関悦史
桜鯛眼のごうごうとして開く 対馬康子
単に一物の写生句というよりも、対象に見入り、見入られ、その向こう側まで目が突き抜けてしまったような句。
魚類のつねとして鯛にも瞼はなく、その眼は普段から開きっぱなしのはずだ。「ごうごうとして」という超現実的なオノマトペの不穏さ、激しさがまず際立つが、じつは「開く」にも現実からの微妙なずれが仕組まれているのである。
その眼はただ付いているのではなく、今初めて開かれたかのような、ただの魚にはふさわしからぬ、広大なものへの通路としてある。シェイクスピアの戯曲を読むと、大方人間同士のやり取りのみが描かれているにもかかわらず、ときに宇宙的なものの立ち騒ぎを感じさせるが、そうしたことを連想させないでもない。
ただし、句そのものは、別段宇宙大の霊的な広がりなどを直接描いたものではない。ごく平らかな鏡面のようなものだ。その鏡面を境目として、桜鯛の眼の向こうに、そして桜鯛と見つめ合うこととなった語り手の眼の内界に、「ごうごうたる」領域が開いていることに気付かされるのである。
句集『竟鳴』(2014.12 角川学芸出版)所収。
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