2014年8月30日土曜日

【柳誌を読む】/形(たち)の家 『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む 柳本々々

【柳誌を読む】
人/形(たち)の家
『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む

柳本々々



たましいのかたちとわれてまるくかく  時実新子

『Senryu So 時実新子2013』(石川街子・妹尾凛・八上桐子 発行・2013年早春)からの一句です。

この句にあるような「かたち」から時実新子さんを捉え直してみたいというのが今回の文章の趣旨です。

文章をはじめる前に樋口由紀子さんの時実新子さんについての次の一節をみてみたいと思います。
川柳の「私性」ですぐに思いつくのは時実新子の「私の思いを吐く」である。
(……)
時実新子は時実新子という物語の「私」という場で川柳を書いた。しかし、多くは時実新子の現実の出来事の「私」として川柳を書いたと錯覚した。大切なのは「私性」を感じさせる面白味を言葉のどこでどのようにして関係づけていくかである。言葉より思いの方を重視して、言葉より自分の思いを優位に置き、そこで川柳は「私性」を作り上げてきた。

樋口由紀子「川柳における「私性」について」『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)p15-18
時実さんの川柳はおそらく〈私性〉から読まれることが多いのではないかと思うんですが、樋口さんが述べているように「大切なのは『私性』を感じさせる面白味」としての「言葉」の問題を「どこでどのようにして関係づけて」さぐりなおしていく/いけるか、ということにあるのではないかと思うのです。つまり、「思い」から「私性」をたどり直すのではなく、「言葉」から「私性」を考えてみようとすること。

たとえば、時実さんの句の強度というのは実は〈私〉以外のところにもあったりするのではないかと思うんです。

もっというと〈私〉を突き詰めていった結果、〈私〉を超えて、〈私〉の彼岸のようなところにたどりついたからこそ、かえって〈私〉臭さがぬけて〈私性〉が成立しえたようにも思うのです。

〈私〉をもし描くのだとするならば、そうした〈私〉の超越にこそ、逆説的ではあるけれど、〈私性〉というものがあるように思うんですね。

これは、〈私=詩性〉川柳と一見相反するような時事川柳やユーモア川柳もそうで、おそらく、時事川柳やユーモア川柳も、それをとことんつきつめてゆけば、時事やユーモアの彼岸にたどりつくように思うんです。

たとえば、月波与生さんに次のような句があります。

悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生(「尾藤三柳 選・時事川柳」『川柳マガジン』2014年2月号、p43)

これはもともとマンデラ元大統領追悼式典の手話通訳のひとの〈でたらめ〉な手話の事件が起きていたときの〈時事川柳〉として『川柳マガジン』に投稿されたものです。

けれども、月波さんのこの句にある、〈時事〉を通してほどこされた〈仕掛け〉は、そうした時事的な手話の非交通と誤配のありかたを、日常的に〈私〉=誰もが体験するかもしれない〈悲しみ〉に起因する非交通と誤配の文脈に置き直し、時事川柳でありながら時事川柳の彼岸にもちこんでいます。時事的な〈でたらめ〉としての手話の〈わからなさ〉と、私事的な〈かなしみ〉としての手話の〈わからなさ〉を、〈わからなさ〉において共約しつつも、差異化しています。ここに私はひとつの時事川柳の可能性があるのではないかと思います。

そしてそうした〈仕掛け〉のなかにこそ、実は〈私性〉が胚胎しているのではないか。

時実新子さんは〈私性〉から読まれることが多いのではないかと述べましたが(それは『有夫恋』といったような〈私秘的〉な句集のタイトルが要請するコードの強さもあるようにも思いますが)、《あえて》時実さんの川柳を〈私〉を突き抜けた「かたち」の主題的側面からみてみるとどうなるのか。

そこで『Senryu So 時実新子2013』から、〈かたち〉を軸に時実さんの川柳をいくつか抜き出してみます。

たましいのかたちとわれてまるくかく

月を四角と言い張る涙こぼしつつ

寒天とおなじ形に冷えてゆく

じっと見ていると花かたばみも父

母が病む 爪のかたちの十二月

子に遠く海老の形にねむり落つ

これらの〈かたち〉というテーマをもたせることができる時実さんの句をみていえることは、〈かたちはひとつの事件なんだ〉ということなんだと思うんです。

たましいのかたちをまるくかいてしまうことも、月を四角といいはって泣くことも、なにかをじっと見ていたら花の形をとったことも、子から遠く離れて海老の形にねむったことも、〈かたち〉をとおした〈事件〉です。

そしてこのとき、〈かたち〉とは〈私性〉の濃度をどれだけあげようとしても、それをはねつけるものとして機能しているように思うんです。

なぜなら、〈かたち〉とは(たとえそれが語り手の投影された想像的形象であるとしても)依然として〈普遍化〉されたマテリアルなものであり、いったん語り手の言表が〈かたち〉としての〈カタチ〉を取ってしまった以上は、語り手の投影効果を〈異化〉する作用としても機能するからです。

たとえば、「かたばみも父」と「かたばみ」の〈かたち〉が「父」に形象化されたとき、「かたばみ」と「父」を〈かたち〉によって統合しつつも、依然としてそこには「かたばみ」と「父」という分離化された解消できない距離があることに読み手はすぐに気がつくことができます(この重ね合わせつつも・完全に・重ね合わすことができない〈距離〉があるからこその語り手の「かたばみも父」だと思います)。それは語り手が表象=代行として形成している〈かたち〉ですが、〈かたち〉とはそのように形成化されたときに読み手がすぐにきづくことができるような詠み手と読み手の折衝の〈場〉ということができるはずです(つまり、わたしの〈私〉とあなたの〈私〉がぶつかりあうような、〈私〉をめぐる〈私〉を超えた〈場〉です)。

だからこそ、時実さんの川柳は、時実さんだけの〈私〉ではなく、読み手の〈私〉をもつきつけあう交渉の〈場〉が〈かたち〉を通して行われているのではないかと思うのです。

そして、そうした〈かたち〉の主題=仕掛けをみつけたことが時実さんの句の〈私性〉を〈言葉〉の側面から補完する役割として機能していたようにも思うのです。

だからこそ語り手はこんなシーンにもとうとつに読み手をひきこむことができるのではないかと思うのです。

たとえば、すこし、こっちへ、きてみてください。

ここに、人〈形〉がいます。人/形、です。

ここに、くるとわかります。

みてください。人形です。一体では、ありません。

カタチを取った人形が、

それも百体 人形が目をひらく  時実新子

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