樹下のあなたへ
小津夜景
入れ墨のごとき地図ありしんしんと鈴のふるへる水の都に
水掻きを生やした日よりヴェネチアングラスのやうな光と暮らす
さやうならたましひよりも雲の峰よりも膨らむ螺旋階段
オルガンを踏みわたくしは弾きはじむ或る晴れた日のためのフーガを
人体がロールシャッハとなる夕いらして蝶の軽さにあそぶ
空耳のやまざる白き昼なればガアゼをかざし空を吸ひとる
わたくしはミシンの台にあらずなり巨きな傘を抱へてゐるが
無音にも疵あることをレコードに確かめ午後を眠りたるべし
石鹸を洗ひ流せばくちなはの生身の肉はみづうみのなか
スプーンに映ゆる夕のわうごんが水没人の色となるまで
大きなる壺つややかに夜を枉げてオーボエの音ひとつ生みたり
月出でて棹影しかと水にあり付箋のやうに ここに 見えるか
もし共に生きるなら朝きぬぎぬのダイアローグの記憶は淡く
片肺をねぢれたつばさかと思ひねぼけまなこで開かうとした
長靴が好きで匍匐が大好きで紫陽花の根にぢつと棲みたる
たはむれに窓を磨けばなぜ虹は指紋に見えてくるのだらうか
存在に恋をしてその存在の儚きことをためらはず知る
たてがみを手紙のごとく届けたい裸足でねむる樹下のあなたへ
言の葉を交はせば生るる木漏れ日をただ時のみが嘲ふばかりぞ
声あるが故に光を振りむけばここはいづこも鏡騒(かがみざゐ)なり
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