〔ネット拾読〕15
天使って一羽二羽と数えるのだろうか(上)
西原天気
ひさしぶりです。前回は2009年8月16日、2年以上前ですね。
さて。
調べることは大事です。
■〔週刊俳句時評52〕相対論の果て スピカ第1号特集「男性俳句」を読む 生駒大祐
俳句愛好者全体では女性が多数派(ある試算では6割。もっと多いような気がします。実感としては)であるにもかかわらず、「「諸家自選五句」という記事に載っている俳人695名の中の女性率」はたった3割だったそうです。
生駒氏は角川『俳句年鑑』をめくり、数えてみたわけです。
この、とりあえず数えてみるということが、とても大事だと思います。ワケのわからん抽象論の堂々めぐりをやってるよりもはるかに。
全体では多数派の女性が、「諸家自選五句」欄に選ばれた俳人700名(これ、いわゆる「俳壇」を一例として表象するものと、まえまえから思っています)という枠組みでは逆に少数派であるという、例えば昔ながらのフェミニズムには恰好の社会的事実が、生駒氏の「数えてみる」という仕事によって、はっきりと確認されたわけです。
この時評の最大の功績は、ここでしょう。私も、数的にはどうなんだろう?と思っていたので、これはうれしかったです。
ただ、この記事、疑問に思うところもありました。
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まず、ひとつは、「男性俳句」という捉え方(それが同時に「女性俳句」という捉え方の因習性を衝いていることはこの時評にあるとおり)と、俳句に作者名が貼り付いてくる事情(生駒氏が「パラテクスト」と括ったもの)とは、また別の問題であるような気がします。
「男性俳句/女性俳句」とは、
A 男性(が詠んだ)俳句/女性(が詠んだ)俳句
という意味も、あるにはありますが、問題となるのは、
B 男性(性を成分として含む)俳句/女性(性を成分として含む)俳句
という意味でしょう。言い換えれば、男性/女性っぽいネタ、男性/女性っぽい語り口…等々、俳句そのもの(=テクスト)の事情。それは、作者名を抜きにしても充分に論じることができるように思います。
もっと言えば、作者の性別とは離れて(作者という性別の署名がなくても)、句(テクスト)に表出する〈男性〉性/〈女性〉性というものがあり、それが論題のはずです。
(作者の性別を論じるに終始すれば、それは文芸を論じるというより、むしろ社会学的なアプローチ)
すこし話を戻せば、生駒氏言うところの「パラテクスト」抜きで、テクストにおける〈男性〉性/〈女性〉性を分析なり批評の対象にするほうが、稔り多かろうと思います。
そのうえで、署名された「作者」の内容へと射程を広げるのもよいのですが、例えば「女性である作者」が詠んだという事実をスタート地点に、句(テクスト)における〈女性〉性を考えるというのでは、従来の評伝的作家論、作者ブランド依存型観賞と、それほど変わりがないことになってしまいます。
(明日に続く)
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