2011年11月30日水曜日

〔ネット拾読〕15 天使って一羽二羽と数えるのだろうか(中) 西原天気

〔ネット拾読〕15
天使って一羽二羽と数えるのだろうか(中)

西原天気


前回の続きです。

〔週刊俳句時評52〕相対論の果て スピカ第1号特集「男性俳句」を読む 生駒大祐

この記事で、もうひとつのちょっとした疑問は、生駒氏の使用する「パラテクスト」の範囲です。

「パラテクスト」とは、ものの本によれば、作品に付随する序(俳句で言えば前書・詞書。あるいは句集における「跋」も入るでしょうか)やあとがき(句集にはよく作者自身による「あとがき」があります)、タイトル(俳句で言えば、連作タイトルや句集タイトル)などを指す用語だそうです。

むずかしいこと抜きにして、カジュアルに言えば、句(テクスト)は、そのまわりにいろんなものがくちゃくちゃくっついている、それらを総称して「パラテクスト」と呼ぶのでしょう。作者名は「くっついてくるもの」の最たるものですから、これもパラテクストに含めて、おそらくさしつかえない(生駒氏がこの記事で扱うパラテクストはもっぱら「作者」です。「作者」という項目は、巨大なので、別立てで扱うほうがよいような気も少ししますが、まあ、それはそれとして)。

で、です。「作者」という色濃いスタンプが、句にくっついてくることはわかった。しかし、その先のこと、作者名から導かれるさまざまの情報まで「パラテクスト」と呼んでいいのか、というのが、私の疑問です。

「呼び方だけの問題だから、どっちでもいいんじゃね?」との声もありましょうが、せっかく「パラテクスト」という、俳句世間では耳慣れない用語が登場したのですから、ちょっとはっきりさせておいたほうがいいのではないか、と。

私が思うのは(「思う」ってレヴェルです、あくまで)、「パラテクスト」は、「書かれたもの」にとりあえず限定しておいたほうがいいのではないか、ということです。

生駒氏は、森澄雄の〈妻がゐて夜長を言へりさう思ふ〉という句を読んで、「「この『妻』は生きているのか亡くなっているのかどちらだろう」という疑問を強く抱き、作者の経歴に当たった」と言います。そうして得られた経歴上の情報は「パラテクスト」なのか?

それは、また別のこととしておいたほうがいいと、私は考えるのです。「森澄雄」という作者名まではパラテクストであっても、句の書かれた当時の作者の事実情報は、それが書かれているわけではなく、調べてはじめてわかるかぎりは、パラテクストとはまた別のものだろう、と。

ただし、こうした線引きに、曖昧さが漂うことは、私自身、認めます。「正岡子規」という作者名には、「病臥」という情報は、そこに書かれていなくても、くっついてくるではないか? それはパラテクストに限りなく近い情報だろう?と。

ま、そうかもしれません。「正岡子規」という作者名は、ただ単に4つの漢字にはとどまらない。履歴的事実は、どうしたってついてきます。

このあたりは、程度問題という、きわめてはっきりとない基準しかないかもしれません。けれども、この「程度」というのは、わりあい人と人とで共有され得るものでもあります。

〈いくたびも雪の深さを尋ねけり〉を読むとき、作者の病臥を「抜き」にするのは無理がある一方で、例えば〈雨に友あり八百屋に芹を求めける〉(子規)の句が、その日、訪れた友とは誰か? 子規の病状は?といった情報まで「くっついてくる」とするのは無理がある、と、ふつうは考えます。「ふつう、そうだろ?」と皆で了解し合える「程度」というのは存外多いものです。

「作者名」という情報(パラテクスト)は、いわば、はっきりと目に入る芋の葉や茎です。そこに芋蔓式にくっついてくるものをやたらとパラテクスト(あるいはその延長)に含めないほうがよい気がします。



拾い読みなのに、えらく長くなってますね。まあ、いいか。次、行きますね。

外から見た俳句:スピカ

佐藤文香、神野紗希、野口る理3氏による鼎談記事で、『ユリイカ』2011年10月号「特集・現代俳句の波」と『SPUR』2011年12月号「モードなわたくしがここで一句」を扱っています。

野口氏の発言「作品欄の俳人の俳句、つまり紗希さんや文香さんの句は、いらなかったんじゃないかなって気がしました。(…)まぁそもそも俳句プロパーの人のバランス自体も結構偏ってますよね。」、それを受けての、神野氏の「(…)「現代俳句の辺境」といったほうがあたる(…)」などが、おもしろく読める部分。

辺境を「フロンティア」と解するか「マージナル」と解するかで、神野氏の指摘のおもむきは異なりますよね(おそらく両方に足をかけておくのがよいのです)。

一方、女性誌『SPUR』の俳句記事は、この鼎談で好ましく受け止められています。私、実は、書店で立ち読みしましたが(すみません、増田書店さん)、ピンと来ませんでした。この媒体のなかで、奇妙な違和のざらつきを発すると同時に、そこに掲載された俳句のインフレ感(あるいは、包装紙の中から、包装紙で想像したもんとはずいぶん違ったものが出てくる感じ)を感じました。句の価値が、写真等含むのページ構成に劣る、ということではないです。それぞれの句がうまく収まる場所はここではないな、という感じです。

それは、早稲田漫研OBが今年出した本(雑誌スタイル)の中で、俳句のページを見たときの違和感ともまた違う。ひょっとしたら、俳句と女性誌がお互いにフィットしよう(させよう)として、かえって微妙な違和を醸したのかもしれません。

俳句って、周囲を忖度せず、忖度されず、すっ、とそこにあるのがいちばん居心地のよい置かれ方だったりします。カレンダーに印刷された句は、どんなに素晴らしくても駄句に見えてしまうのと逆の作用。そのへんが関係しているのかもしれません。

(明日に続く)


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