小津夜景
夜
夜の散歩に出る。
砂浜を、てくてくてくてく、と歩いてゆく。
黄色いショベルカーが二台、砂浜に放置されている。近づいてみると、ヤンマーディーゼル車だ。せっかくなのでショベルカーの出っ張ったところに腰掛けて、小さな声でヤンマーの歌を歌う。大きなものから小さなものまで動かす力〜♪のあたりで頭の上を見ると満天の星だ。周りの散歩人たちは、おのおの夜空に没頭している。
すごいなあ。吸い込まれるのが怖くないのだろうか。
満点の星にドキドキしながら、眺めるともなしに暗い海を眺めていると、後ろから声がした。振り向くと、アパートの隣に住むポーランド人夫婦である。二人は、夜空を見にきたのだと言って、マフラーをきゅっと締め直した。
砂浜に佇み、夜空に顔を向けながら、隣に住む夫婦は語り出すーー外国で息子を育てるのは本当に大変だよ。親がフランス語を教えてやれないからね。しかも中学生だから、反抗期真っ盛り。たまに息子が一人きりになりたがるから、そんな日は彼のためにアパートを出て、こうやって夫婦で夜空を見にくるんだ。ああ、ポーランドの夜空と一緒だなあ。そう思いながら夜空に吸われるのは気分がいいね。今夜が満月でよかった。
なるほどーー吸い込まれるのが平気なのか。しかも吸われつつ、嬉しがる余裕まであるとは。
それとも、私が夜空を怖がりすぎなのかしら。
そういえば、岡本太郎『美の呪力』(新潮文庫)には、夜についての一章があったと思い、アパートに帰ってから読んでみた。
昼はひたむきに輝き、夜は透明でしかも混沌のままひろがる(…)私はビザンチンの「夜」をおもいおこす。たとえばサン・マルコ大聖堂のドームいっぱいにひろがる金色。(…)またラベンナのモザイクの、真青にはりつめた夜空のきらめき。(…)青くてもいいし、金色でも良い。少しもかまわないのだ。黒々とした宇宙への感動を、たまたまブルーにし、またたまたま金にして、迷わない。矛盾に対してまったく平気である。そこに「絶対」が出現する。中世において、人は矛盾に対面しながら透明でありえた。(…)「神は死んだ」と近代精神は宣言した。だがこの青の空間、金色の夜は、そのような思考を超えて生きている。岡本の言葉でいうと、昼は「世界」で、夜は「宇宙」だ。そしてその宇宙は、単純なる畏怖に転化するようなものではなく、むしろ矛盾を秘めた澄明へとどこまでもひろがる性質を持っている。生活というものが完全に地に根ざし、誰もが汗水を流して働いた中世の人々にとって、昼の過酷さに対立するように、夜とは純潔だったのだ。
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