〔ためしがき〕
植樹計画
福田若之
マイナビブックスの詩歌サイト「ことばのかたち」で、『塔は崩れ去った』全16回の連載を終えたところである。それについては何も言うことはないが、この『塔は崩れ去った』よりも前に、僕が秘密裏に企画し、秘密裏に断念した企画があった。それはおそらく、俳文としての『塔は崩れ去った』が、ああしたかたちをとったこととも無関係ではない。だから、いま、そのお蔵入りした企画について書いてみようと思う。この文章は、だから、ついに(あるいは、いまだに)書かれないままになっている作品についての批評的な後記(ないしは序文)として読んでもらうのがふさわしいと思う。
そもそもは、次の疑問からはじまった――句集ではなく句であるようなものを編む(ただ書くのではなく)ことはできないのだろうか?
僕には、句の蒐集が俳句形式にとって本質的であるようにはどうにも思われなかった。だからこそ、一句に重層性を与え、それだけでひとつの書物のような体裁をとらせることで、句集という形態に対して何かしらオルタナティブなものを提示することができるのではないかと考えたのだった。
そこで僕にインスピレーションを与えたのが、マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(青字は原文どおり。本書では「家」という言葉が原則として青字で印刷されている。なお、原題はHouse of Leavesで、「別れの家」の意味にも取れる)の構成だった。
この小説は、設定上は、ザンパノという盲目の老人が、ネイヴィッドソン記録というフィルムについての論文という体裁で書いた本文と注と付録(ただし、ザンパノの没後、本書を出版するにあたって、ジョニー・トルーアントという青年がさらなる注と付録をほどこしている(ただし、本書は、その第二版の刊行にあたって、ランダムハウス編集部がそれにさらなる注と付録をほどこしている))、であるが、実際には、無論、ダニエレブスキーが全部書いているし、初版から内容の変更はない。極めて迷宮的な体裁(とくにIX章)をとった小説で、『紙葉の家』というタイトルにふさわしく、この小説自体がひとつの建築物であるような印象を与える。ほかにもさまざまな仕掛けが施されていて、いわば、西洋文学のさまざまな実験を追試しているような代物である。『紙葉の家』に新しいところがあるとすれば、それらの手法を一冊に集めたキメラ性に他ならないだろう。和訳と原書では視覚的な印象がまるで異なるので、興味のある向きには、ぜひ原書に(も)触れることをお勧めしたい。
さて、この『紙葉の家』に倣って、一句に複数の注釈を、その注釈にまた複数の注釈を、という具合に、限りなく注釈を施していくと、その接ぎ木の枝分かれによって、全体は一本の樹を連想させるものになるだろう。すなわち、まず上五と下五に注釈を付けて、上五の注釈の注釈を上へ上へ、下五の注釈の注釈を下へ下へ、継ぎ足してゆくと、縦書きの一句は、根と枝葉を持った一本の幹として姿を現すことになるだろう。この幹となる一句は、樹について詠んだものにするつもりだった。それによってメタ言語としてのあり方を際立たせることができると踏んだからだ。そこに膨大な注釈を百科全書的なものとして書くことができれば、そのとき、一句は一本のユグドラシルそのものになるだろう。
このように考えて、これはあきらかに紙媒体よりも電子媒体のほうが向いているだろうと思った。企画のためのwebページを開設し、はじめはただ一句がそこに表示されるだけなのだが、読者は日を追うごとにこの樹が根を広げ枝を増やしていく過程を目の当たりにすることになる。これを数十年単位で、限りなく成長させてゆくのである。
以上が、僕の植樹計画だ。ところが、ここで問題が生じる。僕自身が、企画だけで充分に満足してしまったのだ。しかも、おそらく、実行に移した場合に費やされるだろう努力のわりには、企画以上のものにはならない、ということが予感されてしまった。書くなかで新しいことが起きるような気はしなかった。書くために読むなかで、新しいものと出会うことはいくらでも期待できたのだけれど、それなら、書かずに読めばよい、という気がした。
そして、決定的な問題は次のことだった。幹が弱いと、樹は折れてしまう。数十年単位で注釈に没頭できる句を自分で作るためには、相当な準備が必要であって、その句が作られた時点で、注釈になにが書き込まれるのか大体決まっているような状態でなければいけないだろう。要するに、この企画を成功させるには、その最初の一句を書くのに数十年単位の時間が必要になるに違いなかった。
こういうわけで、この計画は、ついに(あるいは、いまだに)計画のまま、そこに、不在で、ある。
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