2022年1月5日水曜日

西鶴ざんまい #20 浅沼璞


西鶴ざんまい #20
 
浅沼璞
 

 子どもに懲らす窓の雪の夜  八句目(打越)
化物の声聞け梅を誰折ると  裏一句目(前句)
 水紅にぬるむ明き寺    裏二句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
本年も「三句目のはなれ」の吟味にかかります。
 
まず前句は化物に扮する下女の目線から、「誰が梅を折ったんだ~、この化物の声をよく聞け~」と、打越のいたずらっ子をおどしています。この「化物」という言葉が付いたことにより、連歌時代からの「異物の付け」となります。

とはいえ下女が扮した「作り事」ですから、異物の度合は低い。

そこで自註のとおり、「作り事」の化物を現実の「有り事」の化物としてとらえる第三の眼差しが向けられます。いわばホラーの語り手目線が付句には働いているわけです。
 
この目線から、血の池のぬるむ空き寺という、前句にふさわしい「其の場」の付けがなされ、「異物」の度合がぐんとアップ。果たして「三句の転じ」と相成った次第です。


ところで、前回の拙稿を読んだ編者の若殿(若之氏)よりメールがあり、言うことには、

「西鶴本人は自註に書いていないようですが、この『紅』は水面に映る紅梅のイメージでもありますよね。もとは雪中梅として書かれた『梅が枝』を、より遅く咲く紅梅の枝と捉えなおすことで、水温む仲春の季へとなめらかにつないでいるようにも思いました」

との仰せ。つまり打越/前句の雪中梅が、前句/付句の紅梅へと転じられているという指摘です。

西鶴の意識の中で雪中梅が晩冬ならば、春の紅梅への季移り。雪中梅が初春ならば、仲春の紅梅への同季の付合となります。

周知のとおり同季の付合の場合、仲春から初春へ遡るのは「季戻り」といって嫌います。つまり雪中梅から紅梅への順行はOKですが、逆行は禁じ手なわけで、そのへんを知悉した老俳諧師の「抜け風」な季のあしらいとも受けとれます。


「呵々。さすがは若殿や。年も明けたことやし、編者と筆者を入れ変えた方がええんちゃうか」

それ、前にも聞きましたけど。

「呵々。新年のリピートや」

なら、政治屋よろしく自分の座にしがみつくっていうのもリピートさせてもらいます。

「呵々。新春早々、そないな転合、聞く耳持たんで。笑止、笑止」

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