2011年12月1日木曜日

〔ネット拾読〕15 天使って一羽二羽と数えるのだろうか(下) 西原天気

〔ネット拾読〕15
天使って一羽二羽と数えるのだろうか(下)

西原天気


ウエブサイト「詩客」の俳句時評は、毎週、楽しみにしています。そこから、

山田耕司 「手紙」の行方 <私>の行方:詩客

途中、論旨が、私にはむずかしい部分もありますが(例えば、新しい俳誌『手紙』の主旨と文体の齟齬を指摘しするところまでわかるが、その先のこと。あるい は、引かれた折笠美秋の、やや牽強付会に思えるバルト援用から来るのであろう、エピソードの収まりという点でのむずかしさ)、それはそれとして、この論考、「特定」と「不特定」のあいだで揺れるブレのようなもの、齟齬のようなものを、俳誌『手紙』に感じているということのようにも読めます。

俳句作品にせよ、俳句にまつわる文章にせよ、どだい、《 person to person 》なものなんじゃないの?と私などは思ってしまうのですが。

元も子もないことを言ってしまえば、書く瞬間、読む瞬間、書き手も読み手も「ひとり」でしかあり得ない。その場合の読み手はとりあえず不特定の「ひとり」です(私信じゃあないんだから)。俳誌『手紙』は、特定のアドレス(宛先)の「ひとり」に向けるという 点で、まさしく手紙なわけです。

ところで、決め打ちしない不特定の「ひとり」に宛てて書く(例えばいま書いているコレ)のと、決め打ちした「ひと り」に宛てて書くのと、これにははっきりとスタイルや筆致に違いが出ます。ところが、俳誌『手紙』の場合、記事自体は、特定の「ひとり」に向けて書くというスタンスでもなく(つまり文章そのものには不特定アドレスの感が漂う)、ブツを届ける先は特定。そういうブレです。

しかしながら、それもいたしかたないところがあります。書く瞬間、特定に向け、届ける先も特定なら、それこそ手紙なのであって、俳誌である必要はありません。俳誌『手紙』はこのようにスタイル自体に軋みを伴うところがありますが、それは、ある意味、チャレンジングなスタイルということかもしれず、今後に注目です。

さらに、記事終わり近くの、次の部分。
<私>を伝えたいという動機は、今日の俳句人口と市場を支える上で重要な役割を果たしている ことを忘れてはならない。/それと同時に、詩の行方を見定め、定型と格闘する営みを、<個>のよるべなさにおいて立ち向かおうとする意志が作家には求めら れていることも忘れるべきではないだろう。
<私>と<個>の峻別は、もっと各所で掘り下げられていいテーマです。とりわけ、「<私>を伝えたいという動機は、今日の俳句人口と市場を支える上で重要な役割を果たしている」という部分は銘記しておいていいでしょう。

ただし、この脈絡にある<私>と、俳誌『手紙』の採るいわゆる《 person to person 》のコンセプトとは無関係ではないにしても、イコール的に直結させたのでは(山田耕司氏の論旨はそう読めます)、俳誌『手紙』がすこしかわいそうかな、という気はします。

なお、ここからは、軽い冗談として読んでいただきたいのですが、前出の『手紙』2号では、私の句集について書いていただいているらしい。「らしい」というのは、これを書いている11月29日朝時点で、まだこの俳誌を手にしていないからです。

『手紙』2号の紹介記事を読んだ人はきっと、そこで言及された人(この場合、私)にはまっさきに届くんだろうなと思うんじゃないでしょうか。でも、ぜんぜん、そんなことはないんです。

こういう、いい意味で、なんだかいいかげんなところ(これ、皮肉ではなく、本気で「いい意味で」)は、私、嫌いではありません。こういうものって、きちんきちんとダンドリが整ってなくてもいいんです。

私としては現在、「いったいどんなふうな手紙が来るんだろう? ひょっとして句集をけちょんけちょんにけケナしてあるのでは?」などと、楽しい想像を膨らませているのです。



一方、俳誌『手紙』を別の角度から取り上げたのが、

〔週刊俳句時評53〕ひそやかなアクセス ふたつの“手紙”から・西丘伊吹


山田露結と宮本佳世乃による『彼方からの手紙』と前述の俳誌『手紙』について述べ、
おそらく、これから先に生まれてくる俳誌は、ネット上に作品や評論を発表することに伴う「物足りなさ」を、何らかのかたちで補完するように工夫を施したものとなってくるのだろう。/ふたつの“手紙”はそのような意味で、テキストへアクセスするまでのもうワンクッション――例えば「手間」と「ひそやかさ」を、好対照に演出してくれているのではないだろうか。
と締めくくられています。

インターネットのメリット、すなわちさまざまな意味での敷居の低さが「物足りなさ」に結びつくのは、皮肉というより、自然なことでしょう。

道具というのは、どこか足りないものだから。十全ではあり得ない。伝えるスタイルにまつわる模索は、だから、これからも続く。けれども、私たちが書くことは、もっと「足りない」ことが多い。いかに伝えるかは大事だが、いかに書くかは、もっと大事。要は、乗り物ではなく、そこに何が載っているか。

と、こんな予定的な結論、ほんとつまらないのですが、乗り物が載せるものを決めてくれる、豊かにしてくれることもあります。乗り物(媒体やスタイル)の創意工夫や選択肢は、これからますます多様になっていくのでしょう。

って、さらに予定的な締めで、ネット拾読の上・中・下の終わりです。

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