2015年12月26日土曜日

【みみず・ぶっくす 52】終わらない旅 小津夜景

【みみず・ぶっくす 52】
終わらない旅

小津夜景


 生ハムといえば、バイヨンヌ。
 バイヨンヌには、レオンさんという守護聖人がいる。このレオンさん、バイキングに首を斬られても、なおその首を自分の手で持って歩いたほどの達人だったそうだ。
 生ハムを眺めていたら、こんな話をふと思い出した。
 なぜ生ハムを眺めていたのかというと、もうすぐお正月なので、その買い出しに来たのだ。
 お正月の準備といっても、なにも変わったことはしない。歳の市は見飽きたし、衣類を新調するお金はないし、いつもと少しちがうごはんをつくるくらいだ。わがやは一部屋しかないので大掃除も終わっている。断捨離は、捨てるものがなかった。一応ゴミを探し回ってみたのだが、押し入れすらない貧居ではゴミをしまいこむチャンスもないらしい。
 自分の中に、人生のあらゆることに対し、せずにすむならなるべくそうしたのですが、と宣言するバートルビーが棲んでいて、彼の言うとおりにしていたら、いつまでもこんなである。
 脱文脈性へのこうした思い入れは、なにが原因なのだろう。
 夕方、夫と散歩に出る。あいかわらず夢のような空と海だ。カモメの子がたのしそうに遊んでいる。あのさあ、なんにも持たずにふたりきりで外国で生きてるとさ、ずうっと旅してる感覚抜けないよね。それで、こうやって風景の中を散歩して、なにもかもが儚く美しくて、本当に人生って終わらないハネムーンだよねえ、と散歩のたびに夫が言う。
 私もそう思う。ハネムーンを差し引いても、終わらない旅と脱文脈性というのは、おそらく最高の相性だ。
 部屋に飾ることも身に纏うこともない多くのこよなき意味が、人生という仮住まいを、さらさらと流れてゆく。

梁にハムぶらさがるなり年の内
つごもりを暇人つどふ本屋かな
数へ日をわづかに濡らし石段は
年ごこち花屋はどこもいい感じ
なにひとつなさず学者の年用意
始祖鳥もアンモナイトも掃き納め
年うつり忘れしままの棚のもの
古日記こよなき景のこまごまと
ゆく年のそろりと脈を手にとりぬ
元日のコルシカ行きの切符かな

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