主人公が年齢とともにだんだん若返ってゆく、という設定は、小説やドラマの台本など「物語をつくること」を志した人なら、一度は「なんとかものにしよう」と考えたくなるようなアイデアでもある。
この映画を観ていて、「だんだん老いてゆく人生」より「だんだん若返ってゆく人生」の方がいい、と思う人は、おそらくほとんどいないのではないだろうか。つきつめてしまえば、いずれ最後に待っているのが「死」であるのならば、その経緯がどうであれ、どちらでも同じことだ。問題は、自分以外のすべての人が老いてゆくなかで、自分ひとりだけが若返ってゆく、という特殊性がもたらすものがなんなのか、ということなのだから。
みなが同じ方向へ向かってゆく、ということは、誰もが平等に「未来を知ることができない」ということでもある。永遠などというものはないのだ、と頭では分かっていても、いまの状態はいつか終わってしまうのだ、というようなことを、人はあまり積極的に考えない。
でも、ベンジャミン・バトンは、人が一番最後に行き着くところから、人が誰でも通り過ぎてきたところへ人生が逆行するために、他人とは違う未来をもつことを余儀なくされた。人と出会うことは、ベンジャミンにとっては例外なく「すれちがう」ことだった。いまの状態がいつか終わり、ずっとつづくわけではないことを、わりと人生の早い段階で知ってしまうわけである。
幼い日に出会った初恋の女性・デイジーとベンジャミンとの恋人としての時間が交差するのは、43歳と49歳のときだ。ふたりの時間は重なり、交差して、また離れていってしまう。その幸福な時間はほんの一瞬のように短いのだけれど、遠くない未来にやがて終わってしまうことを知っているがゆえに、きらきらと美しい。
原作がスコット・フィッツジェラルド、と聞いて、ああ、そうか、と思った。このきらめきは『グレート・ギャツビー』を思い出させる。そういえば、ギャツビーが思いを寄せた女の名もデイジーだった。
しかし『グレート・ギャツビー』が「永遠のきらめき」を求めて得られなかった一瞬の夏の物語だったのと対照的に、この話は、永遠につづくものなどないことを知っていた男の一瞬の夏を見せながらも、「決して不幸ではない一生」の物語になっている。ほんとうにまるでネガとポジのように、このふたつの話は照らし合っているのだ。
『グレート・ギャツビー』の有名なラストの一文を思い起こすと、ますますその意を強くするのだが、ちょっと引いてみよう。
ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(村上春樹訳『グレート・ギャツビー』中央公論新社刊)
なんだかんだいっても、人は、物語を必要とする。私は、そう思う。
ところで、この映画は第一次世界大戦に始まり、ニューオーリンズの大洪水で終わる。それはおおざっぱに言えばほぼ「アメリカ合衆国の20世紀」であり、数多くの父親や母親が描かれることでもあり、主人公を巡る物語の底を見え隠れしながら音楽のように流れ、観客が「時間」を意識するためのもうひとつの設定になっている。ハリウッドにまだこういう映画を作る膂力があったことが、なんとなくうれしい。
甘美度 ★★
数奇度 ★★★★★
「ベンジャミン・バトン」オフィシャルサイト ≫
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