2011年5月31日火曜日

〔今週号の表紙〕第214号

今週号の表紙〕第214号



雨粒に映った像は、逆さまになるんですね。そんなこととっくにご存じですよね?


(西原天気)

2011年5月30日月曜日

●月曜日の一句 相子智恵


相子智恵








遺品みな雪の樹間のごとくかな
   川口真理


『静かな場所』第6号(2011年5月15日発行)「雪の樹間」より。

一面を圧倒的に覆い尽くす平原の雪ではなく、林中の雪。さっと日が差して輝いた雪の上には、木々の影が落ちている。時々は、木の枝からどさりと雪が落ちて、粉雪が舞い上がる。樹間の雪には、平原の雪よりも豊かな表情がある。それでいて誰も立ち入ることのない静けさと安らかさがある。遺品の喩えとして、この上なく美しい。

私は以前から飯田龍太の「雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし」を愛唱しているのだけれど、川口氏の句にも同様の懐かしさがある。それはきっと、一面ただ真っ白な雪では生まれない懐かしさなのだ。川口氏の句は木の影が、龍太の句は日暮れが、雪の白さをただの白にしてしまわない慎みが、懐かしさを生んでいるのではないか。

2011年5月29日日曜日

●週刊俳句・第213号を読む 小川楓子

週刊俳句・第213号を読む
バナナジュースを飲みながら

小川楓子


週刊俳句時評第32回
「それは本当にあなたの言葉なんですか」を受けて

先日、半年振りに下北沢でNさんに会った。少し遅れて着いたわたしを、改札の柱に寄りかかって翻訳の作業をしながら待っていてくれたようだ。普段と変わらず快活なNさんに、「震災は創作活動に影響を与えていますか?」といきなり聞いてみた。Nさんは、「最近あまり集中できない感じがする。能率が上がらないし、落ち込んでいるのかも。」と答えた。Nさんは、小説、翻訳、音楽など多方面に渡って活躍し、そんな多忙な日々を、いつもクールにこなしているように見受けられる。そんなNさんでさえ、この度の震災に際して影響を受けていることに、わたしは少し驚いた。

焼き魚定食でお腹を満たし、古着屋さんを何軒かのぞく。わたしは、生まれて初めて下北沢に来たものだから見るものすべてがめずらしい。昭和の香りのするワンピースや食器棚の傍に立つと、自分が生まれていない時代のものさえも懐かしく思えてくる。最近、懐かしい人や物の傍に居たい気分になることが多いのは、震災の影響だろうか。歩きつかれて、立ち寄ったカフェで、Nさんはコーヒー、わたしはバナナジュースを注文した。メニューにバナナジュースがあるとつい、朝バナナを食べてきたのに、なぜか注文してしまから不思議だ。

わたしは再び、震災に係わる質問を投げかけてみた。「今回の震災は作品に影響を与えていますか?」と。Nさんは、東北出身である。和合亮一さんの「詩の礫」等ツイッターにおける、震災関連の動向にも詳しい。「震災を機に物の見方も詩のスタイルも変わった」という和合さんの発言が、印象的であったために、わたしはNさんからも「影響を与えている。」という答えが返ってくるものと思っていた。

Nさんは、少し怒ったような口調で噛み締めるように答えた。

「二十歳以上の作家で、この震災により作品に影響を受けたとするならば、それはその人の作家としての覚悟が足りなかったのだろう。僕は、かつて家族と死別して以来、どんなことがあろうとも、揺らぐことのない作品を作ろうと意識してきた。」

Nさんは、未熟なわたしに作家としての覚悟を伝えながら、半ば自らを鼓舞するようでもあった。どんなことが起こったとしても、それに耐えうる作品をわたしは作って来ただろうか。否、これから作ってゆくことができるだろうか。震災後のどことなく人恋しく、懐かしいものに惹かれる気分のなかで作句していた私は、頭をがつんと殴られたようなショックにしばし呆然とした。五十嵐の文中にある森村泰昌の発言、「それは本当にあなたの言葉なんですか。」という問いを正に、この時突きつけられたような気がした。

森村の「芸術は人を勇気づけるようなものじゃない」という発言も印象的だ。たしかに、コンテンポラリーダンスや現代アートといったものは、時として観ている者に苛立ちを与えたり、不安がらせたりする。心のどこかに引っ掛かることで鑑賞者に印象付けるためには、手段を選ばないゆえ「現代」と名の付いたものからは、どこか尖った決意のようなものを感じる。現代の俳句においては、どうだろう。鑑賞者の意識に深く食い込むために、ときには常識を破り、手段を選ばずに挑んでゆくことができるだろうか。芸術で人を救うことはできない。それをどこかでわかっていながら、芸術は人を救い、勇気づけることができるという希望を抱くゆえに、わたしは俳句を作っているような気がする。俳句も他の「現代」と名の付く芸術と同様の道を模索するのか、それとも独自の道へ辿りつくのか。本当のわたしの言葉とは何かを考えたときに、この問いと対峙してゆかなくてはならない。そんな事を考えながら、すっかり日が長くなった夕暮れのカフェでバナナジュースを飲み干していた。

2011年5月28日土曜日

●週俳eブックス 日曜のサンデー


 






PDFファイルをパソコン、携帯端末等でお読みいただくスタイルです。複雑な作り、凝った処理はしていません。シンプルなPDFファイルです。

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中嶋憲武

掌編小説集

日曜のサンデー

週刊俳句、ウラハイ初出の
18篇を収録。

本文 88ページ
デザイン:笠井亞子
PDFファイル容量 1,722KB

頒価 ¥400 (税込み)


〔目次〕
日曜のサンデー
  午後のやる気/人口渚/夜のキリン/
  どこまで行っても長い道/雪の日のコーヒーショップ
Close To You
アマン
反省会
Leave my kitten alone
むすめほさふせ
恋はみずいろ
雨の日と月曜日は
朝のマンゴー1
117BPM
ふしあわせなじょうろ
ねむりひめ
国道沿いの片恋
昭和五十六年のエガワ
つんつん
チブル星人
ジュースバー
夜のぶらんこ


【ご購入の手順】
1 購入ご希望の書籍名を記して、下記までメールください。
inks@kdn.biglobe.ne.jp
※お問い合わせも同じメールアドレスへ

2 書籍(PDFファイル)をメール添付にて送付とともに、お支払い方法をお知らせいたします。

2011年5月27日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







君見たまへ菠薐草が伸びてゐる


麻生路郎 (あそう・じろう) 1888~1965


新緑の季節である。緑の季節に緑のものを食べると身体にいいらしい。菠薐草も緑のにおいがつんとして、食べるとポパイではないが力をもらった気になる。しかし、この句は食材として見ているのだろうか。ふつうは菠薐草をこのようには詠まないと思う。目の付け所に川柳人を感じる。「見たまへ」と言われた君はどう返事したのか。「きれい」それとも「おいしそう」。どちらにせよ返答に困ったはずである。麻生路郎は「川柳雑誌」(後の「川柳塔」)の創刊者で、「川柳とは人の肺腑を衝く十七音字中心の人間陶治の詩である」と主張した。『旅人』(川柳雑誌社・1953年刊)所収。

2011年5月26日木曜日

●おんつぼ39 クレイジーキャッツ 西原天気

おんつぼ39
クレイジーキャッツ

西原天気


おんつ ぼ=音楽のツボ


東京・大手町の退屈なアスファルトの舗装の上でクレイジーキャッツがステップを踏むとき、勝ちも負けも同時に土俵の外へうっちゃられてしまう。植木等という無責任なサラリーマンは、勝敗というナイーヴな決着から逃げるのではない。それは、神々しい試合放棄。

1959年。クレージーキャッツ初のレギュラー番組『おとなの漫画』(フジテレビ)が放送開始された年、東証一部株価の時価総額は約3.7兆円。その30年後の1989年には約156倍の591兆円に達した。高度経済成長期を、スイスイスーダラダッダと生き抜いた父もいれば、生き抜けなかった父もいる。

生きることは、勝つことでも負けることでもない。勝った負けたのゲームは生きることの一部ではあるけれども、一部にしか過ぎないのですね。

『the法然』(2000年2月)所収「これで日本も安心だ!」を改稿



2011年5月25日水曜日

2011年5月24日火曜日

〔お知らせ〕週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』発売

〔お知らせ〕
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』発売

週刊俳句編の単行本が発売されました。週俳のいわゆる「紙の本」第一弾です。


〔解説執筆者〕
相子智恵、神野紗希、関悦史、
高柳克弘、生駒大祐、上田信治




e本
紀伊國屋書店 Book Web
丸善+ジュンク堂ネットストア




セブンネットショッピング
Yahoo Books
livedoor BOOKS

2011年5月23日月曜日

●月曜日の一句 相子智恵


相子智恵








大混沌押し上げ春の抜け来たり
  佐怒賀正美

『俳壇』2011年6月号「春」より。今年の春は、自分がどんな立場であっても、心が乱れなかった人はいないだろう。自分にとって俳句とは何かという根源的な問いにも、俳句に何ができるかという同調圧力を持った問いにも、私の中でまだ答えが出ていない。こういう問いはきっと、一生持ち続けるべき問いなのだ。早く答えを出してラクになってはいけない問いなのだ。その中で、この句の「大混沌」という言葉に、逆に妙に心が静まった。いつだって俳句が私にくれる果報は大きい。私が俳句にできることなど、ひとつもないのに。

2011年5月22日日曜日

〔ぶんツボ〕種村季弘『好物漫遊記』

〔ぶんツボ〕
種村季弘『好物漫遊記』

文庫のツボ、略して「ぶんツボ」
西原天気




勝手で勘違いな思い込みかもしれないが、自分のなかでは、フランスものの澁澤龍彦、ドイツものの種村季弘というセットが存在した。澁澤龍彦(1928 - 1987)と種村季弘(1933 - 2004)。5歳違いで年代は近い。それぞれフランス文学、ドイツ文学の翻訳の業績を残したが、それよりも、ヨーロッパの歴史・芸術・風物の紹介という面で1960年代から大きな役割を果たしたのだと思う。

好みをいえば、きわめて「文学的」な(くわえて「美学的」といってもいいのだろうか)澁澤龍彦よりも、どこかざっくばらんな感じのする種村季弘の読み物ほうを好んでよく読んだ。

種村季弘には「漫遊記」シリーズという単行本シリーズがある。

書物漫遊記 筑摩書房 1979
食物漫遊記 筑摩書房 1981
贋物漫遊記 筑摩書房 1983
好物漫遊記 筑摩書房 1985

いずれもちくま文庫になっており、今でも手軽に読める。このうち「好物漫遊記」は、それまで書物、食物、贋物とテーマがはっきりしていたのに比して、カテゴリーから洩れたもの感が強い。悪くすれば「出し殻」のようなネタ集になってしまいそうだが、そんなことはない。著者特有の「ざっくばらん」感が横溢している点では、シリーズ中でも屈指と思う。

エッセイの舞台(材料)は著者が親しい東京が多く、過去と(執筆当時の)現在とを話題が行き来するというスタイルが多いが、海外ネタから一部を引く。ドイツ・ブレーメンで遭遇したイタリア人一家のサーカスの話。
 涙の出るほどわびしい一座だった。モギリの小さな女の子が幕間になるとキャンディー売りに変身する。ベルが鳴るとあわてて引っ込んで、今度はラマや犬の動物芸を見せる。騾馬がドタドタ駆けずり回る。すると、ちょっとしたダイニングキッチン程のグラウンドなので、観客はもろに砂埃をかぶってまっ黄色になってしまう。
 装置も小道具も、衣裳らしい衣裳もない。楽隊席に家族全員がかたまって、ワインをラッパ飲みしているうちに、出番が来て、しぶしぶワインを手放した座員がそこからごろごろと転げ出てくる。
ああ、これは、見たい! シルク・ド・ソレイユよりもはるかに。

思うに、この手のエッセイは、「それ、見たい!」「その場にいたい!」と思えたら、おもしろく読んでいるということだろう。半世紀も前の東京の怪しい喫茶店やら飲み屋に「ああ、そこにいたい」と思わせる。著者の「好物」をこちらが愛することができれば、読んでいるあいだはずっと極上の気分でいられるのだ。

2011年5月21日土曜日

●週刊俳句・第212号を読む 島田牙城

週刊俳句・第212号を読む
読みの栄光を考へる

島田牙城


五月十五日、午前十一時四分、新幹線あさま号から上田信治さんが佐久平駅に降り立つ。僕が駅についたのは三分後だつたか。信治さんはⅰパッドをいじりながら待つてくれてゐた。

情けない話だけれど、僕はそれを見るのが初めてで、特にiパッドと一緒に信治さんがいじつてゐる黒い缶詰のやうなものに興味を覚え、なにやかや聞きながら階段を駐車場へと降り始める。

すると信治さんは先づ黒い缶詰を鞄に納めたあと、階段を下りながらiパッドに蓋をした。蓋。たしかに蓋なのだけど、あれはまさしく四つ折の風呂の蓋。はう、信治さんはかういふ新しい機械を難なくへつちやらに使ひこなす人なんだと、それ以上質問することが恥ずかしくなつて、佐久の今朝の霜注意報のはうへと話をずらす。

しかし、僕の頭の中には平べつたい大流行の機械のどこに、あの四つ折の風呂の蓋が収納されてゐたのかといふ謎で満たされてゐた。

面白い事に風呂の蓋が気になり始めると、黒い缶詰のことは頭から抜け出したらしく、たつた今聞いたその缶詰の説明が思ひ出せない、といふか、興味を示す先が缶詰から蓋へ以降するのに一分とかかつてゐなかつたのだろうから、缶詰については本当の好奇心としては成就出来なかつたのかもしれない。

信治さんは僕の車の助手席に坐り、そのまま邑書林の事務所へと運ばれた。

到着が何時何分であつたかなどといふ些細なことは僕は気にも留めてゐないのだが、次に書くことに関係があるので推測してみると、佐久平駅から我が家まではだいたい十二三分かかるのだから、十一時二十分過ぎには事務所に入つたのであらうか。

特段会はねばならぬ話があるわけでもなく、二日前だつたか、信治さんのはうから時間ができたのでふらつと佐久へ行くよとメールがあり、偶然僕の時間も空いてゐたので合はうといふことにしたに過ぎない。俳句の世界のライバルプロデューサーである以前に、「里」といふ月刊同人誌の同人仲間なのだから、情報交換そのものが互ひの俳句観の確認といふことにもなる間柄である。

その日のうちにまた塒へ舞ひ戻るといふのだから、酔狂といへば酔狂、俳といへば俳の來里。

あ、僕は俳人が「里」の本拠地である佐久を訪れてくれることを來里と勝手に言つてゐる。

信治さんとの会話の中心は、俳句をいかに魅力的なものとして読んでもらふかといふこと。ともに俳人でありながら演出家であることをも自任してゐるので、俳論の手前でもありその後でもあるやうな話になる。

その時もまたⅰパッドを持ち出すのだけど、話をしてゐるうちにやばくなるだらうからと、この節電のご時世に我が家のソケットへ信治さんはⅰパッドのコンセントを差し込んだ。

二時間ばかり激論を闘はせた後、飯食ひに行きませうと誘ふので、以前磐井さんたちをお連れしたことのある磊庵といふ蕎麦屋に連れていつた。

事務所を出るとき、信治さんはソケットからコンセントを抜くことを忘れなかつたのは勿論だか、またもさりげなく僕の目の前でⅰパッドに風呂の蓋をした。僕はそれを眇で見ながら、さういえば風呂の蓋を開けるところを見逃したことに気付き、忸怩たる思ひに、信治さんには悟られぬやうに歯噛みした。

磊庵には「里」の同人仲間である土橋とはが同行した。言つてみれば僕の妻である。二人が三人になると、人数は一点五倍なのに、会話は一往復から三往復へと三倍になる。食事の時はその方が楽しからうといふに過ぎないのであつて、磊庵で昼酒を飲むのだから帰りの運転手が必要だ、などといふ不埒なことを思つたわけでは決してない。

磊庵で濃い蕎麦を食らひ、ビールをかつ込んだあと、四時過ぎの新幹線あさま号東京行に信治さんを放り込んで自宅に戻ると、テレビでレッズ対セレッソのサッカーをやつてゐた。僕は信治さんとの会話に酔つたのか、サッカーを見てゐるのか寝てゐるのか分からない状態で試合終了のホイッスルを聞き、中間試験前なのに日曜の昼間からサッカーのテレビ観戦で時間を無駄遣ひしてゐた愚息を子ども部屋へ追ひやつた後、事務所にふらふらとたどり着いてEメールを開けた。

件名「御寄稿のお願い:ウラハイ」。送信者「tenki saibara」。日時「2011年5月15日 11:21」。

何、十一時二十一分とな。この偶然はいつたい何なのだらう。信治さんがこのパソコンの前の机に坐つたちやうどその時、天気さんのメールが飛んできてゐたのだ。

僕はこの依頼メールを安堵とともに読んだ。なーんだ、さうだつたのか、と思つた。

いや、信治さんと天気さんが示し合はせたのだなんて露思はない。偶然なんだ。でも、その偶然の積み重ねが人を動かしてゐるんだな。そしてその偶然が面白いし、その偶然を掬ひあげることこそが俳人の仕事なんだ。などといふたあいない納得。

天気さんに誘われるままに「週刊俳句」二百十二号を読んだ。生駒大祐さんが「読み」について書いてをられた。ほかにも鈴木牛後さんが句集を読んでをられる。また生駒さんと野口裕さんが計三本俳句を読んでをられる。

それぞれの文へ特別に何か語らうとは思はない。教へられることが多いし、俳句にとつて実にいい光景だ。俳句が待望の批評の時代に突入し始めたのかもしれない。

さて、これは逆説的に書くのだけれど、俳句は読まれない歴史を歩んできた。選ばれる歴史は長い。連句の時代は捌によつて選ばれたし、虚子は「選は創作」といふ絶妙のお茶の濁し方で読みすなはち批評・鑑賞を嫌つた。

しかし何時のころからか俳句は読まれるようになりはじめた。そしてついに今、俳句は読みの時代に入らうとしてゐる。

と同時に俳句は句会の時代を続けてゐる。こちらは若干の変化はあつた(例えば句会が極端に少ない「豈」など)やうだが、句座をともにした連句時代から近代、現代と、句会は衰へることを知らない。

選ばれることと読まれること。

俳句関係のホームページをネットサーフィンしてゐると、何の批評・鑑賞も加へることなくただ他者の作品を羅列してゐるページにちよくちよく出会ふ。あれらは明らかに読みではなく選びの世界なのだらう。そしてそれが伝統的俳句の姿なのかもしれない。

嗚呼、何か深みに嵌りさうである。

天気さんからは字数制限はされてゐないけれど、締め切り制限は一応ある。これ以上考へてゐるとそれに遅れる。

この後はいづれ次回といふことにしよう。

一つ気になつてゐる胸の痞へを吐露しておくと、

偶然の産物でありエクスタシーの塊であるやうな俳句といふ一句一句は、選といふ方法によつて深められてきたのだらうが、読みといふ一句解体の作業は本当に俳句のためになるのだらうかといふ思ひが、ぼくの中にあるといふことである。読みが偶然の作に必然を押し付けることがあつてはならない。もちろんそれは読み手の技量の問題もあるのだらうが、読みといふ作業が選びとはちがふ脳の作用に拠つてゐることは確かだと思ふものだから、頭の弱い僕などは混乱するのである。

ここでいふ選びとは、句会などで要求されるスピードを伴ふ選のことである。そこでは、読みを拒絶した瞬時の閃きのやうな選択が要求されるのだつた。

読みの時代に栄光あれと思ひつつ、ふつきれない思ひを捨てきれずにゐる。

2011年5月20日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







人間を取ればおしゃれな地球なり


白石維想楼 (しらいし・いそうろう) 1893~1974

言われてみれば確かにそうだと思った。川柳には膝をポンと打ってなるほどと言わせる「膝ポン川柳」がある。しかし、この句はありきたりのものではなく、それだけではない。「おしゃれな」が上手い。たとえば「平和な」とか「きれいな」なら理に落ちてしまう。人間がいなくなったらどんな地球になるのだろうか想像する。私も地球に生きているその一人だが、人間とは実にやっかいな代物であるとつくづく思う。維想楼には他に<乳房から母の奇麗を吸っている>がある。維想楼は白石朝太郎の別号。『新興川柳詩集』(田中五呂八編・1925年)所収。

2011年5月19日木曜日

●空港

空港

空港で鞄にすわるチューリップ  田中裕明

倒れるまでタイヤ転がる寒い空港  三橋敏雄

空港に着けば酒ありなまこ食ふ  横山白虹


2011年5月18日水曜日

●辞書

辞書

辞書黴びて手沢のくもる夜の疲れ  石原八束

啓蟄見る辞書専用の虫眼鏡  安住敦

青春の辞書の汚れや雪催  寺井谷子

茗荷汁たまには辞書を引きたまへ  佐々木六戈

2011年5月17日火曜日

●おんつぼ38 Leonard Cohen 西原天気


おんつぼ38
Leonard Cohen

西原天気


おんつ ぼ=音楽のツボ




レナード・コーエン(1934 - )はカナダの詩人、小説家、シンガーソングライター(≫wikipedia)。日本では過去に小説『嘆きの壁』が翻訳出版されているが現在は絶版。もっぱら音楽キャリアで知られる人です。シンガーソングライターというくらいですから、歌詞が重要、アルバムのほとんどは基本アコースティックな音で特に初期はフォークソング風味の録音が多い。そのなかで私の愛聴盤は「Death of a Ladies' Man」(1977年)。「ある女たらしの死」という凄い邦題がついています。

このアルバム、ほかとはまったく違う音に仕上がっています。理由は明白。フィル・スペクター(≫wikipedia)のプロデュースとアレンジ。そのせいで、こうなってしまう。まずは1曲。「ヨードチンキ」という曲。



前奏のドラムのミョーチキリンな処理を聞いて、「あ、これね」とフィル・スペクター的処理をに気づく人もいらっしゃるでしょう。ジョン・レノンのカヴァーソロアルバム「ロックンロール」(1975年)などで、そっくりの音質が聞けたように覚えています。

それにしても、恋の傷とヨードチンキ。ぐっと来る曲です。

もう1曲。True Love Leaves No Traces。



なんの跡も残さないのが、ほんとの恋。さっきヨードチンキで言っていたことと違うような気もしますが、これもぐっと来るじゃないですか。

ところで、この「Death of a Ladies' Man」というアルバム、レナード・コーエンのデモテープ(歌だけ吹き込んであったのでしょう)をフィル・スペクターが勝手に仕上げてしまったものらしく、レナード・コーエンとしてはきわめて不本意なアルバムだったらしい。それが愛聴盤というのは、御本人には申し訳ないような気もしますが、とある「才能」なり「情報」なりを「素材」として扱い編集してしまうという作り方も、大いにアリ、予想外のおもしろさを生み出したりすると思うのですが、どうなのでしょう。

なお、フィルスペクターはかなりの変人のようで、いまは刑務所で服役中とか。詳しくはウィキをご覧ください。


2011年5月16日月曜日

●月曜日の一句 相子智恵


相子智恵








噴水や胴上げの人おもたくて
  三吉みどり

月曜日は憂鬱だ、と、言わずもがなのことを言ってすみません。そんな一週間の始まりにぴったりの一句。なんという好ましい脱力感だろう。最初は「噴水」と「胴上げ」の形状が似ていて、軽重の対比も揃いすぎているかとも思ったのだが、このくらいのダメ押しのユーモアが、月曜の朝にはうれしいものだ。電車の中で思い出して、ひとりでニヤリとするとしよう。4月末に出たばかりの新刊句集『花の雨』(角川マーケティング)より。この句集、ほかにも紹介したい面白い句が多いが、一句でぐっと我慢。第一句集。

2011年5月15日日曜日

〔今週号の表紙〕第212号 近恵

今週号の表紙〕第212号 

近 恵


タンポポに彩られた浜の芝地に立つと、海からの風はいっそう強くなった。向こうに見えるタンネエサシ〔※の根本からは、北側へと砂浜が広がる。砂浜は程なく岩礁となり、陸は広大な芝地である。風を避け、芝地から海沿いのクロマツの林の小道へと足を向けた。

この冬は雪が多かった。春先に大っきな地震が来て、それから見たこともないような津浪が来た。浜は舟も小屋もぐれっともっていかれた。防波堤も崩れた。それでもいくつかの舟は残った。今、土は息を吹き返し、波を被ったところからも草の芽が出ている。小道は蛇行しつつやがて岩場まで降りる。しばし視界が開け、ウミネコの糞を浴びた真っ白な岩が見えた。そこからもう少し歩くと、ぽっかりと小さな入り江に出た。ふいに空が広がった。

古から変わらぬ風と波と草木の音、ウミネコと小鳥と、時々雉の鳴き声。天然の岩礁に守られるようにしてあるひっそりとした入り江の漁港は、かつてみちのくの民が「エミシ」と呼ばれ、大和朝廷から怖れられたそれよりも前から漁労が営まれていたのではなかろうか。

種差海岸の天然芝生地から北上し、淀の松原、深久保漁港、大須賀海岸を経て葦毛崎展望台まで約5.2kmに及ぶ種差海岸遊歩道は、5月から9月頃まで400種とも600種とも言われる山野草が花を咲かせる。


〔※タンネエサシ:たねさし。語源は「タンネ・エサシ」が縮まったものと考えられる。アイヌ語で「長い・岬」の意。アイヌ語地名研究家 故山田秀三氏の解釈による。

撮影日:2011年5月6日
撮影地:青森県八戸市 深久保漁港


2011年5月14日土曜日

●週刊俳句・第211号を読む 太田うさぎ

週刊俳句・第211号を読む

太田うさぎ

「週刊俳句」のサイトを開くときに、「さて今週はどんな表紙だろう」となんとなく期待している。比較する必要もないのだが、俳句総合誌のような季節感を打ち出した表紙とは異なり、被写体は団地だったり何かの装置のクローズアップだったり、人気のない浜辺だったり、と1年365日52週のどの号を飾ってもよさそうだ。季題趣味とは一線を画してどちらかと言えばドライなアトモスフィア。

第211号の表紙は「あれ?いつもとちょっと趣向が変わってる?」と思った。オレンジ色の濃淡と柔らかい輪郭がミスティーで、普段の写真と微熱程度の温度差がある。編集後記によると募集第一弾で藤田哲史氏の提供とのこと。なるほど道理で違って見えたわけだと納得。ウラハイの方でその藤田氏が書いている

「貼り付けてあるものとしみ込ませているもののちがいは、時間が経てばわかる、と誰かは言う。」

3月11日以降多くの震災俳句が作られているようだけれど、それらもまた、貼り付けたものとしみ込ませているものにいずれ分かれるのだろう。


写真を楽しんだあと、目次に目を移すといきなり「フクシマ忌」のタイトルが飛び込んで来た。まさしく、飛び込んで来た、というインパクトだった。ナントカ忌で人名以外と言えばまず思い浮かぶのが、ヒロシマ、ナガサキ、の原爆忌。ほかにサリン忌も聞いたことがある(感心しないけど)。作者の白井氏は広島及び長崎への原爆投下を念頭において「フクシマ忌」を考えたのだろう、季語として。しかし、8月6日の広島、8月9日の長崎、あるいは3月10日の東京大空襲とは違い、フクシマ忌とは何月何日と定められるものだろうか。事故から2ヶ月を経てもいっこうに解決の糸口がつかないどころか、これから先更に事態が悪化することも充分ありうる。住み慣れた土地を離れざるを得なくなった日、家業に終止符を打った日、人によってもそれぞれだろう。フクシマ忌とは、ピンポイント出切るものではなく、むしろこの八方ふさがり状況におかれている私達の心理のありようを指すのかもしれない。

並んだ作品10句に原発事故そのものを詠んだものはない。タイトルになっている「フクシマ忌小壜のこれガンジスの水」が暗示的としてもほかは「ケータイがわつと警報後のおぼろ」あたりが震災と頻発した余震を思わせるくらいだろうか。が、タイトルが「フクシマ忌」だとその文脈でもって一句一句を読んでしまうのが人情というもの。大胆なタイトルを持ってきた作者であれば当然それも計算のうちだろう。

  佐保姫とさしあたりポパイの受難
  給食袋いまもゆらゆら花は葉に
  暮れかねて犬替はりゐし知人宅

「さしあたり」「ゆらゆら」「暮れかねて」など、定まらない状態を指す言葉が目を引く。「結婚不向きとは思ふ」のモラトリアムも同様。タイトル句のほかに、ACのコマーシャルがその名を多くの国民に知らしめた詩人の忌の句が冒頭にある。シニカルとも思える視点が面白い。この10句のタイトルが違っていたらまた別の感想を持っただろうか。見出しと中味の関係を考えさせられた。

「俳誌を読む」は『塵風』第3号を取り上げている。私も読んだことがあるが、実に読み応えがあり、”俳句もあるカルチャー誌”といった趣を呈している。仁平勝氏のかなりのめり込んだ紹介に「おお、読みたい」とこちらもつい前のめり。最後の方、自身の著作の引用「つまり俳句は、いわば定型の根っこのところで、歌謡曲を愛する心情とつながっているのです。いくらか独断的にものをいえば、歌謡曲が好きでない人は、たぶん俳句の五七五にもなじめないと思います。」のあたりを読んでふと頭をよぎったことがある。かれこれ十年近く前だと思うが、作家で「肩甲」の俳号を持つ長嶋有氏がたしか「小説すばる」に寄せたエッセイで、五七五ならぬ五九四俳句を提唱していた。うろ覚えだが、昨今の音楽シーンにおける歌詞を見ると、かつての五七五調ではなく、九・四のリズムに乗っているものが目立つ、これは日本人のリズム感が変わってきていることを示唆するのではないか、俳句もいっそ五九四形式を取ってはどうだろう、というような内容だったように思う(立ち読みしただけなので違っていたらごめんなさい)。私は五七五定型主義だけれど、当時周りでは賛同する人もいた。なんだか懐かしい。その後五九四俳句はどうなったんだろう。


話を最初に戻して表紙のことを。たまたま平成6年、9年の『俳句』が出てきたのだが、この頃の表紙はイラストだった。デザインは菊池信義。すっきりしたいい味わいだ。週間俳句も写真だけでなく、絵の表紙なぞも如何でしょうか。ある日曜日、週俳をクリックしたら、ペンギン侍のクローズアップが!なんてのも嬉しい驚きだと思うなあ。

●bloggerに不具合

ブログサービス blogger に不具合

5月12日(木)から13日(金)にかけて、小誌「週刊俳句」および「ウラハイ」「毎日が忌日」が利用しているブログサービス bloggerに不具合が生じ、記事がアップできない状態が続きました。そのため、木曜日と金曜日の両日、記事のアップロードができませんでした。

2011年5月12日木曜日

2011年5月11日水曜日

●二万年四千年あれば 2/2 上野葉月

二万年四千年あれば 2/2

上野葉月


放射線の人体への影響に関して色々調べていると、ソースによって数値に大きな差があるのに驚かされる。

自然科学、医学の分野でもこういうことがあるのかと改めて思う。経済学者なんかだと人数分だけ言っていることが違うなんてことは往々にしてあって政府の財政危機が進むと円が上がる/下がるとか原油価格が上がると景気がよくなる/悪くなる、と人によって結論が真逆になったりもして、経済学なんて社会科学というよりオカルトという印象を強く与えたりたりもするが、普通自然科学分野では数値に大きな差は出ないものだ。

この期に及んでも日本の原子力発電所は構造上、再臨海の可能性は非常に低いと主張する大学の先生が居たりする。本当にそうだったらどんなに良いだろう。再臨海する心配がないなら多くの人命を危険さらしながら「焼け石に水」を毎日繰り返す必要もなく、冷えてしまうまで何十年か放っておくだけでいい。

有名なチェルノブイリの事故でも、公的な数値では人的被害が非常に少ない。一方、消火作業に延べ60万人導入してそのほとんどの人が10年以内に亡くなったという説も根強かったりする。しかしこの60万人については時間をかけて調べても確かのソースにたどり着けない(私の調べ方が悪いのかもしれないが)。旧ソ連以外の国の諸機関も様々な数値を発表していて、そこには大きな開きがある。

考えてみるとチェルノブイリ以前は放射性ヨウ素が子供の甲状腺ガンを引き起こすなんてことは広く知られていなかった。日本のような人口密集地帯で原子炉が四基(あるいは六基)ダメになってしまうなんて人類が初めて遭遇する事態なので、今まで知られていなかったような出来事も当然現れてくるだろう。

どうも比較的確かな研究結果は広島長崎の被爆者の追跡調査ぐらいしかないようだが、いうまでもなく核爆弾は爆発力や熱で人を殺すための兵器で放射線で人を殺傷しようとしているわけではない。広島長崎の場合、放射性物質のほとんどは熱や放射線になっていて環境に残留した放射性物質の量は原発事故と比較しようのないぐらい少ない。しかも爆心地から500メートル以内ではほとんど全員即死、500~1000メートルでは半数がほぼ即死残りの半数のほとんどは三ヶ月以内に死亡(急性の放射線障害で亡くなった人も多いだろうが火傷がもとでなくなった人も多いに違いない)で、生き残った被爆者のほとんどはそれほど強い放射線を浴びているとは考えにくい。ようするに広島長崎の追跡調査で得た数値は、原子力発電所の事故による汚染の影響を予測するのにあまり役に立ちそうにない。

原子力発電推進派の言うことはもとより信用できなかったわけだけど、反原発派の言うこともなんだかやたら感情的な発言が多くて(反捕鯨団体みたいで)どうも付いていけない感じが強かった。原発事故に比べれば核爆弾なんて子供の喧嘩だ、なんて言い草はもしかしたら環境汚染という見地に立てばその通りなのかもしれないけど、あんまり肯いてばかりいられない気持ちになる。

先日、福島を広島長崎と同列に並べて話題にしているのを聞いてひどく違和感を覚えた。しかしあとで考えてみるに放射性物質による環境汚染の程度がまるで違うから違和感を覚えたわけではない。むしろ広島長崎について話題にするとどうも被害者面しているように見えてしまうのではないかという心配があって私は原爆のことをあまり口にしたくないのではないか。しかし福島の場合、日本人は地球環境に対する明らかな加害者側なので、かえって話題にしやすいという部分が(少なくとも私に関しては)ある。最近ブログで福島に関するエントリが多いのもそういう事情が手伝っているような気がする。

広島長崎では短期の強力な放射線照射による初期の胎児への影響が強く、小頭症などの奇形が多く発生したのはよく知られているけど、原発事故による放射性物質の拡散のようなタイプの汚染では胎児への影響はほとんど観察されていないらしい。放射線医学の分野で著名な専門家の本を読んでいたら、あの忘れもしない1986年には欧州で十万件以上の奇形児を恐れた堕胎が行われたと書いてあったけど、なんやかや云いながらカトリックの影響の強い欧州で十万件も堕胎が行われたとはにわかに信じがたい。ともあれ放射線の胎児への影響は主に死産という結果に至りやすいので奇形児を恐れての堕胎というのは当に的外れな行為なのだそうだ。

チェルノブイリの時も意外に感じたのだけど(あのときは2000km程度の距離だった)、人間は放射性物質の環境汚染ではあまり逃げ出したりしないものだ。やることといえば窓を閉めて牛乳や卵を摂らないようにするぐらいのものである。

仮にもし東京で小児ガンの発生率が爆発的に増加することになり1000人中、5~10人という予測が立ったとしても、1000人中900人以上の子供はガンにならないという考え方は可能だ。もしかしたら今後マスコミもそういう論調を率先して流すかもしれない。

たとえば南米に仕事なり親戚なりの伝があって移住可能な小さな子供を抱えた夫婦があったとして、実際に移り住んだら福島からの距離は安心なものになるだろうが、子供が犯罪などに巻き込まれて死んでしまう可能性は東京に留まって小児ガンになる可能性を上回るように見える。

しかし結局のところ、人間はそのような計算で行動したり生活したりしていくものでなく感情面に大きく依存しているので、選択はより複雑で困難な様相を呈するだろう。幼い子供を抱えた親というのは風邪で咳をしていてすら実際に不可能なのに「代わってやれるものなら代わってやりたい」と本気で思ったりする。ましてある程度状況が判断できる年齢で甲状腺ガンを発症した子供が「住んでいたらガンになるかもしれないのに何故東京に残ったの?」と聞いたとき「面倒くさかったから」と答えられる親というのは数が少ないはずだ。

今幼い子供がいる人たちや今後結婚して子供を持つであろう人たちは、今まで余りお目にかかったことのない独特の困難に直面していくのではないか。

私はかなり近い近親者に“ゆとり”とバカにされながら育った世代の人間がいるけど成人した途端こんなタイプの何十年と続く重荷を背負わされてしまったのを見てほとんど判断停止とも言っていい状態に陥っているかもしれない。

あまり期待していないのだけど多くの僥倖が重なって今回の原子力発電所の事故による土壌汚染がこれ以上進まなかったとしても、東北関東会わせて五千万程度のサンプル数が利用可能な大規模な調査が可能になる。さっきも書いたように人間はいざとなってもあまり逃げ出したりしないものだ。

今後30年ほどで、放射線の長期的な照射による健康被害が言われていたほど恐ろしいものなのか、あるいは人間の免疫力や自然治癒力が予想された以上に強いのか、かなりの程度はっきりすることになるだろう。このデータは放射線医学の分野で人類の大きな宝になるはずだ。最近は暗いニュースばかりだが、これなんてもしかしたら明るいニュースなのか。

(了)

2011年5月10日火曜日

●二万年四千年あれば 1/2 上野葉月

二万年四千年あれば 1/2

上野葉月


大丈夫、二万四千年あれば放射能除去装置を開発できるよ。

これは私のオリジナルでない。上記と同傾向の冗談は3月14日の三号機爆発やその数日後の福島第一原子力発電所周辺でのプルトニウム発見の報道時にもネット上でいくつか見た。同じようなことを多くの人が考えつくことはわかっていても、まあ言いたくもなろうというものである。

とにかく現在日本が陥っている状況はあまりに見事なため何を言っても自爆的上げ足取りに終始してしまいそうな予感。こういう状況で脈絡ある発言はさすがに難しい。同時に怒りとか緊張感のようなものを何週間も維持し続けるのは難しいということを如実に感じるこの頃。ましてそれを何年間続けようともなれば生活に追われることを専らとする我が身では。

一万年二万年とは言わないが、今後かなり長い間、現代人(特に現代日本人)は史上最愚の人類として記憶される可能性は高い。そういう愚者の愛玩物として私の好きなマンガやアニメも後世の人間の研究に曝されるかと思うとなんだかちょっと寂しい。まあ千年もしたら「役人の腐敗がもとで国が滅んだ」というよくある一行で片付けられてしまうだろうけど。

もう三十年ほど前の三原順のマンガなのだが、私もよく憶えている。当時『LaLa』は毎月買っていたので誌面で読んだ。考えて見ると定期購読した雑誌なんて生涯を通して後にも先にもあの時期の『Lala』だけだ。

http://choipic.livedoor.biz/img/5469af30b09c.jpg

「電力会社は、原発で事故が来たとき、マスコミからの追及に、どう逃げ、どの辺で嘘をつくべきか、という計画も練っているって本当?」

この台詞は「電力会社の負担分を電気料金に上のせしてまた私たちに払わせるのでしょう?」という台詞と共に印象的で、当然電力会社は色々準備しているのだろうと思っていた。でもどうやら日本の電力会社の場合、長年マスコミに巨大な広告料を払い続けるというワンパターンの戦略しか持っていなかったらしいことが今回の対応で明らかになったと思える。

「絶対安全」なんてあり得ないのはもちろんだが、原子力発電を推進している側がまさか文字通りに「安全」を前提に振る舞っていて、原子力発電所事故への対応をまったく準備していなかったなんてさすがに想像を越えていた。口では安全と言っていても実際に運用している立場だったら当然、非常用のあれやこれやを密かに用意していると漠然と想像していた。これまでも汚染水の流出とか放射線漏れとか毎年のように起こっていたのに、まさかきちんとした防護服ひとつ持っていないなんてちょっと普通じゃない。

福島以降の数日程度で国際電力カルテル(とでも呼ぶしかない連合体)はおそらく今回の事故に関して東京電力の怠慢運用が原因であり原子力発電所というシステム自体の欠陥ではないのだという方向で話を進めることを決定したように見受けられる。政府の監督責任とかメーカーの製造責任とかは棚に上げられている感が強い。

それにしても東電の体質とか態度が誇張されて喧伝されているというのではなく、インターネットなどに出ている情報が事実に近いものだったとしたら目を覆うばかりの殿様商売ということになるだろう。

それにしても国土の大半を失う可能性すら内包する危機をいくら世界最大の電力会社だからとは云え一企業に預けっぱなしにしているというのはどういうことなのだろうか。こういう大戦争にも匹敵するような国家的な危機の対処をサラリーマン(それも揃って無能そうな)に任せる政府って何なのだろう。誰もが長年乱用してきた言葉なので使うことは憚られるとは云えやはり平和呆けという言葉を思い出す。なんにしろ、いつの間に誰も責任を取らない社会の住民になり果てていたのか。

三月半ばにはインターネットの掲示板で1950年代には大国が核実験を頻繁にやっていて放射性物質が大量にまき散らされたので多少また降ったところで今更たいした影響はないという発言をよく見かけるようになった。ネットには工作員が出没するという話は前から見聞きしていたが今回は実感することが多い。

福島県の小学校の校庭で子供達が体育の授業ができるように政府が許容量の基準値を20倍に薄めたときには、多くの人達と同じように呆れてものも言えないような状態になった。福島以前ですらあと二百年もしたら日本人はいなくなってしまうだろうと言われていたぐらい少子化が進んでいたのにこれ以上子供を減らしてどうする、ってなものである。

(つづく)

2011年5月9日月曜日

〔今週号の表紙〕第211号 藤田哲史

今週号の表紙〕第211号

藤田哲史


そのカフェには、マスキングテープで写真をアルバムに貼り付けただけの写真集があった。
もちろんその写真というのは、インクを紙に噴きつけたものではなく、
化学反応でもって像を定着させたものだ。
いいかえれば、インクを紙にしみ込ませている。
そういうことをしている。貼り付けてあるものとしみ込ませているもののちがいは、
時間が経てばわかる、と誰かは言う。

(撮影場所 千石カフェ

2011年5月8日日曜日

●母



母の日の常のままなる夕餉かな  小沢昭一

母の額椿落ちなばひび入らむ  八田木枯

白玉やくるといふ母つひに来ず  星野麥丘人

母は沢蟹冬夕焼の音となり  高野ムツオ

母が割るかすかながらも林檎の音  飯田龍太

米洗ふ母とある子や蚊喰鳥  中村汀女

木蓮や母の声音の若さ憂し  草間時彦

今生の汗が消えゆくお母さん  古賀まり子

赤い羽根つけてどこへも行かぬ母  加倉井秋を

陽炎や母といふ字に水平線  鳥居真里子

ひばり鳴け母は欺きやすきゆゑ  寺田京子

2011年5月7日土曜日

●私が川柳大会について知った二、三の事柄 関悦史

私が川柳大会について知った二、三の事柄

関 悦史


去る四月九日に岡山で川柳雑誌『バックストローク』の大会があり、樋口由紀子さんの招きで、選者の一人として参加してきた。

この選者の話は去年のうちに決まっていて、その後震災が起こり、行けるかどうか危ぶまれたが、当日までには、ともかく常磐線が動くようになったので参加できたのである。

初めて行った岡山は、当然のことながらこちら茨城と違ってブルーシートのかかった屋根もなく、壁の崩落したビルも、崩れたブロックも何もなく、それが却って異様に見えた。皆放射能に注意することもなく、水も普通に飲んでいた。


川柳では俳句でいうところの句会というのはあまりなく、「大会」という形式が一般的らしい。百人から数百人くらいが一堂に会して、複数の兼題全部に対して投句するのである。投句は膨大な量となるので、いちいちにコメントしている暇はない。

そもそも参加者は講評にはあまり関心がなく、自分が採られたかどうかが問題なのだそうだ。選者に採られることを川柳では「抜ける」という。

さらに選句のしかたも、基本的に選者の好き嫌いでいいらしい。選者個人の川柳観と普遍性とのすり合わせを飛ばせるわけで、批評が育ちにくく、文芸ジャンルとしての自律性が得にくいというのは、この辺にも原因がありそうである。


選者自身も投句しなければならないので、会場に着くとまずナンバーを打たれた短冊帳を一部渡される。このナンバーによって、披講の際、誰の投句かが本人にはわかる。


会場でトークショーをやっている間に、選者たちは別室にこもり、選句作業。この日は何百句かある中からの、四十句選だった。並選が四十句、準特選が二句、特選が一句だったと思う。披講ではその後最後に「軸吟」と称し、選者当人がその題で詠んだ句を披露する。「軸」吟というのは、自分の選考基準はこうだという見本ということらしい。


ここで私は選と見直したを終えた後、時間が余ったので、何の気なしに、選んだ句を全部番号順に並べておいた。

これが実は川柳大会最大のタブー(?)であったらしい。

私が披講する番になり、採った句を読み上げはじめたら、五、六句目あたりから、これはどうも番号順に並べられてしまったらしいと悟った会場がザワザワザワとどよめき、笑い始めた。

終わってから樋口さんが、言うのを忘れていた、まさか番号順に並べるとはと飛んできた。川柳大会の披講はランダムに並べるか、後ろの方ほどだんだん良くなるように配列するかのどちらかなのだそうで、番号順の披講というのは私に実際にやられるまで予想すらしなかったらしい。ここが少々不思議なところではあるが、俳句関係者は今後川柳大会の選者を務める機会があったら、一応念頭に置いておいたほうがよいかもしれない。俳句関係の何人かと話したが、川柳大会のこの習慣について聞いたことがあるという人はいなかった。


披講の際の朗読は選者皆堂に入った朗々たるもので、採られたほうは採られたほうで、奇妙な節回しをつけて名乗りを上げる人もいる。

俳句の朗読に関しては、私はかなり難しいのではないかと思ってきたが、同じ五七五でも川柳では普通に朗読が成り立ちそうである。

耳で聞く際、単語全部をしっかり聞き取った上で「行きて帰」って句の中の飛躍や断絶を頭の中で再構成する手間隙をかけなければならない俳句と、行きっぱなしで済む川柳との、構造上の違いが関係しているのかもしれない。

2011年5月6日金曜日

●夏来る

夏来る


朝月のうすれうすれし立夏かな  久保田万太郎

夏立つや忍に水をやりしより  高浜虚子

おそるべき君等の乳房夏来る  西東三鬼

夏立つやわがために開く自動ドア  浦川哲子



2011年5月5日木曜日

●鯉幟

鯉幟


鯉幟きそふ緑のありてよし  後藤夜半

鯉幟立つべき緑ととのひぬ  後藤比奈夫

鯉幟なき子ばかりが木に登る  殿村菟絲子

鯉幟大垂りに垂れ昼餉せり  永井龍男

鯉幟弁当持つて歩きたし  藤田湘子

畳まれて眼の金環や鯉幟  有働 亨

ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり  鴇田智哉


2011年5月4日水曜日

2011年5月3日火曜日

●週刊俳句・第210号を読む 山田露結

週刊俳句・第210号を読む

山田露結

10句作品より。リンク
ぶらんこにきて上履きと気づきけり 今村 豊
噴水に犬の肉球あらふ人
プールより見られて渡り廊下ゆく

日常風景の中からやや穿った視点で一齣を切り取ることによって生まれる仄かな笑い。バランスの取れたほどよい力の入れ具合が心地良かった。
プロフィールに「2005年頃より句作開始。2007年「澤」入会。」とあるから若い人だろうか。前回、第208号福田若之氏の作品も好感を持って読んだが、このようなさまざまなタイプの若手の登場には、やはり刺激を受ける。


■週刊俳句時評第29回「被災と俳句」より。

今回の東日本大震災で茨城県土浦市において被災した関悦史氏の記事である。
私はツイッターを通して関氏の被災した状況を断片的にではあるが知っていた。記事によると氏のところへは震災直後から俳句つながりの人たちから数多くの支援物資が届けられたようである。しかも、一度しか会ったことのない人、一度も会ったことのない人からも物資を送りたいという申し入れがあったという。
私は関氏とは一度だけだが面識がある。ツイッターを通じてやりとりをしたこともある。しかし、私は氏に支援物資を送らなかった。この記事を読んで、私は自分が薄情な人間なのかも知れないと少し自分を責めたくなってしまった。

さて、記事の中で氏は「季語歳ブログ」(http://kigosai.sub.jp/002/)について触れている。
私自身もこのサイトで震災俳句を募集しているのを目にして唖然とした覚えがある。震災をネタに作品を作ってはいけないとは思わない。思わないが、いくらなんでもタイミングが早すぎはしないか。地震があったのが3月11日、当ブログで震災俳句・短歌を募集しはじめたのが13日。待ってましたと言わんばかりのスピードである。しかもここに掲載された作品は早々に『大震災をよむ』として纏められ、刊行されている。http://kigosai.sub.jp/
また、これに先立って刊行された『震災歌集』は、その印税を義援金として寄付するのだという。http://www.koshisha.com/?p=1708
「さりながら、死ぬのはいつも他人ばかり」(デュシャン)。命を失いはしなかったまでも、壊滅的な打撃を被ることになった人たちはみなこの「他人」の位置へと暴力的に自分が追い落とされたことを感じたことと思う。
「励ます」というアクションは、無事に済んだものからこの「他人」へかけるものであり、いかに善意に満ちていようと、それとは無関係に「励ます」という行為そのものによって、無事な者と「他人」となってしまった被災者との絶対の懸隔をまざまざと見せつけるのだ。
義援金を送ることは大切なことである。どんな形であれ、現金は救援物資とともに現在早急に必要な物であろう。しかし、他に方法はなかったのだろうか。この、多くの人の善意を利用した主催者側のイメージ戦略とも取られかねないやり方以外に本当に方法がなかったのだろうか、という思いがどうしても残ってしまう。
この励ましを「挨拶」の一種と捉えるならば、時機を失していると思われる。葬儀に参列したら遺族を励ます前にお悔やみを述べ、悼むのが先決ではないか。
当事者である関氏だからこその切実な思いであろう。
関氏はさらに『俳句』五月号に掲載された高柳克弘氏と神野紗希氏の作品とコメントを引用し高柳氏の「詩歌は社会に対する実効的な力を一切持たないが、そのことを恥じる必要はないだろう。役に立たなければ存在意義が無いという考え方が、原発を生んだのだから。今後も何の役にも立たない俳句を作っていきたい。」というコメントに触れて次のように述べている。
高柳克弘のコメントを私流に敷衍すると、これは合理性・有用性を全否定して脱却をはかるといったことではないし、無用であること自体に居直る裏返しのロマンティシズムやイロニーでもない。合理性と非合理性、有用性と無用性という、異なる水準においてどちらもそれぞれ機能していなければならないバイロジカルのうち、前者すなわち合理性や有用性の圧倒的な肥大化と暴走に対し、後者、非合理性や無用性を育みかえす道を探ること、その潜在する経路の一つを詩歌に求めたものとして捉えるべきだろう。
高柳、神野両氏のコメントには私自身、深く共感を覚えた。俳人が表現者として今回の震災の影響を受けないでいることは不可能だろう。今後、それぞれの俳人がそれぞれの立場において震災と向き合って行かなければならないと思う。そして、いかなる場合も「詩歌は社会に対する実効的な力を一切持たない」ということを常にそれぞれの胸に留めておく必要があるのではないかと思うのである。

いち早く(善意の)震災俳句を募集し、それを纏めたものを刊行し、印税を義援金として寄付するというのは、ともすると肥大化した合理性や有用性に寄り添う行為、つまり「役に立たなければ存在意義が無いという考え方」を詩歌表現の場に持ち込むことにならないだろうか。
そんなことを今回、関氏の記事を読んであらためて考えさせられたのである。

最後に関氏の記事にあるデュシャンの言葉から以前読んだ本の中の一文を思い出したのでここに引用し、今回の問題、さらには関氏の言う「人に人を救うことは出来ないという厳然たる事態を前にして、俳句がとり得る一つの倫理の形」について考えてみたいと思う。

寺山 ここに編集部のあげた三首の歌がありますけど、そのなかで最初に奇異に感じたのは前田夕暮の歌です。

 生涯を生き足りし人の自然死に
    似たる死顔を人々はみむ

とありますね。
吉本 つまり自分の死ぬのを愛した歌ですね。死顔を予想してつくっておいた歌ですね。
寺山 ぼくらが死について考えるとき、マルセル・デュシャンの「死ぬのはいつも他人ばかりだった」という言葉がいつも思い出される。確かに死ぬのはいつも他人ばかりなんですね。自分が死ぬということを自分は見ることも語ることもできない。それを経験化することはできない。
 にもかかわらず「死ぬのはいつも他人ばかり」というひとつの真理を引き受けながらこの歌を読むと、ナルシスティックなものとしてとらえたらいいのか、酷薄的なもの、リゴリスティックなものとしてとらえたらいいのか非常にとまどうわけです。
(略)
寺山 ここには死を認識しようとする姿勢がまったくないんですね。まるで「面打ち」が、面をひとつ打ち終わって、その出来具合を人々がどう見るだろうか、気にしている。
吉本 そう思いますね。
寺山 そういう意味で死がいとも軽やかに定型化してゆく過程の中で、自己慰藉の心のうごきが手にとるようにわかる。少なくともこれをつくったときの夕暮は元気だったのではないか、そして死を忘れていたひとときにできた歌なのではないか。
(「死生観と短歌」寺山修司/吉本隆明「寺山修司対談選・思想への望郷」講談社)


2011年5月2日月曜日

●潜水艦

潜水艦

青蚊帳に父の潜水艦がいる  菊地京子

クーラーのしたで潜水艦つくる  大石雄鬼

屈強のタオルを運ぶ潜水艦  攝津幸彦

松虫や兄は潜水艦乗りだ  相原左義長


2011年5月1日日曜日

●週俳の誌面は皆様の寄稿でできています

週俳の誌面は皆様の寄稿でできています


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