2020年3月30日月曜日

●月曜日の一句〔北杜青〕相子智恵



相子智恵







蝶生る樹々は根方に日を集め  北杜 青

『恭』(邑書林 2020.3)所載

樹々の根元に、やわらかな春の日が当たっている。森か、雑木林だろうか。樹々の根元の草花も萌えだしている。葉裏にくっついた小さな蝶のさなぎが、そっと羽化した春の日。(蝶の羽化の時間を思うと、これは朝の光のような気がしたけれど、午後の日差しでもいいと思う)。

何気ない写生句のように見えて、たいそう美しい句で、私はこの句から「祝福」を感じた。〈日を集め〉は光の美しさだけでなく、あたたかさも感じる。日の光が〈根方〉に集まっているというのも、相当にいい。樹々を見上げた先の光ではなく、樹々の根元に確かにある光。足元の、光だ。

  雨雲に日の輪郭や山桜

という句もあって、この光も美しい。雨雲の中に、うっすら見えた日輪。春陰の中に確かに光があることと、白い山桜。何も押し付けてこない句が、心にじんわり染みわたる。
今が非常時だからか、こういう風景句が、よけいに自分の中に染みてくる気がする。しばし、静かな光を感じていたい。

2020年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔定金冬二〕樋口由紀子



樋口由紀子






100挺のヴァイオリンには負けられぬ

定金冬二 (さだがね・ふゆじ) 1914~1999

一体、何に対抗心を燃やしているのか。ヴァイオリンは1挺でも存在感があるのに、「100挺」とは大きく出たものである。演奏が始まったら圧倒され、手に負えなくなるはずである。それに「100挺のヴァイオリン」はそもそも勝敗の相手にはふさわしくない。

しかし、それに挑んでいこうとするところがおかしい。反逆精神なのか。たぶん、作者には今、負けられぬものがあるのだ。自分を奮い立たせなくてはならないので、そう思うことで新たな希望を持つのだろう。何故だか、私もなにに対してかわからないが負けられぬと思ってしまった。「負けられぬ」という情緒に対しての「100挺のヴァイオリン」の暗示性に驚かされる。『無双』(1984年刊)所収。

2020年3月24日火曜日

●骨



夏痩の骨にとゞまる命かな  正岡子規

夏蒲団ふわりとかかる骨の上  日野草城

骨となるセイタカアワダチソウに雨  皆川燈〔*〕

白鳥二羽骨打ち合えば炎なり  高野ムツオ

骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ  金子兜太


〔*〕皆川燈『朱欒ともして』2020年1月/七月堂

2020年3月20日金曜日

●金曜日の川柳〔松本仁〕樋口由紀子



樋口由紀子






マイケルジャクソン歌う辛子の苦しさで

松本仁(まつもと・じん)1947~

マイケルジャクソンの歌う姿が辛子の辛さのような苦しさに見えるのか。それともマイケルジャクソンの歌を作者が辛子が鼻につんとくるときのような苦しさで歌うのか。どちらだろうか。辛(から)いと辛(つら)をダブらせている。マイケルジャクソンは「キング・オブ・ポップ」と称された超人気のエンターテイメント。しかし、私生活は数々のゴシップやスキャンダルに翻弄され、50歳の若さで亡くなった。

マイケルジャクソンの映像と辛子の鼻につんとくる瞬間を思い出す。マイケルジャクソンを偲びながら歌っている。それがもっとも作者らしい表情をしているときなのだろう。マイケルジャクソンの歌を歌いながら、現実から逃げ出したのだ、きっと。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2020年3月18日水曜日

●「金曜日の川柳」が単行本になりました

「金曜日の川柳」が単行本になりました

川柳の三要素「穿ち」「軽み」「おかしみ」と、その先へつながる新時代のアンソロジー誕生! 川柳作家の樋口由紀子が時代や流派を超えて読み解いた、珠玉の333句。川柳入門に最適な一冊。(左右社ウェブサイトより)
≫左右社
http://sayusha.com/catalog/books/p9784865282689c0092

2020年3月17日火曜日

●闘鶏

闘鶏

闘鶏の血しぶきの宙くもれりき  森川暁水

闘鶏の眼つむれて飼はれけり  村上鬼城

闘鶏師かたむく椅子にありにけり 岸本尚毅

闘鶏の血が白幕に少しづつ  日原傳

闘鶏に与へて尾鰭手に残る  加田由美〔*〕


〔*〕『翔臨』第92号(2018年6月)

2020年3月16日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤博美〕相子智恵



相子智恵







猫用の線香を買ふ春の雪  佐藤博美

「俳句αあるふぁ」春号(毎日新聞出版 2020.4.14)所載

東京では今年は雪をほとんど見なかったが、一昨日は大粒の牡丹雪が降った。雪片のあまりの大きさに空を見上げ、しばらく目で追い続けた。そういえば雨だと空を見上げないが、雪だと見上げるな、と思った。私だけかもしれないが。

掲句、〈線香を買ふ〉ほどの大切な猫だったのだ。亡くした悲しみがよく伝わってくる。それと同時に、上五を安易に「猫のため」のようにはせず、〈猫用の〉と突き放して描いたことで、本来、線香は人のために買うものであるということが、逆に強調されている。そんな線香を〈猫用〉に買ってしまう自分を客観的に詠むことで生まれた、微かな滑稽味。これがあるからこそ、悲しみがさらに強調されているのではないか。客観的に描くことで、作者の個人的な体験に、読者が入り込む余地が生まれている。

悼む心に〈春の雪〉が降っている。作者も空を見上げただろうか。

2020年3月13日金曜日

●金曜日の川柳〔田中五呂八〕樋口由紀子



樋口由紀子






人の住む窓を出てゆく蝶一つ

田中五呂八 (たなか・ごろはち) 1895~1937

部屋に入ってきた蝶がぐるりと一周して、また窓から出ていった。たった、それだけのことである。たまにある、ほんわかした春の一コマが、なにやら寂しさや悲しみの扉を開けてしまったように感じる。

作者は蝶を見て、何を思ったのか。視線は瞬時だが、内実は深いところを突いている。「窓」は単なる部屋の一部ではない。向こう側を否応なく意識させる。自分は蝶が入ってくる前からも出て行った後もずっとその窓の内側で住み続ける。蝶はあっさりと見切りをつけて出ていくことができるが、自分はここに居て、この場で生きていかなければならない。深い諦念なのか。それとも蝶のようにここを出て、新しい世界で何かを始める存在だと確認したのだろうか。そうだったら、嬉しい。

2020年3月12日木曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句」は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2020年3月11日水曜日

【名前はないけど、いる生き物】 親知らずドキュメント 宮﨑玲奈

【名前はないけど、いる生き物】
親知らずドキュメント

宮﨑玲奈


2020.3.6(金)
11時
歯医者に着く。診察台で待っている時間が一番ドキドキする。

11時半ごろ
抜くのでいいね?と医者に確認をされる。今更、戻れねーしなぁ、と思いながら、はいと言う。麻酔を2本かけられる。少しチクッとする。抜くよーと言われ、いつの間にか、歯を抜かれていた。痛みはなかった。口の中に痛みは一切ないのに、顔を触られたりする触感(と言っていいのか)を感じるのは、なんだか変な感じ。痛みは相変わらずない。

11時40分ごろ
薬が残っているかどうかと聞かれる。残っていると答える。ちゃんと飲めと言われる。痛みがなくても飲まなきゃいけませんかと言う。抜いた後だし、化膿止めみたいなとこもあるから、ちゃんと飲んでねと説得される。薬は嫌いだ。
痛みはない。

11時50分ごろ 
散歩する。痛みはないから、散歩とかできちゃう。わたしは、まぁまぁ病気がちなのだけど(咳喘息とか)痛みがないのに、薬を飲むってのは、結構面倒なものだなぁと思い始める。子どもっぽいところがある。そういえば、自分の中にある、明るい子ども心のことを、無邪キッズって名付けたことがある。これは全然、無邪気キッズじゃない。だけど、薬飲むためのテンションを上げるために、ダイソーに行って、薬を入れるかわいいミニバックとキラキラ星シールを買った。ユニコのかわいいシールもあったから買った。

12時20分ごろ
帰り道。マツキヨで、歯ブラシを買って買える。安い歯ブラシだとすぐに毛がひらいてしまうのが嫌で、いっそ高い機能性がいいやつを買ってみようというのを、しばらく続けている。前に、男の子に、わたしの歯ブラシを見た時に、それおじいちゃんとかが使うやつやん、って笑われたことがある。特に説明はしなかった。その子とは、ずっと会ってない。

12時半ごろ
ほんとの帰り道。あ、痛い。なんか、これは痛くなってるやつかもしれない、今じわじわ来てるかもしれない、という思いが湧いてくる。ジーンって痛さ、ジーンが、じわじわです。歯茎がジーンって痛さ。今これ書いてるけど、割と痛い。麻酔が1時間くらいしたら切れるって言ってたけど、ほんとにジワジワくるんだな。さーて、薬の仕分けと、痛み止めを飲むのをとりあえず早々にします。ジワジワきてるぜ!

13時半
いたーーーーーい

14時とか
電車で移動中。痛みで泣きそうになってた。

15時10分ごろ
ゆりかもめに乗った。痛みのことは割とどうでもよくなった。景色になんか泣きそう。自然とは言い難い景色に、なぜこんなにも泣きそうになってんだよ、と思った。そうか、わたしは、人に感動しているのかもしれない。ものがここに、こんなふうに集まってきているということとに、なのかもしれない。なんだか、人が小さい灯りのように思えてくる場所だ。

15時半ごろ
快適に観劇。

17時ごろ
観劇おわり。せっかくならと思い、台場公園を歩いてみる。はじめて来た。わたしの抜いた親知らずは、わたしにとって、わたしの獣の記憶として、多分大切なものだという刹那が湧いてきた。海がわたしに、そう思わせたのかもしれない。

つくりものの街や、ここから見られる、つくりものの景色。この景色にも、この場所にも、そんなにグッとこないけれど、女の子の友達とふたりで、たこ焼き食べたり、初めてタピオカ飲んだりした、千葉県の、ショッピングモールのフードコートは、なんだか楽しかったな。つくりものでも、二人だと楽しいのかな。

一人だから、どうしてここに、建てられたのかとか、埋め立てするのに海に底はないんだろうかとか、余計なことを考えてしまうのかもしれない。イオンに行くのがお出かけだった小さい頃のわたしは、お子様ランチを食べるのが、好きだった。下の歯が抜けたら、屋根に投げていたけれど、親知らずはもう生えたら嫌だから、大切にしまっておくことにする。

変な気分のわたしは、自分の歯を、だれかにあげたくなってしまった。わたしの歯あげると言うのもなんだかだし、わたしの歯はあなたに需要ありますかと聞いてみることにする。途中で献歯というシステムがあることを知り、これだ!と思ったが、親知らずの歯はどうやらダメらしいということ、献歯の協定歯医者ではないと難しいということから、叶わなかった。ちなみに、需要もなかった。(あっさり断られたし、軽く引かれた。そりゃそうだ。)部屋の貰い物で完成された置物コーナーに飾ってある。わたしの歯だけが貰い物ではない。

わたしから、わたしの一部が欠けた。あ、なんか、東京タワーはすきだな、ホームから見えている。昔から、この街にあるから、この建物は、見届けていると、思ってしまうのかもしれない。

18時ごろ
痛みがじわじわきてる。薬を飲む。痛み止めも飲む。

19時ごろ
快適に観劇。

※この日は食べる気になれず、特に摂取なし。
______

2020.3.7(土)
8時50分
消毒のため通院。痛みはあるかと聞かれて、痛み止めを飲んだら痛くありませんと答える。

※バイトに行ってまかないを食べる。夜観劇して、友達と焼き鳥を食べる。硬いものはまだ口にしてない。
_______

3/9(月)の現在も痛み止めを飲んだら痛くありません状態は続いているが、痛みのレベルもだいぶ落ち着いてはきた。まだ固いものは口にしていない。そういえば、わたしの好きな食べ物はプリンだった。



2020年3月10日火曜日

●象〔続〕

象〔続〕


三月や子供はみんな象が好き  雪我狂流

象と来て象だけ帰る雨季の寺  中田美子

月光の象番にならぬかといふ  飯島晴子

人間を信じて冬を静かな象  小久保佳世子


過去記事「象」
http://hw02.blogspot.jp/2011/01/blog-post_14.html

2020年3月9日月曜日

●月曜日の一句〔山口昭男〕相子智恵



相子智恵







山越えて来しくれなゐの桜鯛  山口昭男

『シリーズ自句自解2 ベスト100 山口昭男』(ふらんす堂 2019.12)所載

芽吹きの山の黄緑色に、鮮やかな〈くれなゐの桜鯛〉が映えて美しい。どこにも書かれてはいないが、山のところどころには山桜も咲いているような気がした。黄緑色の春の山と〈くれなゐ〉の色の対比はもちろん、桜鯛の艶っぽい〈くれなゐ〉と山桜の清らかな白さも照らしあっているのではないか。それもこれも〈桜鯛〉という名前の妙である。何だか海の精と山の精が出合ったような神々しさがある。

海のない県で育った私にとって、魚はまさに山を越えてやって来るものだった。生魚も買って食べてはいたけれど、塩漬のイカや鮭のような保存がきく魚介類の方が馴染み深かった。こんなに新鮮な〈くれなゐの桜鯛〉は、山里ではとびきりのごちそうであろう。

掲句、元は句集『讀本』(ふらんす堂 2011.6)に収められた句だが、自句自解の企画本より引いた。自解には〈ものをよく見て作ることを信条としてきた。あるときから、ものを見ないでも俳句を作らなければと考えるようになった。掲出句の桜鯛は直接見たことはない〉とある。見事なイメージの一句である。

2020年3月6日金曜日

●金曜日の川柳〔前田一石〕樋口由紀子



樋口由紀子






人間の姿で立っているのだが

前田一石(まえだ・いっせき)1939~

ふと口に出た言葉のような一句である。自分の姿を鏡かなにかで見たのだろうか。確かに人間の姿で立っている。しかし、本当に人間といえるのか。人間とは何なのか、自分とは何者なのかと自問している。

「いる」と存在し、「のだが」と疑っている。「のだが」がクセモノで、だからどうなのだとは一言も言っていない。言葉のはたらきに対する認識で人生を捉えている。

こんなことを思うのは私だけではなかった。だから、そのつぶやきのような一句がすっと心に入り、句に呼びかけられる。さてさて、どうなのか。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2020年3月4日水曜日

【名前はないけど、いる生き物】 最近の「なんか」日記 宮﨑玲奈

【名前はないけど、いる生き物】
最近の「なんか」日記

宮﨑玲奈


「引き伸ばし」
2020.03.02(火)

なんだか気持ちが乗らず送るのを引き伸ばしていたから今日は火曜日だ。身の回りで、演劇の上演の中止や、劇場の閉鎖が起こっている。そんな時に、こんなくだらないことを書いてて、書き終わってて、送っていいのか、みたいな気持ちが少し湧いてしまっていた。今日は火曜日で、見返したら、やっぱり送ってみようという気になったので、この文章を送った。

演劇は、観客がいて、はじめて成り立つ。最近、わたしは、新作の戯曲を書いていて、頭を悩ませたとき、他の人の戯曲を読み返していると、人のまなざしや、見られていることを、どのように考えるか、ということが含まれているなと改めて思ったりした。すぐれた作品ほど、その仕掛けにはっとさせられるような、そんな気がした。直接的でなくても、まなざしへの態度は、含まれている。

演劇には、観客が必要だ。ささやかに、あたりまえに、文化や芸術が、生活の中にあってほしいと思う。わたしたちは、生きていて、簡単に、言葉を発することができてしまうし、その言葉たちには、常に暴力性があって、同時に優しさも含まれているだろう。

できる限り、思考して、で、それぞれが、それぞれの方法で、存在していこう、って言いたい。そうしている人たちを、応援したい。でも、やっぱり、誰かに言われた言葉に従うしかない時もあるかもしれないけど、それでも、きみが思考して辿ったこれまでは、ちゃんと存在していくし、存在しているよ、って言いたい。だれが見ているかわからないけど、わたしは、言いたかった。

__________

「痛みについて」
2020.02.29(土)

どうでもいい話は多分どうでもよくない、そこがいいんじゃないかな、と思ったり、思わなかったりする。わたしは、いつだって、なにかを決めるのが苦手で、どっちだろうって、ずっと、その場所を、行ったり、来たり、している。

最近、わからないことに、チェック柄をなぜプラスチックに印刷するのか、ということがある。メガネのつるに印刷されているチェック柄を見ていてわからなくなった。チェックって布に印刷するものではないのか、プラスチックとチェックの相性ですばらしいと思った製品を見たことがまだない。そう、例えば、昭和レトロなちょっとダサかわいい感じを狙った、プラスチックのチェック柄だとわかる。あえて、ダサくなってかわいいというライン。でも、メガネのフレームの裏のチェック柄は、かっこいいとか、おしゃれを想定しているチェック柄で、でも、なのに、そんなにかっこよくない。やっぱり、チェック柄のスカートだとか、靴だとか、かばんだとか、チェックは布なのではないだろうか。チェックをプラスチックに印刷しはじめたのは、どうしてだろうか。特にメガネ。メガネのチェック柄がどうしても理解できないでいる。あの、メガネの、あまり見えない側にこっそり印刷されている、隠れチェック。あの隠れプラスチックチェック。でも、隠れプラスチックチェックって言葉はちょっとかっこいいかもしれないと今思い始めたけど、やっぱり、なぜ、プラスチックにチェック柄を印刷するのだろうか、わからない。

というようなことを、親知らずを疑いはじめて3日、痛みを堪えられなくなる頃、気を紛らわせるために、考えていた。痛みを騙し騙し生活してきたが、どうにも耐えられなくなって近所の歯科医院に行った。騙し騙しというのは、気づかないふりをするということだ。耐えられる痛みなのではないかと、その痛みを疑うことだ。3日ほどして、痛みが疑えなくなったので、観念をして、病院に行った。基本的にわたしは、病院というものが嫌いだ。みんな、そうなのかもしれないけど、インフルエンザの予防接種の注射も小学生までは大泣きをしていた。「うーん、噛み合う親知らずもないので、抜いちゃいましょう」と言われ、来週の金曜日に親知らずを抜くことが決まる。今は痛み止めの薬で、これまた、騙し騙しやっている状態だ。初めての麻酔、初めての親知らずの抜歯、ものすごく不安だ。

やっぱり痛みを騙せないでいるから、痛みのこと、それ自体を考えようとしている。10段階で考えると、この痛みはどのレベルなんだろう。まだ経験をしたことはないけど、出産の痛みが10だと仮定する、昨年の秋に経験したアニサキスの激痛は8だった。救急車にはじめて乗った。寝る前に3ぐらいの痛みが、3時頃に急に8に変わった。とうとう救急車がやって来て、救急隊員にどんな風に痛いですか、と言われる、難問すぎる。痛いのに、わからない。キリキリ痛みますか?と聞かれても、キリキリとは?って思ってしまう。刺すように痛みますか、も、刺すように痛むのがどんな状態なのかわからない。まさに痛い時に、その痛みを言葉で表現するのは、すごくむずかしい。痛いです!多分、キリキリです!キリキリ、なのかなぁ、多分キリキリです、みたいな答え方をした気がする。押さえつけられている感じです、とかっても言った気がする。痛みを確認しながら、頭の中に?マークが浮かんでいる、で、こんな痛みかも、って思って言う。痛みが伝わりづらい例をあげる時、よく、のどのイガイガのつらさのことを言う。のどのイガイガのつらさは、それが表出されない、その痛みの伝わりづらさにあるだろう。どんなに、のどがイガイガしていても、そのイガイガは「イガイガ」としてしか伝わることがない。イガイガは共有できない。

親知らずの抜歯をわたしは5で考えている。じわじわ痛いタイプだと。抜いたら報告します。(あなたの親知らず体験もよかったら聞かせてください。)今日バイト先のサイトウさんに、親知らず抜くの?痛くない痛くないと言われて少し安心した。今日もくだらないことを考えながら、一日が終わっていくのでしたということを書こうとしたけど、今日見たジャルジャルのネタの序盤の福徳のありようが、くだらないことを考えている時の自分に重なって見えてしまって、少し落ち込む。くだらなさを考えようとすることも、エゴみたいになっちゃうことだってあるのかなって思って。
 
 
あ、そういえば、生駒さんと柳元くんがやっていたやつに投句しようと思って、しそびれました。というわけでここにこっそり載せておきます。

ぱらぼらに雲のかかって目の前は
春はもう歩道の人なみが早い
皿洗う昼間でなんとなくの春
春の雲軒に干されるテディベア

2020年3月2日月曜日

●月曜日の一句〔及川真梨子〕相子智恵



相子智恵







春風が暗渠を出でて黄昏へ  及川真梨子

「むじな 2019」(むじな発行所 2019.11)所載

掲句の〈春風〉からは、春が来た喜びのようなものは全く感じないのだけれど、暗渠を出た水の匂いがする生ぬるい風には、春ならではの「気だるさ」があって春風らしいと思った。これが夏なら匂いが強すぎるし、秋なら寂しすぎる。冬なら黄昏はあっという間に過ぎ去って、余韻を書き留める暇もないだろう。

〈暗渠を出でて黄昏へ〉という薄暗さから薄暗さへの展開によって、作者のアンニュイな心は十分に伝わってくる。それでも春の黄昏は、そのまま時間が進めば艶と華やぎのある「春の宵」になるのであって、暗渠の出口で川を眺めながらぬるい春風を感じている無為な時間は、枯れた風情ではなく、生きていることの艶につながっている。青春のアンニュイさのようなものを感じるのである。