週刊俳句・第214号を読む
田島健一
深夜2時。週刊俳句第214号を読む。
読む、というより眺めている。三矢サイダーを飲みながら。
一日の仕事を終えて、ある意味途方にくれている時間。
ああ、僕は、つくづく俳句がなくても生きていける。
そんな時間に、こうして週刊俳句を眺めている僕は、一体、何を読みたいのだろう。
週刊俳句第214号の誌上では、俳句についていろいろな視点から論じられている。
それを眺めている僕はそこでは運命のように第三者だ。
それは、いい。
実は、そこに「書かれたこと」自体に、僕はあまり興味がない。
そこに「書かれたこと」は、もう既に、通り過ぎてしまった情熱でしかないからだ。
俳句を読むときも同じだ。
むしろ、それを「書くこと」─ 正確には、その「書くこと」と「書かれたこと」とのあいだの距離が僕の興味の対象だ。
それがなければ、僕にとって俳句は意味がない。
「書かれたこと」の美を支えているものは、この「書くこと」と「書かれたこと」との間にある。
「誰か」が「何か」について書くとき、その「何か」は「誰か」にとっての対象にとどまらない。いつしか、その「何か」はその「誰か」を構成する。「書くこと」と「書かれたこと」との間にあった、言わば「信じる様式」のようなものが、いつしか「書かれたこと」そのものになっていく。
これは、不思議なことだ。
けれども、これがなければ、「対象」は永遠に「対象」のままで、もうしそうであるならば、すべての物が─俳句も景色も、週刊俳句も、すべてが僕の目の前から消えてしまう。
・・・と、ここまで書いて、急に睡魔に襲われる。仕方ないので、寝ることにする。既に深夜3時をまわっている。明日も仕事。
そして、翌日。仕事から帰り、再び深夜2時。
昨日書いたところを、読み直す。
自分でも、何が言いたいのかよくわからない文章に、へこたれる。
これで「週刊俳句を読む」というテーマにそっているのだろうか。
はて。
まあ、いい。
天気さんからは、気楽に書いていい、ということなので、引き続き書く。
なんだっけ?
ああ、「書くこと」と「書かれたこと」の話。
それにしても「書くこと」と「書かれたこと」についての話はややこしい。
きっと読んでいる側も、この「書くこと」と「書かれたこと」との違いについて、ピンと来る人は少ないだろう。
どうしよう。
そう、僕は「読む」とはどういうことなのか、ということについて、週刊俳句第214号を眺めながら考えているのだ。
この号では、今井聖さんが佐々木ゆき子という俳人について書き、関悦史さんが彌榮浩樹さんの書いた評論について論じ、松尾清隆さんが上田信治さんの句について書き、藤幹子さんが、俳誌『豆の木』について書いている。
みんな、何かに「ついて」書いている。「書く」ということは、そういうことだ。
で、僕はそれを「読む」
それを読みながら
・・・とここまで書いて、ふと気がつくと部屋の床にうつぶせになって寝ていた。午前4時半。あ、寝なきゃ。明日も仕事だ。
というわけで、続きはまた明日。うーん、遅々として筆が(キーボードが)進まない。書くのが遅くて、ごめんなさい。
そして、三日目。仕事から帰ってきました。風呂上り。深夜1時54分。
続きを書く。
みんな、何かに「ついて」書いているのだけれど、それを「読む」僕は、何かに「ついて」読んでいるわけではない。
つまり、書いた人の思考を書いた人と同じ順序で歩んで行くわけではないのですね。
うん、三日目にして、ようやく自分が何を書きたいのかが見えてきた。
そう。
例えば、藤幹子さんが「豆の木」について書いていますが、ま、「豆の木」の当事者としての僕は、くすぐったいやら、うれしいやらで、まぁ、こころの中では小躍りしながら、一方では「そんなに、大したものかねぇ」なんて思うところもあるのです。
でも、このような感想だけでは、この藤幹子さんの文章を読んだことにはならないのですね。
この藤幹子さん・・・ああ、まどろっこしい。いつもどおり、ふじみきさんと呼びますが、このふじみきさんが、この文章を書いたことで、「書くこと」と「書かれたこと」とのあいだに生まれた裂け目のようなものを、じっとみつめることが、本当の意味で「読む」ことなのだろう・・・と、そういうことが言いたいわけですね。
その裂け目には、ふじみきさん自身が気付かなかった、息づかいや言い淀みのようなものがあって、またそれを感じながら、シャイに振舞うふじみきさんの言葉づかいの中に、読み手としての僕が感じるところがあるのです。
もちろん、「週刊俳句第214号を読む」というテーマでは、その「感じ」について書くべきなのでしょうけれど、それを書かないところが、僕のひねくれているところなんだな。
だから、そういう意味で、今井さんが俳人・佐々木ゆき子について書いたことにも、関さんが、彌榮浩樹の書いた評論について書いたことにも、松尾清隆さんが上田信治さんの句について書いたことにも、僕はすごく感じるわけです。
言わば、そうして書かれたものは、書いた人の一種の「態度表明」になっているから。
書いた本人が、そう思っているか思っていないかに関わらず、それを書いたということが、その人自身のある意味すべてを表出してしまっている、ということ。
これは、一種の推理小説を読んでいるような面白さがあるわけですね。
「そのとき、なぜ犬は吠えなかったのか」ということを指摘するホームズのように、「なぜ、セキエツは「1%の俳句」について論じなければならなかったのか」ということが、僕の興味の中心にあるわけです。
もちろん、そこに「書かれたこと」はそれを読み解くための手がかりなわけですけれども、それは直接的に問題の中心を指し示していないのですね。
だから、その「書かれたこと」は「書くこと」との関係性のなかで、ほんとうにその筆者が書きたかったこと(書くべきだったこと)が浮かび上がってくる。それはもっと言えば、そこに書かれていないことが、書かれている瞬間なんですね。
その意味で─そこに書かれていないことを、書き手が書いてしまっている─作者は、作者以上のものなのです。
もちろん、これは週刊俳句第214号を読みながら考えているのです。
この号は、文章が中心ですけれども、俳句作品を読むときも、僕はそうやって読んでいるわけで、こうして夜な夜な、週刊俳句第214号を眺めながら、まるでそれが一句の俳句作品のように─つまりは、大きなひとつの景色のように、僕は限りない第三者として、じっと眠気を耐えながら、ディスプレイを見つめて、そんなことを感じているのでありました。
ああ、無駄に長い文章。
とりとめのない。
おやすみなさい。
たじま。
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