小津夜景
ワクチン接種
家中の掃除を終えて、コーヒーを淹れていたとき、ちょうど訪問看護師のナタリーさんが、こんにちは、とやってきた。
「今日はワクチン接種だっけ?」とナタリーさん。
「そうです。破傷風の」と私。
「じゃあワクチンと、予防接種手帳を出して」
ナタリーさんの指示を受け、私は冷蔵庫から破傷風ワクチンの箱を出す。ワクチンは自分で薬局に行って購入する。保険が効くので、実際に払うのは0ユーロだ。ナタリーさんは箱をあけ、ラミネートをはがすと、注射器とワクチンと針をとり出す。そしてきんきんに冷えたワクチンをしばらく手の中で温めたのち、注射器にワクチンと針をくっつけた。
私はソファに寝そべり、短パンを下げてお尻を出した。注射は一瞬で終わった。そそくさと立ち上がり、台所に準備してあった2人分のコーヒーとドーナツをテーブルに並べると、ナタリーさんはスマホを出して、患者のケア用に用意しているリュートの曲をかけてくれた。
「あ。美術番組の曲」
「ふふ。シシリエンヌっていうのよ」
「不眠や躁病って、中世は音楽で治したって聞きましたよ」
「そうそう。この曲はルネサンスだけど」
ナタリーさんが音楽に詳しそうなので、私は本で齧ったうんちくを話す。中世のリュート弾きはハンセン氏病や酔っぱらいの治療もできて、病院や宮廷で演奏していたそうですよ。へえリュート弾きってすごいのね、他には何が治せたの? 他は知りませんが、ほんとリュート弾きはすごいです、もうね、お風呂屋さんでも演奏してたくらいで。
「中世の市民にとって、お風呂は特別なエンターテイメントだったんです。ほとんどの市民は自宅に風呂なんてありませんから、公共浴場へ行くわけですね。当時、大都市には十軒くらいの風呂屋があって、ウィーンに至っては二九軒もあったそうです。私の話にふんふんと耳を傾けていたナタリーさんは「楽器で酔わせて楽器で治す。儲かりそうな仕事ね」とうなずいた。窓の外から夏風が吹き込む。おいしそうなケバブの匂い。近所のレバノン・レストランが開店したのだ。
それでその風呂屋ですが、おっしゃる通り混浴で、風呂桶に浸かりながら飲み食い、おしゃべり、カードやさいころ賭博を楽しむ習慣がありました。そんな雰囲気ですから、性の交わりに発展することもあり、いってみれば歓楽の施設だったんですね」
「なんかイヤですね……」
彼女が言った。僕は面白いと思うけど。
「いかにも放浪芸人が活躍しそうな場所ですよね」
(木村洋平『珈琲と吟遊詩人』社会評論社)
小津さんこんにちは。木村です。
返信削除冬泉さんからお知らせいただきました、拙著を面白く引用していただきありがとうございます。ときおり、小津さんの御本や句に出会い楽しく拝読しています。私も拙く句作しています。
木村洋平
木村さん、はじめまして。
返信削除『珈琲と吟遊詩人』、どのページも面白くて幸せでした。『遊戯哲学博物誌』も。どこからでも読めるつくりも素敵ですね。
俳句をなさるのですね。『遊戯哲学博物誌』に俳句の話題が多いわけがわかりました。
ありがとうございます。遊戯〜のほうはどこからでも読めるがかえって読み終えないし、読みづらいとの声もいただいております……。俳句、少しずつ、十年です。
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