2013年8月1日木曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 俳句は「音」でできている? 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
俳句は「音」でできている?

西原天気


週刊俳句・第327号に小特集:俳句の「音」。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/3272013728.html

舞台裏を明かせば、これ、小野裕三さんから2年くらい前に「「新・五七調」再論」の原稿をいただいていて、小野さんと「掲載するタイミングをどうしましょう?」とメールでやりとりするうち、私のアタマからすっぽり抜け落ちていた。

この失念は誠にひどいもので、こんなことは滅多にない、と信じたいのですが、こうして実際に起こってしまっている。週俳の仕事はどこかに工程表やらジョブリストを作っているわけでもないので、ほかにも失念があるかもしれません。

ま、それはそれとして、 「「新・五七調」再論」をどうするか。単発じゃ唐突だし、ということで、「音」についての小特集を企画。『豆の木』に載っていた三島ゆかりさんの「おんいんくん」がすぐにアタマに浮かび、さらに原稿を発注(転載を許可してくださった三島さん、寄稿してくさった皆様、ありがとうございます)。また私(たち)の心に深く残っていた乱父(lamp)の所業については鴇田智哉さんへのインタビュー形式となりました。

 

五七五を考えるとき、中七の音数構成というのが、(本質的なことではないですが)存外重要だったりすると思っています。

まず、1+6、6+1という構成は考えにくい。

2+5、5+2、3+4、4+3が基本パターン。

これが2+3+2のようにさらに細分化されるケースもあるにはあるが、(2+3)+2のごとく、どこかでまとまったリズムにはなる(ならないと、「いやにガタガタしているなあ」という印象に)。

変則的に(とはいえ変則と言えぬほどに一般的で高頻度に)上五から2音が漏れてきて、中七がその受け皿になるケースは多い。例えば、《愛されずして沖遠く泳ぐなり・藤田湘子》。

中七が下五に、2~3音、浸潤するパターンもあります(中七の音数構成からは話題が逸れますが)。《地下鉄にかすかな峠ありて夏至・正木ゆう子》《うちつけて卵の頭蓋割る晩夏・皆吉司》など。


こうした音数構成(五・七・五の音数構成のさらに下位の音数構成)は中七に強くあらわれますが、もちろん上五・下五にも、ある。

上五の、季語(4音)+「や」、下五の3音+「かな」「なり」などが最も多いパターン。

 

五・七・五それぞれの中身にも分節がある、この自明のことに着目すると、小野さんの記事村田篠さんの「後記」で紹介されている「五九四」も、「九」の音数構成によっては、従来の五七五とほぼ同様の韻律になる。

それは中九が7+2の場合がそれで、〔5+(7+2)+4〕は、〔5+7+6〕。

下六はめずらしくない。五七五の範疇。

 

ここで思い至るのは、このところ、上五、下五に、、むりやり縮めて5音に収めるような処理が多いなあ、ということ。

同時に、五七五を狭く捉える傾向も強い。

七五五(17音)も、五七六(18音)も、七七五(19音)も、またそれらに類するスタイルも、みな「五七五定型」とみなしていいと思う。読むとき、違う回路を使うわけでもない。

胴体(7音)をしっかりつくりあげたら、手足(上と下)はもっとのびのびさせてやりたいケースも多いのではないかなあ、というのが私の感想。

 

五七五の話のついでに、自由律の藤井雪兎さんの記事「現前するリズム」のこの一節。
五七五は日常にはほとんど存在しないリズムなのである。
まさに、そう。だからこそ五七五定型を志向する、という人がたくさんいるのだと思う。

日常にほとんど存在しない五七五、言い換えれば、日常には無限にさまざまな「ことばのリズム」が実在する。その当たり前の事実が、自由律をつくる人と定型をつくる人の双方の拠り所になっているように思います。

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