2014年11月19日水曜日
●水曜日の一句〔甲斐一敏〕関悦史
関悦史
うみみぞれれくいえむ聴く海鼠かな 甲斐一敏
「うみ」「みぞれ」「れくいえむ」と、しりとりからレクイエムが出てきて、それを海鼠が聴く図に転じる。
この海鼠はどこにいると取るべきか。
海から上げられ、室内で調理される寸前となると音楽が聞こえていても不自然ではなくなるが、レクイエムがやや意味でつきすぎとなる。一方、海の中で聴いていると取るとモチーフ全体があまり締まらない想像画となる。
別な解釈として、語り手(人間)が自分を海鼠に見立てているという取り方もあるが、これはこれでみぞれる海の存在感が消えてしまう。
この句はもともと「うみ」と「海鼠」が近く、「みぞれ」と「海鼠」が季重なり、「みぞれ」と「れくいえむ」も情調的に遠くないので、しりとりのわりには飛躍がなく、荘重なレクイエムを聴く海鼠というイメージの滑稽味に句の価値のかなりの部分がかかっている(言い換えれば、一句が意味性中心に構成されている)ので、なるべく即物性を回復させたい。やはり海鼠は室内にいるととるべきか。
句集全体としては、作者が先に興じ過ぎで文体に締まりがない句や、定型感覚の裏打ちのない字余り・字足らずの句が多かったのだが、この句はぴったり定型に収まり、「かな」止めで「海鼠」が打ち出されている分、「れくいえむ聴く」の滑稽が浮かず、みぞれる海と海鼠との大小(または遠近)の対比による実体感のなかに余裕を持って引き留められた句となり得ている。
せっかくしりとりになっているのだから「うみみぞれ」を単なる状況設定と読むのではなく、一度切り離し、「うみ」の波音、「みぞれ」の降る音、「れくいえむ」の三つを同時に海鼠が聴いていると取った方が、海鼠に集中する広大なもの複雑なものの度合いが増すのかもしれず、そうなればもはや海鼠がどこにいるかなど気にもならなくなるが、句中の「海鼠」はもっとちんまりとした風情に見えるし、そちらの味はそちらの味で捨てがたい。
句集『忘憂目録』(2014.11 ふらんす堂)所収。
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