樋口由紀子
こぶしひらいても何もないかもしれぬ
尾藤三柳 (びとう・さんりゅう) 1929~2016
こぶしの中は目で見えない。あると信じているものが開いてみたらなくなっているかもしれない。あるいははじめから何もなかったのに、さもあるかように見せかけていたのかもしれない。ぎゅっとこぶしが握られていたら、その中には摑まえた蝶とか、大事なものとかきらきらしたものとか、なにかあるのかとつい思ってしまう。
そのつい思ってしまうことを、まずは「何もない」ときっぱり否定し、次に「かもしれぬ」と否定を揺るがせるかのような思わせぶりな表現をする。「ないかもしれぬ」というのは都合のいい便利な言葉である。もう一つの「何かある」をありありと呼び起こす。「ないかもしれぬ」には「あるかもしれぬ」がぴったりと貼り付いている。「こぶし」のなかは開けてみなければ、どうなっているのか本人もわからない。
こぶしの中は目で見えない。あると信じているものが開いてみたらなくなっているかもしれない。あるいははじめから何もなかったのに、さもあるかように見せかけていたのかもしれない。ぎゅっとこぶしが握られていたら、その中には摑まえた蝶とか、大事なものとかきらきらしたものとか、なにかあるのかとつい思ってしまう。
そのつい思ってしまうことを、まずは「何もない」ときっぱり否定し、次に「かもしれぬ」と否定を揺るがせるかのような思わせぶりな表現をする。「ないかもしれぬ」というのは都合のいい便利な言葉である。もう一つの「何かある」をありありと呼び起こす。「ないかもしれぬ」には「あるかもしれぬ」がぴったりと貼り付いている。「こぶし」のなかは開けてみなければ、どうなっているのか本人もわからない。
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