関悦史
茂吉忌や床の一部として過ごす 中山奈々
「床の一部として過ごす」とは体調不良か何かだろうか。「一部」とあるから、身体のサイズにもともと合わせられている「とこ」ではなく、「ゆか」と読むべきなのだろう。「畳」ではないので、その辺で安逸にごろ寝している雰囲気でもない。
安逸というよりは、どうしても放心や虚無感の色合いが濃い。「床の一部として過ごす」とは、体を横たえているということだけではなく、自己意識まで放散気味になっており、しかもそれを自覚している状態をあらわす。
上五に据えられたのは「茂吉忌」である。斎藤茂吉といえば、写実の向こうに国民的といってもよいような巨大なスケールの無意識を湛えた歌人である。
別に茂吉を激しく悼む気持ちから衰弱しているわけではあるまい。しかし、「茂吉忌や」と置かれることによって、単なる衰弱の姿が単なる衰弱の姿に終わらず、茂吉作品が湛える膨大な無意識空間との繋がりを得たとも見える。そしてその全てが、どうでもいいことと思われているようでもある。
「過ごす」は、自己意識を捨て去りきっていない。ただ漠然と茂吉忌と思い、床の一部になった自分がある。あり続ける。そのやりきれなさのような感覚への自足が捉えられている。
「しばかぶれ」第1集(2015.11)掲載。
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