2016年3月8日火曜日

〔ためしがき〕 「鷲掴む」の困難と可能性 福田若之

〔ためしがき〕
「鷲掴む」の困難と可能性

福田若之

寒蟬:
それと、表題になっている

勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
ですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。

信治:
鷲掴む も、たしかにまずいか。鷲づかみにする、とか、鷲づかみに掴む、という言い方ができるわけですからね。これは、選んで申し訳なかった。
仲寒蟬×上田信治、「【落選展2015を読む】 (1)「水のあを」から「梅日和」まで」
当然、そういう考え方もある。いや、角川俳句賞のことを念頭におくならば、そういう考え方こそがふさわしいとさえいえるかもしれない。けれど、そういう考え方ばかりでもないのではないか、と思う。

「有名な俳人が何人も使っているにも拘らず」というけれど、「夕焼くる」が、いま、「ダメ」なのは、まさしく、すでに「有名な俳人が何人も使っている」からなのではないだろうか。「夕焼くる」は、「夕焼け」の動詞化による既存の言語体系からの逸脱であることによってのみ、詩的でありえたし、また、それゆえにこそ、それがいわゆる「正しい日本語」ではないことなど誰もが気付いていたにもかかわらず、許容されえたのではなかったか。

思うに、「夕焼くる」が表現として許されるためには、それが「正しい日本語」でないがゆえの斬新さによって読み手をあっと言わせるか、そうでないのなら、もはや一般に普及して「正しい日本語」として辞書の厚みに加わってしまっていなければならないのだ。いま、「夕焼くる」は、「正しい日本語」として辞書に載ることを許されぬまま、特別な感興を催させることのない安易な紋切り型になりさがってしまっている。いま、それは、確かに、ただの「よくある間違い」になってしまっていて、それゆえに、もう、「ダメ」なのではないか。

けれど、こう考えてみると、むしろ、「鷲掴む」にはまだ可能性があるという気がしてくる。

すくなくとも、あえて「鷲掴む」を表題として掲げる作者が、「鷲掴み」が通常は動詞として活用されないことに無自覚だったとは、僕には思えない。

ただし、「鷲掴む」という表現を用いることの困難は、「夕焼くる」や「夏痩す」などと違って、容易に「鷲」が「掴む」の主語であるかのように読まれかねないという点にある。対談で問題にされている《勝独楽の立ちたるままを鷲掴む》(仮屋賢一)という句は、独楽を鷲が掴んでいるのだ、と解釈されてしまう危険を完全には回避できていない。ならば、主語を明示して「(主語)の鷲掴む」とすればどうかというと、その場合、今度は「鷲」が「掴む」の目的語であるかのように読まれかねない。もちろん、漢字をひらがなにひらいてしまえば、「づ」と「つ」の違いで識別できるようになるけれど、あえてそうしない手を考えるほうが面白い。

いまのところ、僕に思いつく解決策はひとつだけ――「(主語)は(目的語)を鷲掴む」とし、後の部分の全体にかかっていく「は」の性質を生かして「鷲」が主語として読まれる危険を回避しながら、目的語を明示することによって「鷲」が目的語として読まれる危険も回避する、というもの。けれど、このかたちは非常に散文的で、うまくいくかどうかは主語と目的語の組み合わせにかかっている。順番を組み替えて「(目的語)を(主語)は鷲掴む」とすれば散文っぽさはいくらか減るものの、今度は目的語が宙に浮いてしまう感じがして、落ち着かないように思う。

2016/2/22

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