2015年11月28日土曜日

【みみず・ぶっくす 48】 文字の近傍 小津夜景

【みみず・ぶっくす 48】
文字の近傍

小津夜景



 ある店の窓に、つぼみの形をした指輪が飾られていた。
 かさなる幾重もの花びらには、ほとぶ寸前のあやうい均衡があり、そのあやうさがまるいつぼみの勢いをより引き立てている。その様子をじっと眺めていると、うしろから母が覗いて、ああほんとに蕾は雷をふくむのね、と言った。
 ふりむいた私のてのひらに、母はふたつの文字を綴る。
 おもしろい。世界がちがってみえる。
 「ね。中国の文字って剥製みたいでしょう。生きていてかつ死んでいる。存在として完成されていると思わない?」
 それからしばらくの間、私は「この現実を美しいフォルムとして実現した漢字」のことばかり考えて日々を過ごした。それは即ち不安定な生でなく、その十全なる実現としての死に対する興味でもあった。生ける屍——
 とはいうものの、私は漢字が自分と全くちがう存在様式を有することにただ魅了されていたにすぎない。生ける屍という在り方は、自分自身の憧れとするには少々完全無欠すぎたし、その全能性に巧妙なトリックを嗅ぎ取ってもいたから。 
 私は生きていることが楽しく、うごめくものが大好きで、木登りをするような年頃でもう、生死は人の可能性を二分する合わせ鏡ではないと思い、高い所をながれる雲を眺めながら、生とは決して死に辿りつくことのない、果てしなく終りのない、どこまでいっても死の近傍の世界なのだということを驚きと共に確信していた。
 ここに漢字がある。だが私はその中に入ってゆくことができない。いや、もしかするとそれは文字一般に対して言えることなのかもしれない。私は文字の世界の近傍を、ダイナミックにドリフトしては生きる。

北風の帆のふくらみを贈られし
ビスケット耳をすませば枯芝の
泣くによき離宮あれかし鶴姉妹
骨肉が冬の昴にたてこもる
冬眠や須恵器の鳥のがらんだう
影見れば神は旅寝のくさまくら
そろばんのマンボは冬の乱となり
忘却をえぼしなまこと思し召す
よく眠る山と我楽多文庫かな
仮名日記つめたき虹に捧ぐつもり

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