2024年5月31日金曜日

●金曜日の川柳〔真島久美子〕樋口由紀子



樋口由紀子





帰りたいときに帰れという小雨

真島久美子(ましま・くみこ)1973~

恋句だろう。恋人の家に行っていて、もうそろそろ帰らなくはならない時間になった。外は小雨。強い雨なら、雨が止んでから帰ると言えるが、帰れないほどの雨ではない。恋人も「帰れ」とは言わない。しかし、「帰るな」とも言わない。いつまでも続きそうで止みそうもない小雨。「小雨」の微妙な存在が二人の微妙な関係を映し出す。小雨はひんやりと冷たく、その音はだんだんとつれなく聞こえてくる。

言葉のつなぎ方にセンスがあり、情念をたっぷりと含んだ「私」を濃厚に立ち現わしている。一方、意味深な内容なのに、それに反するように音にのった言葉に躍動感がある。その後、どうしたのだろうか。『恋文』(2024年刊 共和印刷)所収。

2024年5月29日水曜日

●西鶴ざんまい #60 浅沼璞


西鶴ざんまい #60
 
浅沼璞
 
 
 銅樋の軒わらひ捨て   打越
神鳴や世の費なる落所   前句
 勧進能の日数ふり行   付句(通算42句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏六句目。雑。 勧進能=寺院建立・補修等の寄付を募る能。晴天三日から四日にわたって興行する。 ふり行(ゆく)=「経りゆく」、経過する。「降りゆく」にも掛ける。

【句意】勧進能の開催日、雨が降って過ぎていく。

【付け・転じ】打越・前句=銅樋に落ちた火神鳴(日雷)への迷惑感情による付け。前句・付句=前句の火神鳴を水神鳴(みづかみなり)に取成しての転じ。

【自註】「作の面*を掛て道成寺*をする日は、かならず雨の事」とむかしより俗に申(まうし)伝へし。惣じていづれの太夫(たいふ)にても、勧進能取立(とりたて)し節は、大かた雨のふりて、難儀多し。前句の「神鳴」を大雨にして此(この)句付寄せ、何の俳作もなく、行かた*計(ばかり)の付かた也。

*作の面(さくのめん)=名工の作面。
*道成寺=驟雨(ニハカアメ)―道成寺の能(類船集)
*行かた=遣句(やりく)ふうの軽い付。ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい #38 浅沼璞

【意訳】「名工の作面をかけ、道成寺モノを興行する日は、きっと雨が降る」と昔から世間に申し伝えている。総じてどこの家元にても、興行能を催すときは、たいてい雨が降って難儀することが多い。前句の「火神鳴」を「水神鳴」の大雨に取成してこの句を付け寄せたもので、なんの俳諧的作意もなく、遣句ふうの軽い付け方である。

【三工程】
(前句)神鳴や世の費なる落所
 
 大雨にして難儀多かれ 〔見込〕
    ↓
 大雨つゞく道成寺の能 〔趣向〕
    ↓
 勧進能の日数ふり行  〔句作〕

火神鳴を水神鳴に取成し〔見込〕、どんな難儀があるかと問いながら、驟雨(ニハカアメ)―道成寺の能(類船集)の寄合に着目し〔趣向〕、勧進能の日数を詠んだ〔句作〕。

 
そういえば『世間胸算用』に、勧進能の観客の大げさな描写がありましたね。

「そや、江戸から参った大尽客なんぞ、桟敷を二軒とってな、調理場や茶室まで設けてな、桟敷の下には仮設の湯殿や厠かてな……」
 
……なんか上沼E子の暴走トークみたいですね。
 
「なんや、そなたの時代でも転合口(てんごうぐち)たたくお人が居るんかい」
 
はい、やはり上方の芸人さんでして。

2024年5月27日月曜日

●月曜日の一句〔佐怒賀正美〕相子智恵



相子智恵






かたつむり窮屈スマホの縦画面  佐怒賀正美

句集『黙劇』(2024.1 本阿弥書店)所収

掲句、現実のかたつむりがスマートフォン(スマホ)の画面の上を這って窮屈そうだ……ではなく、目の前のかたつむりにスマホのカメラの縦画面を向けて撮影しようと四苦八苦している場面、あるいはスマホの縦画面でかたつむりの写真や動画を見ている場面、と読むのが自然だろう。

縦長画面のスマホとSNSの普及により、人々や企業が「スマホで見ること」に最適化していった結果、漫画やドラマなど、最初から縦の画面に収まるように縦長に制作する「縦画面コンテンツ」が増えているという。

かたつむりはもちろん、体が横に長くて、地面や水中を横方向に動きまわる多くの動物たちの自然の姿は、縦画面には収まらない。もっと言えば、横画面にも収まらないのが自然だが、窮屈度合いは、横よりも縦のほうが増す。

人間は、立って全身を映すには縦画面が適しているし、縦画面にすると人間は「集中しやすい」という特徴があるようだ。(NHK「クローズアップ現代」より)それと引き換えに、周辺情報は遮断される。それが自然な状態だとは言えないだろう。掲句、スマホとはまさに人間に最適化した道具なのだ、という批評も感じる。かたつむりは周辺を失い、また、画面上で自分の体の一部も失い、いかにも窮屈そうだ。

 

2024年5月24日金曜日

●金曜日の川柳〔義積喜美子〕樋口由紀子



樋口由紀子





一斉に月に吠えたか一夜干し

義積喜美子

萩原朔太郎の詩集『月に吠える』がある。まさに換骨奪胎。うまく取り入れて、自分のものを作りだしている。なによりも「一夜干し」がいい。一夜干しは一晩で一度に干す方法で、数日間かけてじっくり干す方法の天日干しとは異なる。烏賊か鰺の干物だろうか。一斉に数百の烏賊や鰺があたかも月に吠えているかのよう天に向く。荘厳で吸い込まれていきそうな景を描出している。

「月に吠える」は生命力のある力強い言葉である。私は富岡多恵子が「月に吠える男は詩人であっても、女が同じことをすれば狂気ときめつけられた」と書いた一文をいつも思い出す。

2024年5月20日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木総史〕相子智恵



相子智恵






輪郭のぼやけてきたる氷菓かな  鈴木総史

句集『氷湖いま』(2024.3 ふらんす堂)所収

氷菓の、まだ詠まれていないであろう一面を発見した句。袋から出したばかりの氷菓(アイスキャンディー)には、当然だがはっきりとした輪郭がある。それが舐めたりして溶けていくうちに、ぼやけてきたというのだ。透明感のある氷菓だからこそ、〈ぼやけてきたる〉の滲む感じに納得感があり、なるほどと思う。

氷湖いま雪のさざなみ立ちにけり

白鳥のあかるさに湖暮れきらず

今は北海道に住む作者。〈氷湖いま〉は、水の漣が生まれることのない凍てついた冬の湖の表面に、今は雪が吹かれて漣立っている。〈白鳥の〉は、暮れ残る白鳥によって、湖がぼうっと明るい。どちらも水辺の微妙な光の美しさを捉えた。

氷菓の句も景色のスケールこそ違うものの、小さな世界の中に透明感があって、水と光の美しさがあると思った。

 

2024年5月17日金曜日

●金曜日の川柳〔須崎豆秋〕樋口由紀子



樋口由紀子





阿保なこと云うてしもうて淋しけれ

須崎豆秋(すざき・とうしゅう)1892~1961

捻挫をした。もう一月近く経つのにまだ痛みは残っている。旅行中に偶然満開の桜に出会い、もっと見ようと欲張ってスーツケース片手に堤防を上った。そのときに足を挫いた。自分のあさはかな行動が腹立たしく、哀しくなった。

掲句は「淋しけれ」。哀しいとは含意が違う。悔やんでも悔やみきれない痛恨のミスの核心を突く。まして相手が存在する。何を云ったのかは書かれていないが、意に反することだったのか、それとも正直すぎることだったのか。思慮の無さや判断力の甘さが頭をもたげて、すべてのものから置きざりにされているような気持ちになって、この上なく淋しいのだろう。『ふるさと』(1985年刊 川柳塔社)所収。

2024年5月13日月曜日

●月曜日の一句〔中嶋鬼谷〕相子智恵



相子智恵






汚職・邪宗・病む国に立つ黴煙  中嶋鬼谷

句集『第四楽章』(2024.2 ふらんす堂)所収

ストレートな句だ。今の日本に住んでいれば、説明は要らないだろう。あとがきから少し引こう。

〈俳句の世界は概ね平和であり、この国の社会や世界で何が起ころうが関わりを持たないことを俳人の「心得」とするような風潮がある。しかし、そうした「心得」を持った俳人達が、先の大戦中には、最も思想的で最も政治的な「日本文学報国会」に雪崩れを打って参加していったのであった〉

季語は〈黴煙〉である。季語をこういう形で働かせることを嫌がる向きもあるかもしれないが、そんな人々に対しては、上記のあとがきこそが、氏の答えだ。とはいえ、こういう句にどんな季語を選ぶかは難しい。〈黴煙〉ではなく黴が生えた状態、つまり目に見える黴を描くこともできたのだ。

しかし、黴くささと胞子の気配が満ちているものの、実際にはっきりとは目に見えない〈黴煙〉という季語の選択によって、直球の上五、中七が生きるのではないかと思った。「何となくの空気」として、もやもやと立ち上ってはいても、全貌が見えてこない気味の悪い後味が残るのである。

 

2024年5月11日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


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2024年5月10日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子





羽根生えるまでははんぺんらしくする

月波与生(つきなみ・よじょう)

関西人なので「はんぺん」はあまり食べない。一度おでんにはんぺんを入れたら、他の練り物を圧倒するほどの、そのあまりの場所取りの、膨れ上がり方にびっくりした。その割には味はいたって淡白。見た目よりはおとなしい食べ物だと思った。

「はんぺんらしく」だから「はんぺん」なのだろうか。それとも別のなにものかがなのか。「はんぺん」ならいつまで経っても羽根は生えないはずだが、人の見方はひとりひとり違う。ここから飛び立つためのそのときまで、飛び立とうなどとは考えていないふりをして、鍋の底におとなしく沈んでいるのだろう。たしかな独自の毒がある。『ライムライト』(2024年刊 満天の星)所収。

2024年5月9日木曜日

【新刊】小川軽舟『名句水先案内』

【新刊】
小川軽舟『名句水先案内』


2024年4月30日/KADOKAWA

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2024年5月7日火曜日

●ナイター

ナイター


運河よりナイターの灯へ蚊喰鳥  水原秋櫻子

雨もよひなるナイターの灯りけり  清崎敏郎

ナイターに見る夜の土不思議な土  山口誓子

ナイターのみんなで船にのるみたい  三宅やよい

ナイターのゆつくり落つるホームラン  前北かおる

遠空にナイター明り亀乾く  秋元不死男

除草機を押すナイターの余光負ひ  伊丹三樹彦

みんな空見てナイターの帰り道  阪西敦子〔*〕


〔*〕阪西敦子句集『金魚』2024年3月/ふらんす堂

2024年5月3日金曜日

●金曜日の川柳〔中内火星〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



桜餅それとは別にマヨネーズ  中内火星

別じゃなかったら、かなりたいへんなことになる。口の中が。

考えてみれば、桜餅とは、桜でつくった餅ではないのに(おおむね、という意味。桜の葉という衣裳部分は除いて、という意味)、季節の添え物として、華やか、かつ、かわいらしい。一方、マヨネーズがわが国において万能ドレッシングとしてすっかり定着したのは、このカタカナ語のもつ、うねうねとした語感と、チューブから絞り出すときの物理的うねうね感が、みごとに一致したから、とも言えるような気がする。

句の構造はシンプル。句意明瞭。結果、ほどよく可笑しい。

掲句は『What's』第6号(2024年4月)より。

2024年5月1日水曜日

西鶴ざんまい #59 浅沼璞


西鶴ざんまい #59
 
浅沼璞
 
 
和七賢仲間あそびの豊也  打越
 銅樋の軒わらひ捨て   前句
神鳴や世の費なる落所   付句(通算41句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏五句目。雑(当時、神鳴は雑。『最新俳句歳時記』では「俳句の季題」に分類)。
や=軽い間投助詞(ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外編9 浅沼璞)。
費(つひえ)=損失    落所(おちどころ)=落雷発生地点

【句意】雷や、(よりにもよって)世の損害となる落下場所である。

【付け・転じ】打越・前句=和賢人の目線(無常観)から上層階級の贅沢(銅樋)を冷笑する付け。前句・付句=銅樋への冷笑から、そこに落ちた神鳴への嘲笑・迷惑感情へと転じた。

【自註】神のまゝにも仏のまゝにも成がたき物は、神鳴の落所ぞかし。人にかまはぬ広野(ひろの)大海(だいかい)もあるに、住家に落て軒端を崩し、植込の大木を引割き、国土の費なる物なり。人、皆、其の落ける跡を見物して、「太鼓わすれてあらぬか」、「竜の駒の爪はないか」と大笑ひせし。目に見えずして、是はおそろしき物、桑原(くはばら)/\。*
*桑原=雷除けの呪文。神鳴―桑原(類船集)。

【意訳】神の心のままにも、仏の心のままにもならないのは、落雷の発生地点である。人間と無関係な広い野原や大きな海もあるのに、人の住家に落ちて軒端を壊し、植込みの大木を引裂き、世の損害となるものだ。人はみな落雷の跡を見物して、「太鼓を置き忘れてないか」「神鳴龍の駒の爪痕はないか」と大笑いしたりするが、目に見えないから、じつは怖ろしいもの、くわばら、くわばら。

【三工程】
(前句)銅樋の軒わらひ捨て
  神鳴や太鼓わすれてござらぬか  〔見込〕
    ↓
  神鳴や目に見えずしておそろしき  〔趣向〕
    ↓
  神鳴や世の費なる落所      〔句作〕

笑いの対象を軒へ落ちた神鳴へと転じ〔見込〕、世間において神鳴はどんな存在かと問いながら、人々の本音(迷惑感情や恐怖心)へと目を向け〔趣向〕、社会インフラの損失を詠んだ〔句作〕。

 
そういえば『日本永代蔵』にも年末決算のころ、家でたった一つの釜に冬雷が落ち、それを買い替えた分だけ赤字になったっていう笑えない話がありましたね。

「そや、迷惑な話やろ」
 
『西鶴諸国ばなし』では旱魃がらみで神鳴様が出てきましたね。
 
「あれは夜這い星に戯れた神鳴様が精液を出しきって日照りになってな、困った村人が牛蒡の供物で神鳴様の精力を回復するいう話やで、おもろいやろ」
 
でも、けっきょく神鳴様は性病ぎみでオシッコが出にくくなってしまったというオチで。
 
「そや、尿が出にくいいうことは、降っても小雨いうことやで、おもろいやろ」