2016年8月2日火曜日

〔ためしがき〕 語りかけと話しかけ 福田若之

〔ためしがき〕
語りかけと話しかけ

福田若之

語りかけるという言葉と、話しかけるという言葉とには、微妙なニュアンスの違いがある。

僕は、ほとんどの俳句を、語りかけとして受け止める。僕は俳句によって話しかけられたと感じることはほとんどない(さびしい)。

茅舎の《約束の寒の土筆を煮て下さい》には、 僕には身に覚えのない約束のことが書かれている。問題は、僕がこの約束について何ら思い出せないことにある。きっと、捏造された記憶でもよかったのだろう、何か思い出すことができれば、僕はきっと、この句に話しかけられたと感じることができたはずだ。けれど、僕にはそれができない。だから、茅舎がこの句の言葉で話しかけている相手は、僕ではないと感じる。僕が読むかぎり、この句は誤配された手紙なのだ。しかるべき誰かが読むなら、あるいは……。

いずれにせよ、この音信が僕のもとに訪れたことは、何らかの手違いによるとしか思われない。だから、僕は寒の土筆を煮る立場にはないと思う。もちろん、僕も、この書き手がしかるべき誰かに約束どおり寒の土筆を煮てもらえることを祈るけれど、彼に対して僕にできることはそれだけだ。それでも、この句は、僕に向けて多くのことを物語っている。たとえば、この手紙を書いたひとの姿を、僕は、ありありと思い浮かべることができる。僕はこの句に語りかけられていると感じる。

2016/7/2

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