2015年8月19日水曜日

●水曜日の一句〔本多佑子〕関悦史


関悦史









涼しさやいたるところに翁の目  本多佑子


俳句で「翁」というと芭蕉になってしまうのだが、この句の場合はそう取らない方がよさそうである。

句集の同じページに《涼しさや山に目の神耳の神》という、とうてい芭蕉のこととは思えない八百万の神が遍在しているような句が並んでいるからということを別にしても、いたるところにある「翁の目」が芭蕉のそれということになると、句の出来栄えでも監視されているようで、いかにも息苦しく、「涼しさ」がきかなくなる。人の格を脱した神仏か精霊の類とのみ取っておくべきだろう。

さて、この句、具体的な描写は何もない。

「涼しさ」と「いたるところに」の組み合わせが漠然と野外の空間的広がりを思わせ、「翁の目」の霊的遍在が、そこが草木に覆われた自然豊かな土地なのだろうと思わせるばかりである。にもかかわらず、その自然に奇妙な実体感がある。

自然に見入ることが自然から見返されることにもなる、というだけならばありふれた理屈だが、この句の場合は、その見返してくるまなざしに、「翁」という形で半ば人格化された他界性が入ってくる。自然と呼ぶより造化と呼んだ方がふさわしいだろうか。語り手をとりかこむ造化は、語り手自身が没した後も、おそらく何ほどの変化もなく存在し続ける。そのことに語り手は安らぎと自足を覚えている。

見守ってくれる母親のまなざしでもなければ、監視カメラのような無機的な捕捉でもなく、造物主と確定もできなければ、意志や感情があるのかどうかさえ判然とはしない、何やら神々しいものとして「翁」はこちらを見ている。目は相手を切り離し、対象化する器官であり、薄気味悪いと思えば薄気味悪い。そうした距離感をあらわすのが「涼しさ」なのだ。たとえそれが安らぎを与えてくれる肯定的なものであるにせよ、語り手を包んでいるのはそういうまなざしである。

生き物への共感から来るアニミズムの平等性とは少々違う、人のスケールを超えた自然とか生命現象自体の人格化として「翁」はある。

この世に生まれる、生かされるというのはそうしたものの中にあることなのだという認識が満足につながっている句である。翁と見合う語り手自身も、かすかに翁=自然になりつつある。目出度くもあるが、一種無気味でもある。それは語り手が自身の見慣れぬ本性をあらわにしていることによる、変容の無気味さである。


句集『菊を焚く』(2015.7 ゆいぽおと)所収。

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