2011年6月22日水曜日

●週刊俳句・第216号を読む 野口る理

週刊俳句・第216号を読む

野口る理

「詠む」と「読む」は似ている。

手元の広辞苑で調べてみても「よ・む【読む・詠む】」とあり、
「読む」と「詠む」は、一項目に同居している関係だ。

「詠む」とは言語化されていないものを「読む」行為だと言えよう。
たとえば風景や心情など、眼前の未言語を「読む」行為である。

「未言語状態のもの」は、
人間が詠まずともただそれとしてあり、完成しているものである。
それを言語化することは、その本質を変形させてしまう行為でもあり、
そこに構成された「言葉」が本質以上のものであるとは限らない。
それでも我々は、詠んでしまう。

「作品」を「読む」ことも同じである。
「作品」は読者が読まずともただそれとしてあり、完成されている。
「作品」を読み、たとえば文章にするということによって、
その「作品」の本質は、変形してゆく可能性を多分にはらんでいる。
読むために尽くした「言葉」が、「作品」以上のものであるとは限らない。
それでも、読むのだ。

それは、なぜか。



作者に人生があるように、読者にも人生がある。

誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、誰に、どのように、どれだけ(6W2H)。
「作品」のコンテクストを考えるときに少し意識するところであろう。
「読まれたもの(散文)」にも、これを意識することはできる。

これを意識することが、
作者の眼前にある「未言語状態のもの」にとって、
読者の眼前にある「作品」にとって、
意義があることもあれば、ないこともある。

その差は、なにか。



生駒大祐氏の「世代論ふたたび」は、
作品のコンテクスト、つまりは作家について非常に意識したものである。
このような世代論を、生駒大祐という人間が書く、ということに、
文章以上のものを受け取り得る。筆者のコンテクストだ。
この文章以上のものを受け取る意識そのものに、
受け手自身のコンテクストが、もう関わり始めている。

かまちよしろう氏の「そんな日」は、
「未言語状態のもの(未イラスト化状態のもの)」を、イラストにしたもの。
イラストと言葉の違いについては、稿を改め考察してみたいところである。

今回の「週俳5月の俳句を読む」は執筆者が六人いる。
もちろん内容は六人六様で、
だからこそ、筆者(読者)のコンテクストなるものが活きるのだろう。
野口裕氏の「林田紀音夫全句集拾読」も同様である。


心あるひとならだれしも、けっして自分自身の知性によって把握されたものを、言葉という脆弱な器に、ましてや取り替えもきかぬ状態に――とは、文字でもって書かれたものの状態に、ということだけれども――、あえて盛り込もうとはしないであろう。
「書簡集」(『プラトン全集 14』長坂公一・水野有庸訳、岩波書店、2006)
それでも、言葉しかないのだ。



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