2015年8月18日火曜日

〔ためしがき〕 カメラと俳句 福田若之

〔ためしがき〕
カメラと俳句

福田若之


僕らはほとんど意識しないことだが、狭義の〈俳句〉という観念の誕生、すなわち、それがもはや〈発句〉とはほとんど呼ばれなくなると同時に、新たな価値観によって多かれ少なかれジャンルの再編成がなされたのは、写真術の発明よりも何十年も後のことだ。

考えてみれば確かにそうで、僕らは幕末の日本で西洋人が撮った写真を見た覚えがあるはずだし、〈俳句〉の誕生が明治以降であることも知っている。僕らは〈俳句〉を生み出したとされる人たちの肖像写真を見ることができる。

もちろん、こうした意味での〈俳句〉にも、近代以前の〈俳諧の発句〉としての長い前史があることは否定できない。しかし、それを言い出すのなら、写真術にだって、カメラ・オブスクラやカメラ・ルシダといった、画家たちの投影技術としての前史がある。

となれば、ひとまず、次のように書いてもさしつかえないはずだ――〈俳句〉は、写真機よりも新しい発明である。

それがどうしたと言われそうだけれど、このことはけっこう示唆に富んでいるのではないだろうか。

たとえば、今日伝えられている俳句史は、写真と分かちがたいものとしてある。子規の横顔、虚子の微笑、山頭火の旅装束や三鬼の口髭、あるいは久女の重たそうな結い髪などがもし写真に撮られていなかったとしたら、僕らが思い描く彼ら彼女らのイメージは、いくらか違ったものとなっていたことだろう。近代以降の俳人の全集を開けば、僕らは必ずといっていいほど彼らの写真を見ることになる。もちろん、 俳句史の主役は俳句であって写真ではない。それでも、定着された映像は、俳人たちのほとんど神話的な歴史を維持することにいまでも貢献しつづけている。

さらに言えば、物へと向けられたまなざしとしての特質を〈俳句〉に見出すなら、そのまなざしが写真以後のそれであることが重要に思われてくる(参考:橋本直「映像と言語と虚子俳句」)。その場合、たとえば、子規の「客観」や「写生」という言葉は写真以後のものとして理解されることになるだろう。

何より興味深いのは、写真がすでに普及していた時代にさえ、〈俳句〉は、あれほどの苦心を経て発明されるほど、つよく必要とされたのだという事実である――いや、言うまでもなく僕たちは〈俳句〉を必要としている。けれど、どうして僕たちにとってこれほどまでに〈俳句〉が必要なのだろうか?

ところで、子規の『俳諧大要』が発表された1895年は、フランスでリュミエール兄弟が前年に撮影した世界初の映画を公開した年でもある(ただし、リュミエール兄弟のシネマトグラフが映画館での上映のはじまりであるとは言い切れないようだ。一般向けの上映に関して言えば、ドイツのスクラダノウスキー兄弟のビオスコープという機械によるもののほうが数か月だけだが先行している)。したがって、今日的な意味での〈俳句〉は、写真どころか映画とほぼ同時期に発明されたとさえいうことができる。

さて、細かなところは割愛するが、映画にもこれまた長い前史があるといえる。いわゆる「視覚玩具」の歴史である。日本ではたとえば江戸中期から続く、回り灯籠や覗きからくりの歴史、あるいは江戸末期にオランダから伝わった幻燈の歴史などがそれである。欧米ではたとえばソーマトロープやゾートロープなどの歴史がそれにあたる。これらの視覚玩具は、人々が映画を観るときのありようを文化的に基礎づけていたとされる。

俳句と映画といえば必ずその名が挙がるのが山口誓子だろう。走馬燈と映画の関わりを思うとき、誓子の走馬燈の連作は、なかなか興味深い(これについてはすでに書いた。福田若之「物語としての俳句 1.山口誓子「マドロスの悲哀」と「走馬燈心中」」(『群青』第5号(2014年9月)、58-59頁)を参照いただきたい)。

誓子の論と実作は、基本的には、映画におけるモンタージュ論をもとに俳句の構成について考えるものだったと見てよいだろう。映画から俳句へ。

一方で、俳句から映画へ、という向きも――セルゲイ・エイゼンシュテインがすでに示唆していたことだが――当然、想定することができる。虚子がそのことに言及している。
俳句の映画化ということはしてもいいと思うですがね。ただいい材料を選んでいい映画を見せるのなら差支ないと思う。
俳句を映画にしたところでいい映画が出来るかどうか。
(高濱虚子『俳談』、岩波書店、1997年、210頁)
なるほど、虚子は俳句を映画化していい映画が撮れるかについては懐疑的だったようだ。しかしながら、虚子がこのような発言をし、それが『俳談』のなかに納められているということに、俳句と映画の分かちがたい関係を思わずにはいられない。

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