2013年5月29日水曜日

●水曜日の一句〔中尾公彦〕関悦史



関悦史








ゆく秋の鳥籠が鳥さがしをり   中尾公彦


カフカのアフォリズム「鳥籠が鳥を探しにいった」に季語を付けた作りの句。

原典と微妙に異なるのは、鳥籠が他のどこかへ動いていってしまったという不在の要素が希薄になっている点で、こちらは鳥籠という物件自体に焦点が合っている。

カフカのアフォリズムは因果関係の倒錯が主で、カフカが小説で描いた、人が作った官僚組織が人を潰していくような悪夢的逆転がシンプルに寓意化された結果、不気味なユーモアが立ち上がるといった印象だが、そこに敢えて「ゆく秋の」を付けるとどうなるか。

季節のうつり変わり、衰滅へと向かう時の流れの中での物思いという内面性が付与され、鳥籠の擬人化の位相が異なってくる。己の中にあるべき「命」が抜けてしまった物件への同調が前景化してくるのである。

「さがす」も空間内の移動ではなく、時間内、歳月の中での彷徨という印象が強まってくる。

この抒情性が自己憐憫に陥らないのは「鳥籠」の乾いた明快さと「命」への苛烈な希求が中心にあるからで、句集『永遠の駅』はそうした方向の気迫に満ちた佳句を多く含む。《トースターの熱線二本猟期来る》《傷口に脈のあつまる夜の新樹》《競泳の水の強さを割つてをり》《すばるとは永遠(とは)の駅なり竜の玉》《花しぐれ憂ひは万年筆の中》《雁わたり捲(めく)られてゆく山河あり》《眼底の曼陀羅赤し枯野星》《佐世保には原潜の在り海灼くる》等々。

ただし「命」への希求が主な詩因となっているということは、本源的なものから疎外されていてそこからの回復が目指されるという一種のロマン主義によって句が成り立っているということであり、そこから出てくる気迫や力感は、疎外という自己悲劇化を土台とせずには成立しないということと表裏一体でもある。これが自動化したときには、「命」の輝きを作者が居座ったまま私するのみとなるという危険もつねに裏に貼りついているのだ。

句集『永遠の駅』(2013.4 文學の森)所収。


※なお、この句集には以下の二句が含まれている。

まだ夢を見てゐる牡蠣をすすりけり  (173頁)

蔵王権現おほむらさきを放ちけり   (200頁)

これはそれぞれ

まだ夢を見てゐる牡蠣を食ひにけり   関悦史(『新撰21』『六十億本の回転する曲がつた棒』収録)

磨崖佛おほむらさきを放ちけり   黒田杏子(『木の椅子』収録)

と酷似しているが、著者に問い合わせたところ、どちらの句も知らず偶然似たとのことだった。

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