年末大放送・拾遺
リレー俳句で遊ぶ
西原天気
12月某日、年末大放送の録画当日。
動画1≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/12/2015.html
動画2≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/12/blog-post_18.html
やることをやり終え、夕餉までにはすこし時間がある。
というとき「句会でも」となるのが俳人の倣い。3人と人数は少ないが句会もやってできないことはない。しかしながら、時間はそれほどない。お好み焼きの具を待つ鉄板はすでに温まりかけており、それに、だ、静岡、筑波という、ここからけっして近くはない場所へとその夜のうちに帰らねばならない生駒大祐、堀下翔両君の事情を鑑みて、なにか違う遊びはないかと数秒思案。3名なので上中下の句をそれぞれ別個につくるという遊びに決まった。さて、ルールだが、一斉に出すのでは天狗俳諧。なにもこのメンツでやることもない。上→中→下と順繰りにリレーして一句となす。そういうことにした。これもよくある遊びだが、名だたる若手2名が入るのだから、格別の妙味が出るかもしれない。
では、さっそく。
※生駒大祐=青、堀下翔=赤、西原天気=緑
生駒氏が上を提示。
雨として
なるほど。よくある感じには、しない。意地でも、しない、というプレイスタイル。
堀下氏が引き継ぐ。
雨として及びてゐしは
ううむ。
「俳句は形式の文学」と断じる生駒氏と「平成の俳句フェティシスト」と私が勝手に名付けた堀下氏が提出した上中だけあって、目の前には(凝った)器のみが置かれて饅頭も煎餅もない状態。家でいえば、骨組みだけが美しく組みあがり、そこには壁の色も窓ガラスの反射もない状態。
つまり、生駒・堀下の興味は「雨」や「及ぶ」といった語にはない。「として」「て」「ゐし」「は」の語の配置こそが作句なのであろう。
そのままお二人の流儀、お二人の流れに乗っかる手もあるが(それができるかどうかは別にして)、「俳句で俳句する」というフェティシズム、形式偏愛には、じつはちょっと抵抗がある。で、こうした。
雨として及びてゐしは夜の海豚
海豚は季語だぞ、諸君。そう念を押して、一句目が終了。
海豚をフインキ溢れる季語に替えれば、まったく別の句になりそうだ。
【intermission】
ここまでレポートして、「雨」「夜の海豚」の部分を生駒・堀下に別の語を入れてもらう「後日遊び」を思いついたので、メールすることにする。結果は後述。
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さて2つ目は、堀下氏から。
来たりては
あくまで骨格しか提示しない気だ。中は私の番。積み上げようとするマッチ棒を崩すべく、お二人が嫌うであろう「強い」語を持ってきたくなった。
来たりてはかの戦艦に
助詞の「に」はちょっと意地悪。散文的になりやすい。
生駒氏が下を付ける。しばし呻吟。「当季じゃないとダメですよね?」「まあ、いいんじゃないの、季節は」
来たりてはかの戦艦に似る蚊かな
おお、「蚊」という1音が使いたかったのか。「かな」も使いたかったわけだ。中の「に」を受けての動詞部分に最少2音は要る。引き算の結果、1音しか残らず、「蚊」となったわけだ。あくまで形式。形式ラヴ。徹底している。
ただ〈文語ラヴ〉にしては、「似る」がちょっと口語っぽいぞ。でも、まあ、なんだ、たいしたものだ。
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3つ目は、私が上。二人とも上句に名詞を避けているので(当然の作戦だ)、あえて。
にはとりは
これも「は」が意地悪。
次が生駒氏。
にはとりは冬なり常の
わっ、句跨がりで来やがった!
これを受けて堀下氏。
にはとりは冬なり常の冬は絵に
ぎゃっ、冬をリフレイン。
テクニシャン。
3つ終わって、年寄りの私としては、将来を嘱望される若い俳人2名の、こだわりよう、そして技巧に、あらためて感心したのでありました。
でも、それで人を幸せにする句がつくれるかどうかは別問題だから。
(と、わけのわからない捨て台詞)
でもね、標語+季語、これこれこう思います+季語、みたいな句にまったく関心がないところは、私も同じだ。また、いっしょに遊んでね。
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さて、二人へメールした課題、「《✕✕として及びてゐしは✕✕✕✕✕》の✕を埋めよ」の答えが返ってきた。
蘂として及びてゐしはつめたけれ 翔
汝として及びてゐしは明の雪 大祐
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