気がつくと家じゅうが時計だらけだった人
さいばら天気
はい、こんにちは。また日曜日がやってまいりました。
* * *
●蝉鯨 from みしみし 三島ゆかり俳句日記
http://misimisi.exblog.jp/11727193/
「背美鯨」か「背見鯨」か。湯桶読みの「背美」には無理があることからしても、三島ゆかり氏の「背見」説に一票。
で、ひょっとして「蝉」には似ていないのか?とふと思い、見てみますと…
http://www.pref.mie.jp/haku/Hp/Collection/Makimono/Img/kujira.jpg
http://www.sdnhm.org/research/readings/images/fn_307whalejump_400w.jpg
似ているような似ていないような…。
似てないか。
* * *
権利侵害について。
●クリプトンさんがミイラになりつつある件 from ひろゆき@オープンSNS
http://www.asks.jp/users/hiro/61745.html
簡単に経緯を説明すれば、動画投稿サイトに、初音ミクが「白いクスリ」という「碧いうさぎ」(酒井法子歌唱)の替え歌が投稿された。それをクリプトンという会社(初音ミクで商売をしている)が権利侵害として、削除要請したというもの。
コメント欄では、法律上のことやらなにやらが書き込まれていますが、これ、パロディ等への寛容と不寛容の問題でしょう。どの分野でも持ち上がる問題です。
(ところで初音ミクって何?)
原典(オリジナル)がある。それを参照にしていろいろな遊びがある。パロディ、本歌取り、返歌…等々。
そこに、オリジナル側から「権利侵害」などというのは、どうなんでしょう?
おおざっぱに次のふたつはまったく別物です。
A)パロディ、本歌取り、返歌
≫オリジナルの存在の尊重
≫オリジナルが周知であることが前提(知っといてもらわないと成立しない)
B)剽窃・盗作
≫オリジナルの存在を秘匿
≫オリジナルが周知でないことが前提(知られていると、まずい)
パロディや本歌取りの原典であることは、オリジナルとして一種の名誉であると考え、法律上はいろいろあるにしても、寛容の態度をとるわけにはいかないもんでしょうか。
どのようにパロられるかもすべて受け入れる。原典としての寛容な態度というか。
髭のモナリザもまた、名画モナリザの原典としての偉大さを証明するもの。ダ・ヴィンチは怒ったりしないと思います。話が大きくなりましたが、合法・非合法という基準とは別に、寛容か不寛容かという態度選択があるはずです。
* * *
このあいだ終わったばかりの俳句甲子園関連で少し…と、話に入る前に、「短歌甲子園」もあるんですね。≫告知ホームページ
さて「週刊俳句」第121号には関連記事3本。そのなかで…
●佐藤文香氏「夏休みグラスに砂を満たしけり 第12回俳句甲子園 うちらの場合」
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/08/blog-post_16.html
人の評価ってのは、ほんと、さまざまです。個別の句については控えますが、敗者復活戦だって、「七夕や宇宙飛行士ブログ書く」は「こりゃ絶対ないな」と私などは思います。でも、これだって「先生方」が選んだわけですよね。いろいろな感想や評価があるんでしょうし、あっていい。それよりも、この記事のハイライト(?)は、こっちでしょう。「七夕や子供に渡す聴診器」についての次のくだり。
審査員の先生は「これは病院の診察室でのことですか」のような質問をした。それは読者が考えることだから、那須くんは「診察室でなくてもいい、七夕に子供に聴診器を渡す、それだけ」のような応え方をした。そしたら観客席の、ある高校の引率の先生が「はっはっはっわからな〜い」と手を叩いて笑った。そのあたりの人達や違うところでも笑っていたね。(前掲・佐藤文香)このことを、「程度の悪いのは、どこにでもいる」としておくのか(個別の問題)、それとも俳句甲子園、ひいては俳句世間全体の〝病〟のようなものと捉えるか。……どうなんでしょう?
どっちの俳句が「勝ち」だの「負け」だの、ゲームとしてやるならいいのですが、そのとき例えば、「きちんと読む」ことのほうがずっと大事ということは押さえておかないといけません。「優勝劣敗」の観念が根づかないような注意も必要でしょう。「勝ったものが優れていて、負けたものが劣っている」わけではない。勝ちと決まったものが勝ち、負けと決まったほうが負け。それが「ゲーム」ということです。
勝った負けたは誰でもたやすく熱狂しやすいぶん、とても妙なことになりやすい。「熱狂」という代物には、とりあえず気をつけたほうがいいわけです。
評価も含めて、この手のものには51パーセントの信頼(半信半疑よりちょっと多めの信頼)がよいと考えています。若い人には、「オトナたちのわかったふうでワケのわからない文言に惑わされるなよ。阿呆なオトナに引きずられていたら、楽しいはずのものが楽しくなくなっちゃうよ」と伝えたい気持ちです。
* * *
それではまた、次の日曜日にお会いできることを祈りつつ。
●
7 件のコメント:
わからない、あるいは、わかりにくい俳句を指導してしまった人にも問題があるのでは?
笑うオトナのマナーも問題だけど、自分達の仲間でわかりあっていればいい俳句を助長してしまうオトナにも問題がある、と思います。俳句の飛躍と一般性のバランスは難しい問題ですが、
>若い人には、「オトナたちのわかったふうでワケのわからない文言に惑わされるなよ。阿呆なオトナに引きずられていたら、楽しいはずのものが楽しくなくなっちゃうよ」と伝えたい気持ちです。<
というお言葉は、泣いた若者たちを励ましているようで?でした。
わかってもらう努力も必要だし、
作品を発表するというのは、
笑われることも覚悟することだと知ってもらうべきでしょう。その努力が足りなかった学生も反省し、指導が至らなかったとしたら、
その人も反省してみせるべきです。
笑った人のマナーの悪さは弁護されるべきものではありませんが、それを批判することで、わからない俳句でも楽しめばいいというのは
「俳句甲子園」という公の場の問題、
作品を発表し、読んでもらう覚悟の問題を
忘れているように思えてなりません。
ノボルさん、コメントをありがとうございます。
七夕や子供に渡す聴診器
句意鮮明。私には、どこがわからないのか、わからないのです。
「七夕」という季語と中下が、どう付くのかわからないという人がいらっしゃるであろうことは理解します(私も、最初、離したなあ、離れ過ぎなんじゃないの?と思いました。いまはそうでもないです。おもしろい照応だと思うようになりました)。
「子供に渡す聴診器」の事情がわからないという人もいらっしゃるでしょう。でも、事情を説明するばかりが俳句ではありません。
そこでです。もし、この句がわからない、わかりにくい、としても…
(つくった高校生は「わかりにくい句」と思って作ったわけではないと思いますが)
俳句は、わかりやすくないとダメですか?
わからないとダメなのですか?
そこのところが、私にはまったくピンと来ません。
句意がわからない(いわゆる意味伝達性が低い)けれども、魅力的な句はたくさんあります。
くわえて言えば、俳句世間には、オトナのつくる句も含めて、「意味はよくわかる・つまらない」句で溢れかえっています。
あ、追記です・
(~)伝えたい気持ちです。<
というお言葉は、泣いた若者たちを励ましているようで?でした。
いえ、これは泣いた若者たちだけでなく、本気で俳句を遊ぼうとしている若者全員に向けたものです(届くはずもない、私の気持ち)。
天気さん
丁寧にコメント有難うございました。
>句意がわからない(いわゆる意味伝達性が低い)けれども、魅力的な句はたくさんあります。<
おっしゃるとおりです。
でも、魅力は伝わらなければ、
町で詩集を買ってくださいと
ただ立っている少女と同じです。
わかる句があって、詩は世の中に
生きられるのだ、とも思います。
わかりにくくて魅力的な句を否定するつもりはありませんが、それは自閉の句という点で
やはり詩の格は下だと思います。
わかりやすくて通俗的な詩めいたものよりは
よっぽどましですが。。。
問題は「俳句甲子園」という「教育」の
場で、そういう詩の飛躍と一般性の問題を
結果押し付けて、子供を「泣かせた」罪の
一端が指導した側にもあるのでは?
という自己批判がないことを問題にしたのです。
わかって魅力的な句=俳句を背負う俳句
が1番。
わかりにくいが魅力的な句
=背負う句をねらって失敗した句
と
わかりやすくて通俗的な句
には、
特に俳句の場合、どちらも可能性があります。
そこが俳句人口の多さの力じゃないですか?
こう考えると笑った人を簡単に責められないと思うのです。
ノボルさん、こんにちは。ノボルさんと私とで、俳句の捉え方がずいぶん異なるようです。
いろいろな考え方がありますから、いいのですが。
>詩の格は下
格下も格上もない、と私は考えます。
例えば、私が昔から、あるいはこのところのお気に入りの俳人、三鬼、攝津幸彦、爽波、岸本尚毅、鴇田智哉、小川軽舟…虚子の句も入れていいでしょう、その他いろいろ(順不同)の好きな句を目の前に並べて、格上とか格下とか思うはずがない。順番も付けません。ぜんぶそれぞれに魅力的、ぜんぶ好き。
俳句甲子園が「勝った」「負けた」をやるのはゲームでしょう。
勝ち負けにそれほど重要な意味なんてありません。
たまたまどの審査員に当たったかで決まる部分が大きい。
(取組表を見てみればわかります)
勝った負けたで、句の「格」や「優劣」が決まるはずがありません。
>俳句人口の多さの力
「俳句人口の多さ」そのものが価値とは思いません。
多くて、どんなすばらしいことがあるのでしょう?
>わかって魅力的な句=俳句を背負う俳句が1番。
…とは思いません。
わかる句もわからない句も、どちらも魅力的です。一番も二番もありません。
ね? すいぶんちがいますよね。
それと次の部分。
>「俳句甲子園」という「教育」の場で、
これは正直意外でびっくりしました。「教育」の場という意識が、私にはまったくありませんでした。考えてみると教育的な側面はあるのかもしれません。
●
ひとつ、気になるのは、「魅力は伝わらなければ、」という部分。
この句に魅力がないように聞こえますが、充分に魅力的です。少なくとも私には。
(句の評価はあえて伏せていましたが、言ってしまいますね)
七夕から、音、それも心音への展開。聴診器のあの管の形状が、空と心音をつなぐようなイメージです。おまけに「子どもに渡す」行為が媒介になり、イメージが現実のその日の身体に定着します。
最初はそれほどでもなかったのですが、とてもいい句だと思い始めました(笑)。
会場にも、「いい句だ」と思った人はたくさんいたんじゃないですか
(私は私自身の「読み」を信じて、モノを言っています)。
「わかんねえよ」という野次に同調する、「わからないから魅力がない」という感想が、
その場の大多数だったとは思いたくありません。
もしそうだったとしたら、集まっていた俳句愛好者の質を疑います。
かなりボ~とした人たちです。
(再:私は私自身の「読み」を信じて、モノを言っています)
ちなみに、七夕から「宇宙」やら「空」という展開は、よほどうまく行かないと、陳腐凡庸。そこに陥った句がたくさんありますね。
天気さま
再び丁寧に、有難うございます。
俳句にはいろいろな考え方があっていい、
というのは、誰でも同じですね。
でも、そういいながら天気さんは自説を
展開されているので、私も同じルールに
則って自分の意見をはっきりさせておきましょう。
1 誰でも知ってる、聞いたことがある句
(古典的な句)が一番格上なのですよ。
芭蕉・蕪村・一茶・子規・虚子・草田男・誓子・波郷等等の定番中の定番です。
そういう句があってこそ、俳句は俳句をやらない人にすら認知され、新たな俳句作者を産む場合もある。
2 誰もがそんな句を残せるとは限りませんが、芭蕉も生涯に一句残ればと言っているのです。俳句を作る以上、それを目指すのが王道だと思います。
私の見方では、これ以外はみんな格下です。
もちろん「古典」「定番」も時代によって変化しますが、わかりやすさはポイントですね。
俳句甲子園も一般に開かれたものである以上、俳句を作らない人にも訴える面があっていい。
私は「格下」だからと言って
「わかりにくい」「笑われる」「冗談にされる」俳句の価値が低いとはいいません。
あくまで古典・定番になりきれない何かがある、という点で格下なのです。
詩も俳句も(特に俳句は)社会の中にあるものだ、という意識を
志の高い俳人は持つべきだと思います。
詩がわかりにくくなり、
詩だけでは出版社も
やっていけなくなったのは、
わかる人にだけ届けばいい的
俳句人口の多さに背を向ける
天気さんのような考え方のみに固執して
いるからでしょう。
なぜ古典となっている句はすごいのか
これも俳句を作るうえで、特に教える最初の段階で重要だと思います。
その議論が、佐藤さんの文章にも
天気さんのコメントにも全く抜け落ちているのです。
「笑われる句」は、はずかしいものではなく
新しい古典を産むための、限りない習作の
群れだという意味で評価しています。
でも「笑われる句」では、新しい読者も作者も掘り起こせませんよね。
ノボルさん、どうもです。
あとは、このコメント欄を読んだ読者の判断や話題の展開に任せることにします。
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