相子智恵
凍鶴を飼はば百年ともに寝て 福田鬼晶
句集『リュウグウノツカイ』(ふらんす堂 2018.11)所収
飼うのは鶴ではない。凍鶴である。だからこの鶴は飛ぶことはおろか、動くこともしなければ、頭は翼の中に隠されているから顔を見ることすらできない。ただただ一本足で身じろぎもせずに立っているのみである。餌も食べなさそうだ。そんな凍鶴を飼うとするなら、百年間、ともに寝続けることだけだという句。
百年間、凍鶴と一緒にただ動かず、寒さの中に立ち眠ることが「飼う」ことなのだ。これは飼うのか、自分が飼われているのか。凍鶴と心中するという言葉がいちばん近い気がする。凍鶴に魅せられ、眠っているうちに百年が経ってしまった一人の男(男とは限らないけれど、なぜか男)を思う。民話めいた、うっとりと怖い句である。
〈ほーいほーいと繭玉の誰か呼ぶ〉
他に、句集中の掲句にも民話の味わいがあって好きだ。繭玉が一斉に(あるいはその中の一つが)誰かを〈ほーいほーい〉と呼んでいる。繭の多産を予祝し、願うために飾る繭玉。「予祝」という、まだ見ぬものを呼び寄せる行為が一句の物語の根底にあり、繭玉の本意が活きている。
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