2018年5月29日火曜日

〔ためしがき〕 虛子とユーミン 福田若之

〔ためしがき〕
虛子とユーミン

福田若之

荒井由実の「やさしさに包まれたなら」のなかでも、おそらく、次の一節はよく知られているだろう。
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
さらに、こうも歌われている。
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
これらの言葉を、たとえば、高濱虛子の次の句と比べてみること。
秋風や眼中のもの皆俳句 高濱虛子
与太話に思われるだろうか。けれど、実際、両者を比べてみると、そこから数々の興味深い問いが喚起されるのだ。

たとえば、「俳句」は「メッセージ」でありうるのか、ありうるとすれば誰にとってか。あるいは、「もの」と「こと」とのかかわりと、「俳句」と「メッセージ」とのかかわりとのあいだには、なんらかの類比が成り立つと考えられはしないか。「目にうつる」という身体感覚と、「眼中の」という身体感覚の差異はどれほどのものなのか。「俳句」であれ「メッセージ」であれ、とにかく、認識された事物がそれ自体何かしら言語状のものであると感じられる契機として、なぜ「秋風」、「静かな木洩れ陽」あるいは「くちなしの香り」といった現象が訪れなければならないのか。そのとき、なぜ虛子は「秋風」を「や」の一字でもって詠嘆しなければならず、ユーミンは「静かな木洩れ陽」や「くちなしの香り」の「やさしさに包まれたなら」と綴なければならないのか。そして、思うに、虛子の把握とユーミンの把握の決定的な違いは「きっと」という一語にあらわれている。この「きっと」は、いかなる差異のあらわれであるのか。

2018/5/26

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