関悦史
春光の畑に回す洗濯機 森泉理文
今でもたまに見かける屋外に設置された洗濯機だが、どちらかというと田舎の、それもあまり裕福そうではない家の風情である。「回す」がなければまず野外に捨てられた廃家電に見えてしまうはずだ。回っているので現役とわかるだけでなく、家のすぐそばに家庭菜園どころではないれっきとした畑が広がる土地柄であるらしいこともわかる。
「春光」という大まかな季語の付け方が奏功していて、畑の作物の何やかやを季語に持ってきたのでは得られない大画面の殴り書きのような力が出た。しかし粗暴ではなく、あえて乱暴にしてみたという作為もない。「素朴さ」について中野重治がどこかで「中身の詰まった感じ」といっていたと思うが、そうした素朴さがある。
その中身の詰まった感じをもたらしているのが「回る」ではない「回す」である。「回る」であればただ事・報告句となる。「春光」の「畑」での「回す」に、張りのある逞しい暮らしぶりが感じられる。逞しいとはいってもピカソの半裸姿やメキシコの現代壁画などよりは、単なる日用品としての厚手の土器のような手応えを感じさせる句である。
句集『春風』(2014.11 邑書林)所収。
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