〔ためしがき〕
〈俳句を絶するもの〉
福田若之
より正確には、もしそれがありえたなら、さしあたり〈俳句を絶するもの〉と呼ぶほかなかっただろうもの。もしそれこそが俳句を書くということがもたらす究極的なもの――すなわち、原初的なもの、かつ、最終的なもの――だったとしたら、俳句は自らのうちに死の欲動を抱え込んだだろう。なぜなら、「俳句を絶するもの」というこの言葉は、一方では、単に「俳句を超えるもの」という意味に解釈されるだろうけれど、他方では同時に、「俳句を絶やすもの」という意味に解釈することもできるのだから。
しかしながら、この「俳句を絶やすもの」という含意の通常のニュアンスに反して、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたとしても、それがあの「俳句以後」に結びつくことはなかっただろう。なぜかといえば、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたなら、きっと、まさに俳句を絶するというその本性によって、俳句を基準とした時間の概念さえも超え出てしまっただろうし、それによって、俳句を基準にした時間の概念ごと、俳句を絶やしてしまっただろうから。つまり、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたとしても、それは俳句の過去・現在・未来のいずれにも、したがって、「俳句以後」にも、属さなかっただろう。したがって、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたとしても、僕らが俳句の側に立つ限り、それはただ仮定法によってしか正確に叙述できなかっただろう。
したがって、もし〈俳句を絶するもの〉と俳句とのあいだに何かしらの関係がありえたとしても、それは、ただ仮定法によってのみ正しく語ることができるにすぎないものだっただろう。(「俳句が〈俳句を絶するもの〉だったらよかったのに!」)
そして、もしそうだったなら、「俳句が〈俳句を絶するもの〉だったらよかったのに!」は、もはや単に「〈俳句を絶するもの〉は俳句である」ことを意味しなかっただろうばかりか、それと同じぐらい、「〈俳句を絶するもの〉は俳句ではない」ことを意味しなかっただろう。これら二つの文は、その構文が仮定法ではないために、もはや翻訳の失敗にすぎないものだからだ。したがって、通常のようには――すなわち、「私が鳥だったらよかったのに!」から「私は鳥ではなく、そのことが残念だ」を読み解くようには――いかなかっただろう。
それどころか、もはや単純に「〈俳句を絶するもの〉は俳句を絶する」ということもできなかっただろうし、「〈俳句を絶するもの〉が俳句を絶するだろう」という予想さえも立たなかっただろう。言えることは「〈俳句を絶するもの〉だったら、きっと俳句を絶しただろうに!」ということだけだっただろう。しかしながら、もちろん、この文に「〈俳句を絶するもの〉が実際に俳句を絶することはないだろう」という含意を認めることはできなかっただろうけれど。ただし一方で、この文には、「〈俳句を絶するもの〉ではないものが俳句を絶することはない」ことが、確かに含意されていることを認めておこう。したがって、俳句と〈俳句を絶するもの〉ではないものの関係は、仮定法によらずとも正しく語ることができることを認めておこう。そして、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたなら、これこそが〈俳句を絶するもの〉と〈俳句を絶するもの〉ではないものを分かつ差異となっただろうということを、認めておこう。
そして、もし〈俳句を絶するもの〉と〈俳句を絶するもの〉ではないものの差異が上記のようなものだったなら、仮定法が憧れをともなう幻想について語るものである以上は、次に述べることは正しいことになっただろう。もし〈俳句を絶するもの〉がありえたなら、それは俳句にとっての幻想に他ならなかっただろう。ただし、「〈俳句を絶するもの〉がありえない」とは断言できなかっただろうにもかかわらず、そして、それゆえに、ここでも仮定法を使わざるをえなかっただろうという限りにおいて。いまは、このことだけを書いておく――半ば書き捨てておく――ことにしようと思う。これ以上は、「ためしがき」にはそぐわない。
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