ホトトギス雑詠選抄〔16〕
春の部(四月)シクラメン・上
猫髭 (文・写真)
シクラメンはシクラメンのみかなしけれ 中村汀女 昭和10年
性格が八百屋お七でシクラメン 京極杞陽 昭和14年
「シクラメン」は投句が少なかったこともあるが、この二句のみを虚子は「ホトトギス雑詠」最終選として残した。
汀女の句のオリジナルには「横浜植木会社」という前詞が付いている。小椋桂の昭和50年に一世を風靡した「シクラメンのかほり」(レコード大賞)の歌詞として本歌取りされたような句だが、「シクラメンのみ」という断定によって、蝶が羽を立てたような花が「かなしけれ」という形をしている。つまり、観察を越えて主観を物として詠んでいる。このような主観写生句を「客観写生」を指嗾した虚子が採るとは意外と思われるかも知れない。
杞陽の句はもっと飛んでいる。「~が~で」という説明調で、しかも「八百屋お七」という江戸時代の赤猫(放火)娘が引き合いに出され、「が」「で」の濁音の重ねも騒々しい句のどこが「客観写生」なのか。とはいえ、何とも魅力的で楽しい句ではある。
わたくしは俳句の初山踏の際に、インターネット俳句「きっこのハイヒール」の管理人横山きっこさんから昭和17年の『ホトトギス雑詠選集』(朝日文庫)だけを暗記するほど読めばいい、とアドバイスを受けて、読んでみたら、これが面白く、その続編として編まれた昭和37年の『ホトトギス雑詠選集』(新樹社)も読んで、杞陽のこの句を見た途端、一発で杞陽ファンになった。
と同時に、「客観写生」とか「花鳥諷詠」とかいう虚子のゴタクも、こういう句を一本釣りする虚子の眼力に比べれば「方便」に過ぎないこともわかった。以前にも触れたが、もともと虚子は子規との違いを明らかにするために「主観的写生」を説いていたのが、余りにもひとりよがりの主観句が横行するのに辟易して「客観写生」へ舵を切ったことは『進むべき俳句の道』で断っている。高野素十も「斎藤茂吉に従へば写生に主観も客観もないことになる。僕達も究極はさうなのであるが、その究極への手段として客観写生をしてゐるのである」と「手段」に過ぎないことを周知の上である。茂吉の言うごとく、字義通り「写生とは生を写すものである」。
「ホトトギス」の世界では、この杞陽の句は、汀女の句と並んで「シクラメン」の句と言えば、この2句しか虚子が最終選に残さなかったことから、夙に有名である。しかし、「ホトトギス」以外の世界では、最近までこの句は余り知られていなかった。何故かと言うと、杞陽が句集『くくたち』に入れるのを忘れたからである。したがって、『昭和俳句文学アルバム 京極杞陽の世界』(梅里書房)にも『京極杞陽句集』(ふらんす堂)にも『角川俳句大歳時記』にもこの句は載っていない。この句に照明を当てたのは昭和47年の田沼文雄の「消えた一句」であり(2007-06-03「週俳」復刻転載)、その経緯にも触れた平成10年の櫂未知子の「京極杞陽ノート 喪失という青空」である。田沼文雄の愛着振りも麗しいが、『櫂未知子集』(邑書林)に収録されたこの杞陽論は杞陽論の白眉で、この杞陽論を読まずして杞陽を語る勿れというほど見事である。
今回はシクラメンを取り上げるので、花屋でシクラメンを買って写そうとしたが、シクラメンは年末に出荷される花だと言われて狐に抓まれた。平成8年に寒さに強い「ガーデン・シクラメン」という品種が生まれて、いまやシクラメンは冬を代表する花だそうな。知らなかった。それで谷戸に咲いている著莪の花にした。山田弘子編『京極杞陽句集 六の花』の栞で、小林恭二が杞陽を著莪の花に譬えていたからだ。わたくしには掲出句の杞陽は、育ち過ぎた葉牡丹の茎立の花のように派手派手のおかしな綺麗さに思えるが。
(明日につづく)
2010年4月30日金曜日
【評判録】「MANO」第15号
【評判録】「MANO」第15号
≫:川柳日記 一の糸
≫:閑中俳句日記(別館)-関悦史
≫ぷふい、など:『日々録』ブログ版
≫五十嵐秀彦「私性と虚実」:週刊俳句第157号
MANO ウェブサイト≫http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/
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≫:川柳日記 一の糸
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2010年4月29日木曜日
2010年4月28日水曜日
2010年4月27日火曜日
●コモエスタ三鬼16 スターズ・シャイン・ブライト
コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第16回
スターズ・シャイン・ブライト
さいばら天気
『現代俳句・第3巻』(1940年/河出書房)所収の西東三鬼集「空港」の自序で、三鬼は次のように書いています〔*1〕。
定型 > 季語
というわけです。これって、70年を経過した今でも生きているテーマですね。でも、こういう、根源的ではあるけれども二者択一を迫るかのような把握からは、議論の機微は生まれにくい。未来か過去か(革新か保守か)の二分法も実は見た目から判断しづらいところもあるし、定型か季語(季題)かじゃなくてどっちも、といった言い方もそれなりに説得力をもつ。
つまり、こういうことって、語るより作れ、詠めって話でもあるわけで、三鬼が前述のように高らかに宣言したという事実は事実として、実際に残された句を読むことが、私たちが三鬼から受け取る最高のプレゼントなわけです。当たり前だけど。
棒立ちの銀河ひげざらざら唄ふ 三鬼(1951)
三鬼の声みたいなものは、やはり、句にあざやかに残っているものだろう、と。これもまた当たり前のことなんですけどね。
〔*1〕『西東三鬼全句集』(2001年/沖積舎)所収「凡例」(三橋敏雄)より孫引き。
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第16回
スターズ・シャイン・ブライト
さいばら天気
『現代俳句・第3巻』(1940年/河出書房)所収の西東三鬼集「空港」の自序で、三鬼は次のように書いています〔*1〕。
新興俳句の旗の下に、私は現代の俳句を作ることを念願してきた。現代といつても、昨日に向く感情もあるし、明日に展く感情もある。私は後者を志向してゐる。/私は俳句の血統をその形式に伝承している。季語は内容する詩を高める場合にのみ登場する。未来 > 過去
定型 > 季語
というわけです。これって、70年を経過した今でも生きているテーマですね。でも、こういう、根源的ではあるけれども二者択一を迫るかのような把握からは、議論の機微は生まれにくい。未来か過去か(革新か保守か)の二分法も実は見た目から判断しづらいところもあるし、定型か季語(季題)かじゃなくてどっちも、といった言い方もそれなりに説得力をもつ。
つまり、こういうことって、語るより作れ、詠めって話でもあるわけで、三鬼が前述のように高らかに宣言したという事実は事実として、実際に残された句を読むことが、私たちが三鬼から受け取る最高のプレゼントなわけです。当たり前だけど。
棒立ちの銀河ひげざらざら唄ふ 三鬼(1951)
三鬼の声みたいなものは、やはり、句にあざやかに残っているものだろう、と。これもまた当たり前のことなんですけどね。
〔*1〕『西東三鬼全句集』(2001年/沖積舎)所収「凡例」(三橋敏雄)より孫引き。
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2010年4月25日日曜日
2010年4月24日土曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔15〕チューリップ・下
ホトトギス雑詠選抄〔15〕
春の部(四月)チューリップ・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
ところで、「チューリップ」は明治37年の『言海』には載っていない。チューリップが日本に渡来したのは江戸時代後期(文久年間)だというが、本格的に栽培されるのは大正時代に入ってからで、大正8年に新潟県で商業栽培を行なったのが普及の嚆矢と言われている。『言海』編纂当時は、まだ一般の目に触れる花ではなかったのである。「ホトトギス雑詠」でチューリップが登場するのは、大正14年から昭和2年に亘ってドイツに滞在していた中田みずほ(註2)の投句による。また、それは海外詠の嚆矢でもあった。
編物に倦まず撓まずチユーリツプ 中田みずほ 大正15年(ドイツ)
俳人の中には、俳句は日本の四季の中だけの文芸であると、海外に行っても俳句を詠まないストイックな(訳すと島国根性)人もいるらしいが、
秋風や眼中のもの皆俳句 虚子 「ホトトギス」明治36年10月
でいいではないか。もともと四季の季感にしても、日本古来の伝統ではなく、稲作のように中国大陸から接木されたものなのだから。
最後に、わたくしの好きなチューリップの句を。「ホトトギス雑詠」の句ではないが、虚子晩年の弟子、波多野爽波の一句である。
チューリップ花びら外れかけてをり 波多野爽波 「青」平成元年6月
註2:中田みずほ。明治26年~昭和50年。本名瑞穂。島根県津和野町で町長で医師でもあった中田和居の三男として生まれる。父は中田が14歳のときに亡くなり、その際、中田は父の解剖に立ち会い、大きな影響を受ける。大正6年、東京帝国大学医学部を卒業。在学中に水原秋桜子・山口誓子・山口青邨・富安風生らと東大俳句会を結成。以後、虚子に師事。29歳のとき現新潟大学医学部に迎えられる。30代で欧米に留学、H・W・クッシングや、W・E・ダンディのもとで最新の脳外科研究学んで帰国し、当時、未開拓の分野だった日本の脳外科の発展に尽す。昭和22年に脳外科研究者の基本書となった『脳手術』、同24年には『脳腫瘍』を出版。同32年現新潟大学脳研究所初代施設長。脳外科の世界的権威。「雑詠選」には数多く選ばれているが、句集は不明。(「人生のセイムスケール」参照。http://art-random.main.jp/samescale/082-1.html#m-nakata)
花盗人ほゝ笑みながら折り呉れぬ 「ホトトギス」大正15年8月巻頭句
春水のたゞ静けさに人だかり 「ホトトギス」大正15年8月巻頭句
魂のもどりし気配昼寝人 「ホトトギス」大正15年10月巻頭句
牧場は花盛りなる燕かな 「ホトトギス」大正15年10月巻頭句
腰高の障子明りに乳倉の子 「ホトトギス」昭和13年4月巻頭句
大いなる乳房仰ぎぬ乳倉の子 「ホトトギス」昭和13年4月巻頭句
乗れるだけ乗りドアを閉め花の雨 昭和14年
昔より雨降りあづき日照豆 昭和18年
萩せゝり露草もちよとせゝり蝶 「ホトトギス」昭和23年2月巻頭句
山水に乳冷しあり蝶とまり 「ホトトギス」昭和23年2月巻頭句
豊年の田明かり汽車の中までも 昭和21年
今はたゞ母なきまゝに春を待つ 昭和21年
舞茸をひつぱり出せば籠は空ら 年度不詳
寒蜆あり鯉こくは明日にせよ 年度不詳
手を出せば雨の降り居り鉦叩 年度不詳
●
春の部(四月)チューリップ・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
ところで、「チューリップ」は明治37年の『言海』には載っていない。チューリップが日本に渡来したのは江戸時代後期(文久年間)だというが、本格的に栽培されるのは大正時代に入ってからで、大正8年に新潟県で商業栽培を行なったのが普及の嚆矢と言われている。『言海』編纂当時は、まだ一般の目に触れる花ではなかったのである。「ホトトギス雑詠」でチューリップが登場するのは、大正14年から昭和2年に亘ってドイツに滞在していた中田みずほ(註2)の投句による。また、それは海外詠の嚆矢でもあった。
編物に倦まず撓まずチユーリツプ 中田みずほ 大正15年(ドイツ)
俳人の中には、俳句は日本の四季の中だけの文芸であると、海外に行っても俳句を詠まないストイックな(訳すと島国根性)人もいるらしいが、
秋風や眼中のもの皆俳句 虚子 「ホトトギス」明治36年10月
でいいではないか。もともと四季の季感にしても、日本古来の伝統ではなく、稲作のように中国大陸から接木されたものなのだから。
最後に、わたくしの好きなチューリップの句を。「ホトトギス雑詠」の句ではないが、虚子晩年の弟子、波多野爽波の一句である。
チューリップ花びら外れかけてをり 波多野爽波 「青」平成元年6月
註2:中田みずほ。明治26年~昭和50年。本名瑞穂。島根県津和野町で町長で医師でもあった中田和居の三男として生まれる。父は中田が14歳のときに亡くなり、その際、中田は父の解剖に立ち会い、大きな影響を受ける。大正6年、東京帝国大学医学部を卒業。在学中に水原秋桜子・山口誓子・山口青邨・富安風生らと東大俳句会を結成。以後、虚子に師事。29歳のとき現新潟大学医学部に迎えられる。30代で欧米に留学、H・W・クッシングや、W・E・ダンディのもとで最新の脳外科研究学んで帰国し、当時、未開拓の分野だった日本の脳外科の発展に尽す。昭和22年に脳外科研究者の基本書となった『脳手術』、同24年には『脳腫瘍』を出版。同32年現新潟大学脳研究所初代施設長。脳外科の世界的権威。「雑詠選」には数多く選ばれているが、句集は不明。(「人生のセイムスケール」参照。http://art-random.main.jp/samescale/082-1.html#m-nakata)
花盗人ほゝ笑みながら折り呉れぬ 「ホトトギス」大正15年8月巻頭句
春水のたゞ静けさに人だかり 「ホトトギス」大正15年8月巻頭句
魂のもどりし気配昼寝人 「ホトトギス」大正15年10月巻頭句
牧場は花盛りなる燕かな 「ホトトギス」大正15年10月巻頭句
腰高の障子明りに乳倉の子 「ホトトギス」昭和13年4月巻頭句
大いなる乳房仰ぎぬ乳倉の子 「ホトトギス」昭和13年4月巻頭句
乗れるだけ乗りドアを閉め花の雨 昭和14年
昔より雨降りあづき日照豆 昭和18年
萩せゝり露草もちよとせゝり蝶 「ホトトギス」昭和23年2月巻頭句
山水に乳冷しあり蝶とまり 「ホトトギス」昭和23年2月巻頭句
豊年の田明かり汽車の中までも 昭和21年
今はたゞ母なきまゝに春を待つ 昭和21年
舞茸をひつぱり出せば籠は空ら 年度不詳
寒蜆あり鯉こくは明日にせよ 年度不詳
手を出せば雨の降り居り鉦叩 年度不詳
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2010年4月23日金曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔15〕チューリップ・上
ホトトギス雑詠選抄〔15〕
春の部(四月)チューリップ・上
猫髭 (文・写真)
窓の下ちゆうりつぷ聯隊屯せり 中村秀好 昭和10年
掲出句は、チューリップの咲く一群を、陸軍駐屯地の聯隊(れんたい)が屯(たむろ)している樣に見立てた擬人化の句である。平和の象徴のような花を戦争の象徴のような軍隊に見立てたところが面白いと、虚子が選び、波多野爽波もまた自選自筆の爽波抜萃「四月の句」に入れている。
昭和6年の満州事変、昭和7年の上海事変以降、急速に軍国化する世相を背景に置くと、昭和10年当時は不謹慎な喩えになるかと言うと、そこまで世知辛くはなっていない。下川耿史編『昭和・平成家庭史年表1926→2000』(河出書房新社)を紐解けば、衣・食・住のトピックでは「喫茶店が大流行。東京だけで1万5000軒。女給5万人。コーヒー1杯15銭」、家計・健康・教育では「女学生の間に、君、ボク、失敬、何言ってやがるんだい、などの男言葉が流行」、文化・レジャーでは「第1回芥川賞(石川達三『蒼氓』)・直木賞(川口松太郎『鶴八鶴次郎』が受賞)」「大阪野球倶楽部発足。球団名は大阪タイガース」「1銭玩具ブームでメーカーは200軒。半数が東京に集中」、社会・交通・一般では「日産自動車、一貫流れ作業による第一号車ダットサン・セダン発売」「年賀用郵便切手(1銭5厘)初めて発行(図案は富士)」と、軍国化の波はまだ家庭史には及んでいない。
この下川耿史編『昭和・平成家庭史年表1926→2000』と『明治・大正家庭史年表1868→1925』の二冊は、正露丸とメンソレータムのように、家庭に常備必須の名著であり、「ホトトギス雑詠」もまた、こういう世相を背景に詠まれたのかと味わいながら読むと感慨一入だが、作品は作品だけで味わえばいいので、ここでは「聯隊」と言ってもピンと来ない読者もいるかと思って、時代背景にいささか言及した。
作者の中村秀好(なかむら・しゅうこう)は、東京の俳人で、昭和8年の「ホトトギス」に「もう一人のダルタニアン」を寄稿しているが、詳細不明なので、後日調査(註1)。
なお、虚子編『新歳時記』は、
窓の下チユーリツプ聯隊屯せり 秀好
と片仮名表記だが、これは他の例句と表記を合わせるために、虚子が変えたと思われるので、掲出句は昭和16年の『新選ホトトギス雑詠全集一 春上』のオリジナル表記を掲載した。
外来語は基本的に音写なので、自分が聞えたように書けばいいので、読む人がわかる一般的な表記に従うものであれば、どのように表記しても構わないから、掲出句のように平仮名で外来語を書くことも誤りではない。昔は外来語を平仮名で書く倣いも残っていたので、奇を衒っていたわけではないだろう。
(明日につづく)
註1:インターネットで検索し得た中村秀好の俳句は以下の4句のみ。
宿帳にしるしてをれば茶立虫
妹がさす春雨傘やまぎれなし
日記買ふ未知の月日にあるごとく
草ひばり月にかざして買ひにけり
春の部(四月)チューリップ・上
猫髭 (文・写真)
窓の下ちゆうりつぷ聯隊屯せり 中村秀好 昭和10年
掲出句は、チューリップの咲く一群を、陸軍駐屯地の聯隊(れんたい)が屯(たむろ)している樣に見立てた擬人化の句である。平和の象徴のような花を戦争の象徴のような軍隊に見立てたところが面白いと、虚子が選び、波多野爽波もまた自選自筆の爽波抜萃「四月の句」に入れている。
昭和6年の満州事変、昭和7年の上海事変以降、急速に軍国化する世相を背景に置くと、昭和10年当時は不謹慎な喩えになるかと言うと、そこまで世知辛くはなっていない。下川耿史編『昭和・平成家庭史年表1926→2000』(河出書房新社)を紐解けば、衣・食・住のトピックでは「喫茶店が大流行。東京だけで1万5000軒。女給5万人。コーヒー1杯15銭」、家計・健康・教育では「女学生の間に、君、ボク、失敬、何言ってやがるんだい、などの男言葉が流行」、文化・レジャーでは「第1回芥川賞(石川達三『蒼氓』)・直木賞(川口松太郎『鶴八鶴次郎』が受賞)」「大阪野球倶楽部発足。球団名は大阪タイガース」「1銭玩具ブームでメーカーは200軒。半数が東京に集中」、社会・交通・一般では「日産自動車、一貫流れ作業による第一号車ダットサン・セダン発売」「年賀用郵便切手(1銭5厘)初めて発行(図案は富士)」と、軍国化の波はまだ家庭史には及んでいない。
この下川耿史編『昭和・平成家庭史年表1926→2000』と『明治・大正家庭史年表1868→1925』の二冊は、正露丸とメンソレータムのように、家庭に常備必須の名著であり、「ホトトギス雑詠」もまた、こういう世相を背景に詠まれたのかと味わいながら読むと感慨一入だが、作品は作品だけで味わえばいいので、ここでは「聯隊」と言ってもピンと来ない読者もいるかと思って、時代背景にいささか言及した。
作者の中村秀好(なかむら・しゅうこう)は、東京の俳人で、昭和8年の「ホトトギス」に「もう一人のダルタニアン」を寄稿しているが、詳細不明なので、後日調査(註1)。
なお、虚子編『新歳時記』は、
窓の下チユーリツプ聯隊屯せり 秀好
と片仮名表記だが、これは他の例句と表記を合わせるために、虚子が変えたと思われるので、掲出句は昭和16年の『新選ホトトギス雑詠全集一 春上』のオリジナル表記を掲載した。
外来語は基本的に音写なので、自分が聞えたように書けばいいので、読む人がわかる一般的な表記に従うものであれば、どのように表記しても構わないから、掲出句のように平仮名で外来語を書くことも誤りではない。昔は外来語を平仮名で書く倣いも残っていたので、奇を衒っていたわけではないだろう。
(明日につづく)
註1:インターネットで検索し得た中村秀好の俳句は以下の4句のみ。
宿帳にしるしてをれば茶立虫
妹がさす春雨傘やまぎれなし
日記買ふ未知の月日にあるごとく
草ひばり月にかざして買ひにけり
2010年4月21日水曜日
■週刊俳句オフ会
週刊俳句オフ会
4月29日(祝日)午後5時より
ご案内はこちら↓
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/03/3_29.html
ご参加のお知らせは明日22日までにメールいただければ幸いです。
●
4月29日(祝日)午後5時より
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ご参加のお知らせは明日22日までにメールいただければ幸いです。
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2010年4月20日火曜日
●コモエスタ三鬼15 ことばのスピード
コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第15回
ことばのスピード
さいばら天気
三鬼には、句作を開始して数年間ですでに代表作と呼ばれる句が何句もある。
算術の少年しのび泣けり夏 三鬼(1936年)
三鬼自身は、自分の息子が夏休みの宿題の算数ができずに泣いている、それを詠んだだけのこの句に、意外な評判が集まることを、末尾の2音で切れるかたちがめずらしかったのだろうと、ちょっと醒めた目で振り返っている〔*〕。
たしかに切れの位置はユニーク。けれども、「算術の少年」のフレーズは、音数制限のある俳句だからこそといえる。凝縮というのではない。事情がうまく伝わるわけではないから。舌足らずの感もある。
俳句は、しばしば、叙述を急がせる。もたもたしている暇はない。その結果生まれるものを「スピード感」と呼んでもいいだろう。
なにかたいそうなことが込められる必要はない。うまく描写する必要も必ずしもない。そこに生まれることばのスピード、叙述のスピード、「一閃」とでもいうべき速度の感触。それは確実に俳句のひとつの、まずは初次的な、そしておそらく最重要の愉楽だと思う。
(付け加えるに、吾子俳句に見えないのは「算術の少年」という言い方のせいでしょう)
〔*〕三鬼の自解による(『俳句』1980年4月臨時 増刊「西東三鬼読本」ほか)
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第15回
ことばのスピード
さいばら天気
三鬼には、句作を開始して数年間ですでに代表作と呼ばれる句が何句もある。
算術の少年しのび泣けり夏 三鬼(1936年)
三鬼自身は、自分の息子が夏休みの宿題の算数ができずに泣いている、それを詠んだだけのこの句に、意外な評判が集まることを、末尾の2音で切れるかたちがめずらしかったのだろうと、ちょっと醒めた目で振り返っている〔*〕。
たしかに切れの位置はユニーク。けれども、「算術の少年」のフレーズは、音数制限のある俳句だからこそといえる。凝縮というのではない。事情がうまく伝わるわけではないから。舌足らずの感もある。
俳句は、しばしば、叙述を急がせる。もたもたしている暇はない。その結果生まれるものを「スピード感」と呼んでもいいだろう。
なにかたいそうなことが込められる必要はない。うまく描写する必要も必ずしもない。そこに生まれることばのスピード、叙述のスピード、「一閃」とでもいうべき速度の感触。それは確実に俳句のひとつの、まずは初次的な、そしておそらく最重要の愉楽だと思う。
(付け加えるに、吾子俳句に見えないのは「算術の少年」という言い方のせいでしょう)
〔*〕三鬼の自解による(『俳句』1980年4月臨時 増刊「西東三鬼読本」ほか)
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2010年4月19日月曜日
2010年4月18日日曜日
〔評判録〕『塵風』第2号
〔評判録〕『塵風』第2号
2010年2月28日発行 お問い合わせ≫yutenji50@gmail.com
≫:喜代子の折々
≫:閑中俳句日記(別館)-関悦史
≫:ono deluxe
≫週刊俳句・第152号:人称がカチカチと転換するイメージ~『塵風』第2号・高野文子インタビュー
2010年2月28日発行 お問い合わせ≫yutenji50@gmail.com
≫:喜代子の折々
≫:閑中俳句日記(別館)-関悦史
≫:ono deluxe
≫週刊俳句・第152号:人称がカチカチと転換するイメージ~『塵風』第2号・高野文子インタビュー
2010年4月17日土曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔14〕春の宵・下
ホトトギス雑詠選抄〔14〕
春の部(四月)春の宵・下
猫髭 (文・写真)
虚子編『新歳時記』の「春の宵」(三春)には「春の日が暮れてまだ間もない宵のほどで、秋の夜などとちがひ、どことなく若々しい和やかさ、明るさ、媚めかしさがあり、色彩的な感じにみちてゐる。魅惑的な歓楽的な淡い感傷が漂うてゐるやうにも感じられる。春宵。宵の春」とあり、「春宵一刻値千金」で始まる蘇軾の七言絶句『春夜』を下敷きに解説を書いているが、蘇軾の「春宵」は「宵のほど」ではなく「夜」の意である。この詩は、集外詩であったため、他の編本で表記が異なり、ために解釈が分かれている。南宋の宋謝枋得(しゃぼうとく)編『千家詩(せんかし)』と魏慶之(ぎけいし)編『詩人玉屑(ぎょくせつ)』では、後半二句が異なる。↓()内が編本。
歌管 樓台 聲 細細(編本は寂寂)
鞦韆 院落 夜 沈沈(編本は深深)
細細(さいさい)は「かぼそい」、沈沈(ちんちん)は「重たげなさま」の意で、宵の口まで高楼から聞こえていた歌声と笛の音のにぎわいは夜になってかそけくなり、中庭で女たちが戯れていた鞦韆もいまや夜に沈むという風情である。
これが編本の寂寂(せきせき)だと「ひっそりとして聞こえない」、深深(しんしん)だと「夜がふけゆくさま」の意だから、歌も楽の音も絶え、夜は更けゆくという風情になる。小川環樹は細細と沈沈だが(『蘇軾』下巻)、一海知義は寂寂と沈沈を折衷して紹介している(『漢詩一日一首』)。
中国語の原音の響きがわからないので字義からの推測になるが、時間的経過では宵闇の余韻が風景に残るのであれば細細と深深ののちに、とっぷりと暮れて寂寂沈沈かなとも思える。だが、分かれるには分かれる理由があるはずだ。ここからは猫髭餘言(与太話)である。
蘇軾は政治的には保守派で、中国最高の政治家と言われる革新派の王安石が政敵であった。このふたりは吉川幸次郎によれば(『宋詩概説』)、「蘇軾は対立者である王安石よりも、十五年おそく生まれ、十五年おそく進士となり、更にまた十五年おそく死んでいる」という奇縁ともいうえにしだったが、双方、唐宋八大家と称えられる文人であり、王安石が絶句の名手であったことから(「千家の漁火 秋風の市 一葉の帰舟 暮雨の湾」なぞ、そのまま一幅の墨絵なり)、 文人としては互いに尊敬の念を抱いていた(清水茂『王安石』)。面白いことに、蘇軾の「春夜」と王安石の「夜直」は一双をなす屏風のように並べ賞され、春夜を詠じた詩では双璧と称せられていることが多く、確かにその七言絶句は見事に蘇軾の「春夜」に照応し、ここに編本の異同の謎を解く鍵があるようだ。
金爐香盡きて漏聲殘し
翦翦の輕風 陣陣の寒さ
春色人を惱まして眠り得ず
月は花の影を移して欄干に上ぼらしむ
どちらが本歌取りしてもおかしくないほど春の夜を歌って間断ない。
しかし、王安石が十五年の先輩として敬意を表すれば、蘇軾の絶句をコラージュすると、見事な七言律詩として蘇り、かつ、その場合は流れから、細細と沈沈ではなく、寂寂と深深でなければならないこともわかるだろう。
金爐香盡きて漏聲殘し
剪剪の輕風 陣陣の寒さ
春色人を惱まして眠り得ず
月は花の影を移して欄干に上ぼらしむ
春宵一刻 値 千金
花に清香有り 月に陰有り
歌管 楼臺 聲 寂寂
鞦韆 院落 夜 深深
黄金の爐に打ち薫じていた香も尽き、水時計にあわせて時を告げる太鼓の残響が夜更けのしじまに木霊するなか、薫風ひとしきり吹き寄せ、花冷えの夜冴えかえり、艶めく春の色は眠りを乱し、月も花影を欄干に押し上げる、その花の香、朧月の風情は千金にも替えがたく、宵の口まで高楼から聞こえていた歌声と笛の音のにぎわい途絶え、中庭で女たちが戯れていた鞦韆もいまや闇にしんしんと沈む。
蘇軾は、政敵だったが文人として尊敬する王安石に敬意を表して、後年寂寂と深深に推敲したと思うのが双方の詩をふくらませて楽しいと思う。
余談だが、春宵一刻の一刻は江戸時代には二時間を指し、値千金で一万両を意味したので、太田南畝こと蜀山人は、「一刻を千金づつにしめあげて六万両の春の曙」狂歌に仕立てた。其角も「夏の月蚊を疵にして五百両」と詠んでいる。
蛇足だが、値千金で思い出すのが、1928年にビング・クロスビーとホワイトマン楽団がヒットさせた、ひとりものを月光が慰める「月光値千金」という歌。日本ではエノケン盤やナット・キング・コールが奥さんのマリア・コールとデュエットした50年盤がヒットした。
When you’re all alone any old night,
And you’re feelin’out of tune,
Pick up your hat, close up your flat,
Go out and get under the moon.
という、聞けば年配者は誰でもわかるほど一世を風靡し、当時のゴールド・ディスクに輝いた。日本だと「月」と言えば秋だが、この歌は違う。それは、1958年のドリス・デイのキャピトル盤「月光値千金」を聞けばわかる。この歌はサビの最後のところが、
Hey look look at the stars above,
Look look look at those lovers love,
Oh boy give me a night in June,
と歌うので、アメリカでは6月の初夏の月ということがわかる。このloversとa night in Juneの解釈が、6月の花嫁のたぐいで、ひとりぼっちの6月の夜なのか、昔はそんな夜もあったと、the beginning of summerへと約束された恋人がいて回想してるのか、思いは千々に乱れるのだが、コール夫妻が歌うと御馳走様ソングとなるから、まあ、いつでもええわい楽しければという歌ではある。
●
春の部(四月)春の宵・下
猫髭 (文・写真)
虚子編『新歳時記』の「春の宵」(三春)には「春の日が暮れてまだ間もない宵のほどで、秋の夜などとちがひ、どことなく若々しい和やかさ、明るさ、媚めかしさがあり、色彩的な感じにみちてゐる。魅惑的な歓楽的な淡い感傷が漂うてゐるやうにも感じられる。春宵。宵の春」とあり、「春宵一刻値千金」で始まる蘇軾の七言絶句『春夜』を下敷きに解説を書いているが、蘇軾の「春宵」は「宵のほど」ではなく「夜」の意である。この詩は、集外詩であったため、他の編本で表記が異なり、ために解釈が分かれている。南宋の宋謝枋得(しゃぼうとく)編『千家詩(せんかし)』と魏慶之(ぎけいし)編『詩人玉屑(ぎょくせつ)』では、後半二句が異なる。↓()内が編本。
歌管 樓台 聲 細細(編本は寂寂)
鞦韆 院落 夜 沈沈(編本は深深)
細細(さいさい)は「かぼそい」、沈沈(ちんちん)は「重たげなさま」の意で、宵の口まで高楼から聞こえていた歌声と笛の音のにぎわいは夜になってかそけくなり、中庭で女たちが戯れていた鞦韆もいまや夜に沈むという風情である。
これが編本の寂寂(せきせき)だと「ひっそりとして聞こえない」、深深(しんしん)だと「夜がふけゆくさま」の意だから、歌も楽の音も絶え、夜は更けゆくという風情になる。小川環樹は細細と沈沈だが(『蘇軾』下巻)、一海知義は寂寂と沈沈を折衷して紹介している(『漢詩一日一首』)。
中国語の原音の響きがわからないので字義からの推測になるが、時間的経過では宵闇の余韻が風景に残るのであれば細細と深深ののちに、とっぷりと暮れて寂寂沈沈かなとも思える。だが、分かれるには分かれる理由があるはずだ。ここからは猫髭餘言(与太話)である。
蘇軾は政治的には保守派で、中国最高の政治家と言われる革新派の王安石が政敵であった。このふたりは吉川幸次郎によれば(『宋詩概説』)、「蘇軾は対立者である王安石よりも、十五年おそく生まれ、十五年おそく進士となり、更にまた十五年おそく死んでいる」という奇縁ともいうえにしだったが、双方、唐宋八大家と称えられる文人であり、王安石が絶句の名手であったことから(「千家の漁火 秋風の市 一葉の帰舟 暮雨の湾」なぞ、そのまま一幅の墨絵なり)、 文人としては互いに尊敬の念を抱いていた(清水茂『王安石』)。面白いことに、蘇軾の「春夜」と王安石の「夜直」は一双をなす屏風のように並べ賞され、春夜を詠じた詩では双璧と称せられていることが多く、確かにその七言絶句は見事に蘇軾の「春夜」に照応し、ここに編本の異同の謎を解く鍵があるようだ。
金爐香盡きて漏聲殘し
翦翦の輕風 陣陣の寒さ
春色人を惱まして眠り得ず
月は花の影を移して欄干に上ぼらしむ
どちらが本歌取りしてもおかしくないほど春の夜を歌って間断ない。
しかし、王安石が十五年の先輩として敬意を表すれば、蘇軾の絶句をコラージュすると、見事な七言律詩として蘇り、かつ、その場合は流れから、細細と沈沈ではなく、寂寂と深深でなければならないこともわかるだろう。
金爐香盡きて漏聲殘し
剪剪の輕風 陣陣の寒さ
春色人を惱まして眠り得ず
月は花の影を移して欄干に上ぼらしむ
春宵一刻 値 千金
花に清香有り 月に陰有り
歌管 楼臺 聲 寂寂
鞦韆 院落 夜 深深
黄金の爐に打ち薫じていた香も尽き、水時計にあわせて時を告げる太鼓の残響が夜更けのしじまに木霊するなか、薫風ひとしきり吹き寄せ、花冷えの夜冴えかえり、艶めく春の色は眠りを乱し、月も花影を欄干に押し上げる、その花の香、朧月の風情は千金にも替えがたく、宵の口まで高楼から聞こえていた歌声と笛の音のにぎわい途絶え、中庭で女たちが戯れていた鞦韆もいまや闇にしんしんと沈む。
蘇軾は、政敵だったが文人として尊敬する王安石に敬意を表して、後年寂寂と深深に推敲したと思うのが双方の詩をふくらませて楽しいと思う。
余談だが、春宵一刻の一刻は江戸時代には二時間を指し、値千金で一万両を意味したので、太田南畝こと蜀山人は、「一刻を千金づつにしめあげて六万両の春の曙」狂歌に仕立てた。其角も「夏の月蚊を疵にして五百両」と詠んでいる。
蛇足だが、値千金で思い出すのが、1928年にビング・クロスビーとホワイトマン楽団がヒットさせた、ひとりものを月光が慰める「月光値千金」という歌。日本ではエノケン盤やナット・キング・コールが奥さんのマリア・コールとデュエットした50年盤がヒットした。
When you’re all alone any old night,
And you’re feelin’out of tune,
Pick up your hat, close up your flat,
Go out and get under the moon.
という、聞けば年配者は誰でもわかるほど一世を風靡し、当時のゴールド・ディスクに輝いた。日本だと「月」と言えば秋だが、この歌は違う。それは、1958年のドリス・デイのキャピトル盤「月光値千金」を聞けばわかる。この歌はサビの最後のところが、
Hey look look at the stars above,
Look look look at those lovers love,
Oh boy give me a night in June,
と歌うので、アメリカでは6月の初夏の月ということがわかる。このloversとa night in Juneの解釈が、6月の花嫁のたぐいで、ひとりぼっちの6月の夜なのか、昔はそんな夜もあったと、the beginning of summerへと約束された恋人がいて回想してるのか、思いは千々に乱れるのだが、コール夫妻が歌うと御馳走様ソングとなるから、まあ、いつでもええわい楽しければという歌ではある。
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2010年4月16日金曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔14〕春の宵・上
ホトトギス雑詠選抄〔14〕
春の部(四月)春の宵・上
猫髭 (文・写真)
春宵やぶらりとうまいもの小路 安達電々子 昭和9年
春宵や駅の時計の五分経ち 中村汀女 昭和10年
いつも来る坊主出て来よ春の宵 藤田耕雪 昭和10年
猫眼石又出して見る春の宵 同上
手の中に寝たるインコや宵の春 同上
小判持て金借りにきし宵の春 桑田葦城 昭和12年
「春宵一刻値千金」の春宵である。
春宵一刻 値 千金
花に清香有り 月に陰有り
歌管 楼臺 聲 細細
鞦韆 院落 夜 沈沈
春夏秋冬、毎日宵はあるが、「春の宵」が際立つのは、この北宋の詩人、蘇軾(そしょく)、号は蘇東坡(そとうば)の七言絶句「春夜」が人口に膾炙していたが故である。と言っても、今週の春は、毎日温度差が20℃近くある、今日は夏、明日は冬、明後日は夏、足して3で割って春という、三寒四温どころか一寒一温のような春で、今日は悴んで「何もかも知つてをるなり竈猫 富安風生」、明日は汗だくで「しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る 富安風生」、明後日は着ぶくれて「冬ざるるリボンかければ贈物 波多野爽波」といった塩梅である。
今日15日(木)は谷戸は一日中小糠雨で、「街の雨鶯餅がもう出たか 富安風生」と、のほほんとするには8℃で、鶯も亀も鳴かずと引っ込む寒さ、階下はストーブを焚いて中村屋の肉まんを蒸している。わたくしの二階の書斎はと言えば、夏は暑い冬は寒いの当り前という俳人の端くれなので、四季の移ろいを肌身で感じるために冷暖房などないから、窓も開けているので外気と同じ8℃のままである。夕方に雨が止んだので葉桜の下を歩いてきたが、これは「春の宵」というよりも「冴え返り冴え返りつゝ春なかば 西山泊雲」だろうなと感じたが、「冴返る」では二月の季題に季もどりしてしまう。かと言って「花冷」は桜が咲く頃の冷えを言うので、今年の春の冷えは歳時記の追いつけない寒さということになるだろう。言葉の後から文法が生れたように、自然の後から歳時記がついて来るというわけだ。歳時記とは文法と同じでストーカーのようなものだ。前に立たれるとウザイ。
しかし、作品を味わうのに春も冬もない。春の句は春しか味わえないとしたら、人間に想像力があることを忘れている。詠む場合は別である。俳句は今を詠むものだからだ。勿論、真冬に真夏の句がどかんと来てしまうことはある。これも想像力のなせる技である。ただ、来たからと入道雲の句を新年句会で出したら、馬鹿と言われるので、発表するかどうかはまた別問題である。
掲出句は、「春の宵」の中でわたくしが好きな句である。見ればわかるように、「ホトトギス」の「客観写生」「花鳥諷詠」とは、言い換えれば「自由闊達」とシノニムである。
安達電々子(註1)の「うまいもの小路」。日本中の酔いどれ横丁が結集したような見事なネーミングである。
中村汀女(註2)の絶妙な「五分」の「春宵」との響き愛。おお、ナイスな誤植!
藤田耕雪(註3)の坊主めくりのような坊主に、珠玉の猫眼石に、手の中で眠るインコ、実に多彩。
桑田葦城(註4)の金借りに行くのに「小判」持ってくって、なによ。実に面白い。
「春の夜」の季題には、
春の夜や岡惚張をふところに 竹田小時 昭和9年
という句もある。「岡惚張」が面白い。「春宵」よりも「春の夜」の更けた感じをよく出している艶な粋句である。竹田小時(たけだ・ことき)は新橋の芸妓で常磐津の名手。
波多野爽波が、第一句集『鋪道の花』に書いたように、
写生の世界は自由闊達の世界である。
註1:安達電々子(あだち・でんでんし)。名古屋の俳人。詳細不明。
註2:中村汀女(なかむら・ていじょ)。明治33年~昭和63年。熊本県熊本市江津生。本名破魔子。大正7年熊本県立高等女学校卒、18歳で詠んだ「吾に返り見直す隅に寒菊紅し」が虚子に認められ「ホトトギス」へ投句開始。昭和9年ホトトギス同人。昭和22年に「風花(かざはな)」創刊・主宰。星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた。句集『春雪』『汀女句集』『春暁』『半生』『花影』『都鳥』『紅白梅』『薔薇粧ふ』『軒紅梅』『汀女全句集』他。秀句数多。以下、よく引かれる七句。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな
中空にとまらんとする落花かな
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな
ゆで玉子むけばかがやく花曇
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや
外にも出よ触るるばかりに春の月
註3:藤田耕雪(ふじた・こうせつ)。明治13年~昭和10年。阪神財閥の一つ藤田財閥創始者の藤田伝三郎男爵次男。本名は徳次郎。ニューヨー ク大卒。藤田組副社長、藤田鉱業社長。高浜虚子に師事。句集『耕雪句集』。
註4:桑田葦城(くわた・いじょう)。呉警備戦隊所属とのみ。詳細不明。
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春の部(四月)春の宵・上
猫髭 (文・写真)
春宵やぶらりとうまいもの小路 安達電々子 昭和9年
春宵や駅の時計の五分経ち 中村汀女 昭和10年
いつも来る坊主出て来よ春の宵 藤田耕雪 昭和10年
猫眼石又出して見る春の宵 同上
手の中に寝たるインコや宵の春 同上
小判持て金借りにきし宵の春 桑田葦城 昭和12年
「春宵一刻値千金」の春宵である。
春宵一刻 値 千金
花に清香有り 月に陰有り
歌管 楼臺 聲 細細
鞦韆 院落 夜 沈沈
春夏秋冬、毎日宵はあるが、「春の宵」が際立つのは、この北宋の詩人、蘇軾(そしょく)、号は蘇東坡(そとうば)の七言絶句「春夜」が人口に膾炙していたが故である。と言っても、今週の春は、毎日温度差が20℃近くある、今日は夏、明日は冬、明後日は夏、足して3で割って春という、三寒四温どころか一寒一温のような春で、今日は悴んで「何もかも知つてをるなり竈猫 富安風生」、明日は汗だくで「しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る 富安風生」、明後日は着ぶくれて「冬ざるるリボンかければ贈物 波多野爽波」といった塩梅である。
今日15日(木)は谷戸は一日中小糠雨で、「街の雨鶯餅がもう出たか 富安風生」と、のほほんとするには8℃で、鶯も亀も鳴かずと引っ込む寒さ、階下はストーブを焚いて中村屋の肉まんを蒸している。わたくしの二階の書斎はと言えば、夏は暑い冬は寒いの当り前という俳人の端くれなので、四季の移ろいを肌身で感じるために冷暖房などないから、窓も開けているので外気と同じ8℃のままである。夕方に雨が止んだので葉桜の下を歩いてきたが、これは「春の宵」というよりも「冴え返り冴え返りつゝ春なかば 西山泊雲」だろうなと感じたが、「冴返る」では二月の季題に季もどりしてしまう。かと言って「花冷」は桜が咲く頃の冷えを言うので、今年の春の冷えは歳時記の追いつけない寒さということになるだろう。言葉の後から文法が生れたように、自然の後から歳時記がついて来るというわけだ。歳時記とは文法と同じでストーカーのようなものだ。前に立たれるとウザイ。
しかし、作品を味わうのに春も冬もない。春の句は春しか味わえないとしたら、人間に想像力があることを忘れている。詠む場合は別である。俳句は今を詠むものだからだ。勿論、真冬に真夏の句がどかんと来てしまうことはある。これも想像力のなせる技である。ただ、来たからと入道雲の句を新年句会で出したら、馬鹿と言われるので、発表するかどうかはまた別問題である。
掲出句は、「春の宵」の中でわたくしが好きな句である。見ればわかるように、「ホトトギス」の「客観写生」「花鳥諷詠」とは、言い換えれば「自由闊達」とシノニムである。
安達電々子(註1)の「うまいもの小路」。日本中の酔いどれ横丁が結集したような見事なネーミングである。
中村汀女(註2)の絶妙な「五分」の「春宵」との響き愛。おお、ナイスな誤植!
藤田耕雪(註3)の坊主めくりのような坊主に、珠玉の猫眼石に、手の中で眠るインコ、実に多彩。
桑田葦城(註4)の金借りに行くのに「小判」持ってくって、なによ。実に面白い。
「春の夜」の季題には、
春の夜や岡惚張をふところに 竹田小時 昭和9年
という句もある。「岡惚張」が面白い。「春宵」よりも「春の夜」の更けた感じをよく出している艶な粋句である。竹田小時(たけだ・ことき)は新橋の芸妓で常磐津の名手。
波多野爽波が、第一句集『鋪道の花』に書いたように、
写生の世界は自由闊達の世界である。
註1:安達電々子(あだち・でんでんし)。名古屋の俳人。詳細不明。
註2:中村汀女(なかむら・ていじょ)。明治33年~昭和63年。熊本県熊本市江津生。本名破魔子。大正7年熊本県立高等女学校卒、18歳で詠んだ「吾に返り見直す隅に寒菊紅し」が虚子に認められ「ホトトギス」へ投句開始。昭和9年ホトトギス同人。昭和22年に「風花(かざはな)」創刊・主宰。星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた。句集『春雪』『汀女句集』『春暁』『半生』『花影』『都鳥』『紅白梅』『薔薇粧ふ』『軒紅梅』『汀女全句集』他。秀句数多。以下、よく引かれる七句。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな
中空にとまらんとする落花かな
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな
ゆで玉子むけばかがやく花曇
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや
外にも出よ触るるばかりに春の月
註3:藤田耕雪(ふじた・こうせつ)。明治13年~昭和10年。阪神財閥の一つ藤田財閥創始者の藤田伝三郎男爵次男。本名は徳次郎。ニューヨー ク大卒。藤田組副社長、藤田鉱業社長。高浜虚子に師事。句集『耕雪句集』。
註4:桑田葦城(くわた・いじょう)。呉警備戦隊所属とのみ。詳細不明。
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2010年4月15日木曜日
2010年4月14日水曜日
●コモエスタ三鬼14 高度千メートルの嘔吐
コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第14回
高度千メートルの嘔吐
さいばら天気
三鬼のエッセイ「飛ぶ話」(1940年2月『俳句研究』(*))は、その冒頭こそ当時の飛行場の雰囲気を伝えて興趣豊かであるものの、空に上がってからは、富士山が綺麗だとか、ゴルフ場から見上げる飛行機だとか(しかし、ゴルフとはハイカラですね、三鬼)、退屈な内容だが、終わり近く、大阪から乗り合わせた浪花節語りが、飛行機に酔ってしまい、三鬼が介抱した箇所が出てきて…
冬天に大阪藝人嘔くは悲し 三鬼(1939年)
そういうことだったのですね。飛行機酔いのエピソードなしに読めば、この「冬天に」は、詩的に抽象的に解釈してしまいそうだ。「嘔く」も同様。連作中にあるなら事情は違うが、少なくとも句集中の1句として読むかぎりは、機上の事件とはなかなか思えない。ところが、「冬天に」はそのまま具体的に、冬の空へ、であり、「嘔く」もきわめて具体的に嘔吐なのだった。
●
ところで、俳句を読むとき、その〔読み〕を、現実の周辺情報・背景情報とどのように関連づけるか、参考にするかは、繰り返し議論されてきた。私は、ここで、三鬼のエッセイにある自句自解情報を引いてはいるが、それは俳句の解釈・鑑賞に役立てようというものではない。俳句は、17音ただそれだけで読み、その読みをもって、十全の〔読む快楽〕となすべきと思う。
だから浪花節語りのエピソードは、あくまで「ちなみに」といった付随情報、と、なんだか弁解めくが、そうではない。それはそれで興趣が湧くから、記述するまでのことだ。
ここで私は作品を評価しようというのではない。鑑賞とも少し違う。この「コモエスタ三鬼」がやろうとしているのは、いわば「三鬼というテキスト」を、三鬼の残した「俳句というテキスト」を中心に読む、別の言い方をすれば、三鬼を味わうということだ。
だから、作句当時のことを調べたりもする。調べれば、おもしろいこともわかる。ブンガク的評価を下したい人、文芸批評をものしたい人にとっては無用の周辺情報・背景情報だろうが、そういった事情で(というのは、おもしろいから調べ書き留めるという享楽主義的姿勢という理由から)、除外することはしない。
空港って言っても、当時は原っぱみたいなもんなんだなあ。旅客機といっても、乗客6人のプロペラ機なんだなあ。こうした単純で幼稚なことも、2010年の私には、ある種の感慨である。
ただし、だからといって、三鬼の空港の句を、現在の私たちが利用する空港をイメージしてはいけないなどとは言っていない。念のため。
経年の傷みに耐え、モードの変遷をものともせずに、1句としての愉楽を、それぞれの句が保ち続けているからこそ、私(たち)は今も三鬼の句を読むのだ。
(つづく)
(*)『俳句』1980年4月臨時 増刊「西東三鬼読本」
※承前のリンクは 貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
第14回
高度千メートルの嘔吐
さいばら天気
三鬼のエッセイ「飛ぶ話」(1940年2月『俳句研究』(*))は、その冒頭こそ当時の飛行場の雰囲気を伝えて興趣豊かであるものの、空に上がってからは、富士山が綺麗だとか、ゴルフ場から見上げる飛行機だとか(しかし、ゴルフとはハイカラですね、三鬼)、退屈な内容だが、終わり近く、大阪から乗り合わせた浪花節語りが、飛行機に酔ってしまい、三鬼が介抱した箇所が出てきて…
ところが生駒山にさしかゝる前、既に怪しくなつた。彼は勿論紙袋の存在も用途も知らないから、一蓮托生の私はその辺の紙袋を、プーと息でふくらませて待つてゐると、この先生は案の定、大変なゲー術家で、名古屋までの五十分間、座席全部の袋を使ひ果して了つた。袋は内容物ごと、私が窓から風にさらはせた。まだ若い男ではあつたが、介抱する小生に、おゝけにすんまへんといふ前に、父親にすがる様な顔をするのである。えっ? じゃあ、この句。
冬天に大阪藝人嘔くは悲し 三鬼(1939年)
そういうことだったのですね。飛行機酔いのエピソードなしに読めば、この「冬天に」は、詩的に抽象的に解釈してしまいそうだ。「嘔く」も同様。連作中にあるなら事情は違うが、少なくとも句集中の1句として読むかぎりは、機上の事件とはなかなか思えない。ところが、「冬天に」はそのまま具体的に、冬の空へ、であり、「嘔く」もきわめて具体的に嘔吐なのだった。
●
ところで、俳句を読むとき、その〔読み〕を、現実の周辺情報・背景情報とどのように関連づけるか、参考にするかは、繰り返し議論されてきた。私は、ここで、三鬼のエッセイにある自句自解情報を引いてはいるが、それは俳句の解釈・鑑賞に役立てようというものではない。俳句は、17音ただそれだけで読み、その読みをもって、十全の〔読む快楽〕となすべきと思う。
だから浪花節語りのエピソードは、あくまで「ちなみに」といった付随情報、と、なんだか弁解めくが、そうではない。それはそれで興趣が湧くから、記述するまでのことだ。
ここで私は作品を評価しようというのではない。鑑賞とも少し違う。この「コモエスタ三鬼」がやろうとしているのは、いわば「三鬼というテキスト」を、三鬼の残した「俳句というテキスト」を中心に読む、別の言い方をすれば、三鬼を味わうということだ。
だから、作句当時のことを調べたりもする。調べれば、おもしろいこともわかる。ブンガク的評価を下したい人、文芸批評をものしたい人にとっては無用の周辺情報・背景情報だろうが、そういった事情で(というのは、おもしろいから調べ書き留めるという享楽主義的姿勢という理由から)、除外することはしない。
空港って言っても、当時は原っぱみたいなもんなんだなあ。旅客機といっても、乗客6人のプロペラ機なんだなあ。こうした単純で幼稚なことも、2010年の私には、ある種の感慨である。
ただし、だからといって、三鬼の空港の句を、現在の私たちが利用する空港をイメージしてはいけないなどとは言っていない。念のため。
経年の傷みに耐え、モードの変遷をものともせずに、1句としての愉楽を、それぞれの句が保ち続けているからこそ、私(たち)は今も三鬼の句を読むのだ。
(つづく)
(*)『俳句』1980年4月臨時 増刊「西東三鬼読本」
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2010年4月13日火曜日
●コモエスタ三鬼13 エアポート1937
コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第13回
エアポート1937
さいばら天気
1903年12月17日、ライト兄弟は、米国ノースカロライナ州 キティホークで、飛行機による人類初の有人動力飛行に成功。最大速度48 km/hのライトフライヤー号は、この日、計4回の飛行を行い、4回目では59秒間・260メートルを飛んだ。
飛行機の誕生が現在よりわずか100年ほど前であったことに少々驚く。以来、急速な進歩をとげ、ライト兄弟からおよそ10年後には軍用機が登場(第一次世界大戦)、第二次世界大戦(1939 - 1945)には戦闘の主役となる。戦後はレシプロエンジン(プロペラ機)からジェットエンジンへ。ここまでがたった50年間の出来事なのだ。
空港の青き冬日に人あゆむ 三鬼(1937年)
空港6句(『旗』『空港』所収)のうち1句。1937年(昭和12年)は戦間期、レシプロエンジンの急速な改良進歩の時期にあたる。
航空・飛行機は、三鬼の大きな関心事であったと想像する。以下は、「飛ぶ話」と題されたエッセイ(1940年2月『俳句研究』)の冒頭近く。
冬天を降り来て鉄の椅子にあり 三鬼(1937年)
同じく空港6句のうち1句。フォッカー・スーパー・ユニバーサルによる東京・大阪間は約3時間。現在の新幹線のぞみ号と変わらない(フォッカー機の最大速度は248km/h。300km/hののぞみN700系のほうが早い)。今から思えば、ゆったりとした空の旅だ。
(明日につづく)
(*)『俳句』1980年4月臨時増刊「西東三鬼読本」
※写真は2点ともフォッカー・スーパー・ユニバーサル機。
※承前のリンクは 貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
第13回
エアポート1937
さいばら天気
1903年12月17日、ライト兄弟は、米国ノースカロライナ州 キティホークで、飛行機による人類初の有人動力飛行に成功。最大速度48 km/hのライトフライヤー号は、この日、計4回の飛行を行い、4回目では59秒間・260メートルを飛んだ。
飛行機の誕生が現在よりわずか100年ほど前であったことに少々驚く。以来、急速な進歩をとげ、ライト兄弟からおよそ10年後には軍用機が登場(第一次世界大戦)、第二次世界大戦(1939 - 1945)には戦闘の主役となる。戦後はレシプロエンジン(プロペラ機)からジェットエンジンへ。ここまでがたった50年間の出来事なのだ。
空港の青き冬日に人あゆむ 三鬼(1937年)
空港6句(『旗』『空港』所収)のうち1句。1937年(昭和12年)は戦間期、レシプロエンジンの急速な改良進歩の時期にあたる。
航空・飛行機は、三鬼の大きな関心事であったと想像する。以下は、「飛ぶ話」と題されたエッセイ(1940年2月『俳句研究』)の冒頭近く。
フオツカー・スーパー・ユニバーサルといふ飛行機は、自動車でいへばフオードといふところだらう。簡単で、頑丈で、やたらに鋼鉄線が引張つてある。/これはローカル線と呼ばれる、東京、名古屋、大阪通ひの、旅客機といふ乗合(バスのふりがな)といつた方がふさはしい位の代物だ。/忽然と大都市の一角から現れた、六人の乗客は、大丈夫かしらんといふ顔をして、この小さな機体を眺める。(西東三鬼「飛ぶ話」(*))フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Fokker Super Universal)は全長11.09メートル、全幅15.43メートル、操縦士2 名・乗客6名、米国アトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカが開発した単発小型旅客機。約200機が生産され、日本では中島飛行機(富士重工業等の前身)がライセンス生産した。
大日本航空株式会社は、耳の栓にする綿の塊と、耳鳴りを防ぐための砂糖菓子を、乗客に贈呈する。これを美しい少女から貰つて、初めて乗る奴は不思議な顔をするし、経験のある奴は、判つてるといふ顔をして、ポケツトに収める。(同)大日本航空は、名称の似た日本航空(JAL)とは無関係の航空会社。創業は前掲の句(空港の青き冬日に人あゆむ)より1年遅く1938年(昭和13年)。1945年8月、太平洋戦争敗北とともに解体された。三鬼の長兄武夫が副総裁を務めた会社で(≫第3回・乳香と没薬の日々)、その縁もあったのか。
冬天を降り来て鉄の椅子にあり 三鬼(1937年)
同じく空港6句のうち1句。フォッカー・スーパー・ユニバーサルによる東京・大阪間は約3時間。現在の新幹線のぞみ号と変わらない(フォッカー機の最大速度は248km/h。300km/hののぞみN700系のほうが早い)。今から思えば、ゆったりとした空の旅だ。
(明日につづく)
(*)『俳句』1980年4月臨時増刊「西東三鬼読本」
※写真は2点ともフォッカー・スーパー・ユニバーサル機。
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2010年4月11日日曜日
2010年4月10日土曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔13〕桜餅・下
ホトトギス雑詠選抄〔13〕
春の部(四月)桜餅・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
写真は、左から「豊島屋」の新作「さくらさくら」。塩漬の桜葉を刻み、紅餡に練り込み、羽二重求皮で包み上げ、桜の花びらの形にしつらえたもの。見た目は五弁の花弁が丸い箱に収まり綺麗だが、桜餅とは別物の創作菓子である。真中は逗子の「長嶋屋」の長命寺。クレープ型で、これが一般的な町の和菓子屋の桜餅だろう。右が道明寺。「豊島屋」でも「長嶋屋」でも作っていないので、柏餅がもう出たか、という季の早い逗子の「よしむら」で求めた。京の「鶴屋吉信」の道明寺ほどはんなりとはいかないが、関東もんがでっちるんや、堪忍したって。お値段は「鶴屋吉信」の半額で、おいしおまっせ。
西村睦子『「正月」のない歳時記』によれば、「ホトトギス雑詠選」では、大正2年から昭和9年の間に「桜餅」の句が129句採られている。それ以降の昭和20年3月までの句と合わせて虚子が最終的に残した「桜餅」の句は21句である。子規や漱石の甘党ぶりは読んでいるだけで胸焼けを起こすほど凄まじいが、鴎外の甘党ぶりも不気味なほどで(牡丹餅のお茶漬!)、当時は甘みを渇望していたのか、虚子も相当な甘党ではないかと思われるが、好き嫌いはあったような気がする。というのは、歳時記を見ると、「草餅」(蓬餅)「蕨餅」「鶯餅」「桜餅」「椿餅」と餅題五連発なので、さぞ甘党かと言うと、さにあらず、「鶯餅」は季題だけで例句がない。昭和16年の『ホトトギス雑詠全集』には「鶯餅」で3句採っており、富安風生の名句も含まれているというのに。
街の雨鶯餅がもう出たか 富安風生 昭和12年
これが虚子のツボに再選で入らなかったというのは不思議だ。虚子先生、鶯餅お嫌い?
「酒もすき餅もすきなり今朝の春」(明治26年)と詠んだ虚子だから好き嫌いはないように思えるが、「鶯餅」の季題では一句も詠んでいないので、どうして虚子好みと思われる風生の句を最終選で残さなかったかは、鶯餅が好みではなかったからと勘ぐるしかない。「鶯餅」の季題には「春出る餅菓子である。手にとればまぶした青黄粉がほろほろとこぼれる。黄粉の色から其名があるのであらう」と、実に素っ気無い。ちなみに「鶯菜」も季題だけで例句なし。俳聖芭蕉に「鶯や餅に糞する縁の先」という、これがほんとの鶯餅という駄洒落のような、しかし、芭蕉自身が「日比工夫之處に而御座候(このごろくふうのところにてござそうろう)」と会心の「軽み」とする句があるが、真に受けてトラウマになってるとか。ないか。
その代わり、「桜餅」は明治・大正・昭和を股に掛けて沢山詠んでいるし、沢山採り続けている。
桜餅が本当に好きな人は葉っぱも食べる人がいますと逗子の「長嶋屋」の女将が言っていたが、女将さん食べる?ぴょんぴょん。そうだよなあ、葉っぱは香り付けだもんなあ。
で、ここからは、虚子は桜餅の葉っぱを食べたかどうかという馬鹿話。
西村睦子『「正月」のない歳時記』は労作だが、誤植も多い(註2)。明治35年に虚子が初めて詠んだとされる「桜餅」の句は、明治37年の間違いだが、引用句も「三つ食へば葉が三片や桜餅」と、元句の、
三つ食へば葉三片や桜餅 虚子 明治37年
を誤引用している。それはさておき、
桜餅食うて抜けけり長命寺 明治39年
座の中に籠美しや桜餅 昭和3年
と長命寺の「山本や」の桜餅が虚子はご贔屓で、歳時記でも宣伝しているほどだから、よほど好きで好きで、
灯火の下に土産や桜餅 明治39年
ともし火にほのあかきこの桜餅 大正14年
半日を下げし土産のさくらもち 昭和3年
病よし主の土産(つと)のさくらもち 昭和9年
御仏にこれも供へぬさくらもち 同上
上海に来て月廼家(つきのや)の桜餅 昭和11年
桜餅女の会はつゝましく 昭和15年
桜餅籠無造作に新しき 同上
と、掲出句の躑躅の「燈火の桜餅」も虚子の明治39年の句を踏まえたオマージュだから嬉しくて、大正時代にも「ともし火」の桜餅詠んでいるし、土産は勿論さくらもち、病気も嬉しさくらもち、仏様へもさくらもち、上海の日本料亭行っても桜餅、句会でも桜餅と、虚子忌は桜餅忌とし、当然仏壇には長命寺を供えるのが一番虚子が草葉の影で喜ぶ供物ということになる気がするほどだ。
ここまで桜餅が好きだと、和菓子屋の女将が言った「本当に好きな人は葉っぱも食べる」という域まで虚子は行っているのではなかろうかと思えて来る。そうすると、日本で最初に詠まれた「桜餅」の句も違った目で読まなければならなくなる。
思い出してほしい。池田澄子の解説にはこう書かれている。「有名な長命寺の焼皮桜餅は三枚の葉で平たく包む」と。虚子の句を見直そう。
三つ食へば葉三片や桜餅 虚子 明治37年
つまり、三枚の内、二枚虚子は桜餅と一緒に毛虫のようにばりばり食べてしまったのである。本当け?(馬鹿話だから、そのつもりで)。三枚はさすがに筋が口にあたるから外側の一枚を外して上下の葉で挟んで虚子は食べたのであろう。全集にも、全句集にも、桜餅の葉っぱを食べたという句は載っていない。しかし、この明治37年の句は、【五月。「ホトトギス」第七巻第八号に「春雑詠」四十一句を載す。其うち】と後書が付いている。「ホトトギス」の中にありやなしや。ありました。
桜餅葉をなつかしみ食ふなり 虚子 明治37年
虚子も、
葉ごと食べよと桜餅食べる人 鷹羽狩行
でありしか。嗚呼。
註2:前回取り上げた春の部「花冷」には、泊雲の「木の芽時」の句が誤挿入され、「木の芽時」の項には、同じ句が虚子の句として誤記されている。
春の部(四月)桜餅・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
写真は、左から「豊島屋」の新作「さくらさくら」。塩漬の桜葉を刻み、紅餡に練り込み、羽二重求皮で包み上げ、桜の花びらの形にしつらえたもの。見た目は五弁の花弁が丸い箱に収まり綺麗だが、桜餅とは別物の創作菓子である。真中は逗子の「長嶋屋」の長命寺。クレープ型で、これが一般的な町の和菓子屋の桜餅だろう。右が道明寺。「豊島屋」でも「長嶋屋」でも作っていないので、柏餅がもう出たか、という季の早い逗子の「よしむら」で求めた。京の「鶴屋吉信」の道明寺ほどはんなりとはいかないが、関東もんがでっちるんや、堪忍したって。お値段は「鶴屋吉信」の半額で、おいしおまっせ。
西村睦子『「正月」のない歳時記』によれば、「ホトトギス雑詠選」では、大正2年から昭和9年の間に「桜餅」の句が129句採られている。それ以降の昭和20年3月までの句と合わせて虚子が最終的に残した「桜餅」の句は21句である。子規や漱石の甘党ぶりは読んでいるだけで胸焼けを起こすほど凄まじいが、鴎外の甘党ぶりも不気味なほどで(牡丹餅のお茶漬!)、当時は甘みを渇望していたのか、虚子も相当な甘党ではないかと思われるが、好き嫌いはあったような気がする。というのは、歳時記を見ると、「草餅」(蓬餅)「蕨餅」「鶯餅」「桜餅」「椿餅」と餅題五連発なので、さぞ甘党かと言うと、さにあらず、「鶯餅」は季題だけで例句がない。昭和16年の『ホトトギス雑詠全集』には「鶯餅」で3句採っており、富安風生の名句も含まれているというのに。
街の雨鶯餅がもう出たか 富安風生 昭和12年
これが虚子のツボに再選で入らなかったというのは不思議だ。虚子先生、鶯餅お嫌い?
「酒もすき餅もすきなり今朝の春」(明治26年)と詠んだ虚子だから好き嫌いはないように思えるが、「鶯餅」の季題では一句も詠んでいないので、どうして虚子好みと思われる風生の句を最終選で残さなかったかは、鶯餅が好みではなかったからと勘ぐるしかない。「鶯餅」の季題には「春出る餅菓子である。手にとればまぶした青黄粉がほろほろとこぼれる。黄粉の色から其名があるのであらう」と、実に素っ気無い。ちなみに「鶯菜」も季題だけで例句なし。俳聖芭蕉に「鶯や餅に糞する縁の先」という、これがほんとの鶯餅という駄洒落のような、しかし、芭蕉自身が「日比工夫之處に而御座候(このごろくふうのところにてござそうろう)」と会心の「軽み」とする句があるが、真に受けてトラウマになってるとか。ないか。
その代わり、「桜餅」は明治・大正・昭和を股に掛けて沢山詠んでいるし、沢山採り続けている。
桜餅が本当に好きな人は葉っぱも食べる人がいますと逗子の「長嶋屋」の女将が言っていたが、女将さん食べる?ぴょんぴょん。そうだよなあ、葉っぱは香り付けだもんなあ。
で、ここからは、虚子は桜餅の葉っぱを食べたかどうかという馬鹿話。
西村睦子『「正月」のない歳時記』は労作だが、誤植も多い(註2)。明治35年に虚子が初めて詠んだとされる「桜餅」の句は、明治37年の間違いだが、引用句も「三つ食へば葉が三片や桜餅」と、元句の、
三つ食へば葉三片や桜餅 虚子 明治37年
を誤引用している。それはさておき、
桜餅食うて抜けけり長命寺 明治39年
座の中に籠美しや桜餅 昭和3年
と長命寺の「山本や」の桜餅が虚子はご贔屓で、歳時記でも宣伝しているほどだから、よほど好きで好きで、
灯火の下に土産や桜餅 明治39年
ともし火にほのあかきこの桜餅 大正14年
半日を下げし土産のさくらもち 昭和3年
病よし主の土産(つと)のさくらもち 昭和9年
御仏にこれも供へぬさくらもち 同上
上海に来て月廼家(つきのや)の桜餅 昭和11年
桜餅女の会はつゝましく 昭和15年
桜餅籠無造作に新しき 同上
と、掲出句の躑躅の「燈火の桜餅」も虚子の明治39年の句を踏まえたオマージュだから嬉しくて、大正時代にも「ともし火」の桜餅詠んでいるし、土産は勿論さくらもち、病気も嬉しさくらもち、仏様へもさくらもち、上海の日本料亭行っても桜餅、句会でも桜餅と、虚子忌は桜餅忌とし、当然仏壇には長命寺を供えるのが一番虚子が草葉の影で喜ぶ供物ということになる気がするほどだ。
ここまで桜餅が好きだと、和菓子屋の女将が言った「本当に好きな人は葉っぱも食べる」という域まで虚子は行っているのではなかろうかと思えて来る。そうすると、日本で最初に詠まれた「桜餅」の句も違った目で読まなければならなくなる。
思い出してほしい。池田澄子の解説にはこう書かれている。「有名な長命寺の焼皮桜餅は三枚の葉で平たく包む」と。虚子の句を見直そう。
三つ食へば葉三片や桜餅 虚子 明治37年
つまり、三枚の内、二枚虚子は桜餅と一緒に毛虫のようにばりばり食べてしまったのである。本当け?(馬鹿話だから、そのつもりで)。三枚はさすがに筋が口にあたるから外側の一枚を外して上下の葉で挟んで虚子は食べたのであろう。全集にも、全句集にも、桜餅の葉っぱを食べたという句は載っていない。しかし、この明治37年の句は、【五月。「ホトトギス」第七巻第八号に「春雑詠」四十一句を載す。其うち】と後書が付いている。「ホトトギス」の中にありやなしや。ありました。
桜餅葉をなつかしみ食ふなり 虚子 明治37年
虚子も、
葉ごと食べよと桜餅食べる人 鷹羽狩行
でありしか。嗚呼。
註2:前回取り上げた春の部「花冷」には、泊雲の「木の芽時」の句が誤挿入され、「木の芽時」の項には、同じ句が虚子の句として誤記されている。
2010年4月9日金曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔13〕桜餅・上
ホトトギス雑詠選抄〔13〕
春の部(四月)桜餅・上
猫髭 (文・写真)
君還るなかれ燈火の桜餅 岩木躑躅 大正10年
桜の季節になると、町の和菓子屋には桜餅が並ぶ。わたくしは東男なので、桜餅と言えば長命寺(ちょうめいじ)餅だが、家内は京女なので、桜餅と言えば道明寺(どうみょうじ)餅である。したがって、我が家では長命寺餅と道明寺餅を両方買って来る。桜湯などを飲みながら、「とりわくるときの香もこそ桜餅 久保田万太郎」(昭和24年『冬三日月』)などと桜餅をつまむのも、団欒のひとときだろう。久保万さんは浅草生れだから、この桜餅は勿の論で長命寺餅である。蓋し、名句である。写真は鳩サブレーが有名な鎌倉「豊島屋」の桜餅。
長命寺餅というのは、虚子編『新歳時記』の「桜餅」の記述通りで「桜の葉で包んだ餅で、江戸時代から向島長命寺畔の茶亭の名物となつてゐる。餅は桜色と白とあり、塩漬の桜の葉の香がする」。今でも風流な竹編みの籠に入れて出される。山本健吉もそれに倣う。
道明寺餅に触れているのは、『カラー図説日本大歳時記』の水原秋桜子。「京阪では概ね道明寺糒(ほしい)を蒸しそれで餡を包む」。京の「鶴屋吉信」の道明寺が有名だが、見た目は『源氏物語』にも出て来る「椿餅(つばいもちい)」の椿の葉を桜葉に変えて、道明寺粉を細かく砕いて揉んで(でっちる、と言う)桜色に着色して蒸しあげたのに近い。『角川俳句大歳時記』の池田澄子は双方に目配りが効いた解説を載せている。「大雑把に分けて、関東風の小麦粉の薄焼皮で餡を巻く桜餅と、関西風の道明寺がある。有名な長命寺の焼皮桜餅は三枚の葉で平たく包む。道明寺は餅米を蒸して乾燥させ砕いた道明寺粉を蒸して作る。ともに薄紅色に作られ、塩漬けしたオオシマザクラの葉で包み葉の香りも楽しむ」。「豊島屋」の桜餅も長命寺だが、葉は二枚。
掲出句の桜餅は、これは道明寺の方が句に艶が出る。燈火に映える桜餅と言えば、艶天(つやてん。寒天を砂糖・水で溶かしたもの)を塗って照りを出した道明寺だろう。向島の元祖桜もち「山本や」の長命寺は、三枚の大島桜の大葉で包まれているので餅は見えない。
うら若き女性を引き止める艶ある句とも、桜餅で酒を酌み交わすような甘党の友への呼びかけ、あるいは下戸の甘党の友とも取れる。蓋し、道明寺餅の名句である。わたくしは甘党辛党味道に変りはあるまじきものなりという両刀遣いの呑助なので、こういう句が短冊で飲み屋の壁にでも掛かっていると嬉しくなる。甘味処に掛かっていても、ちょいと辛口の酒が呑みたくなるような句ではある。
実は、わたくしはこの句の短冊を持っている。短冊では「君還るなかれ燈火のさくらもち 躑躅」と座五はひらがな表記になっている。書家でもない俳人の短冊を集める趣味は毛頭ないが、単純にこの句が好きなので欲しかったのである。久保万さんの「とりわくるときの香もこそ桜餅」もあれば欲しい。これらの句は、芸術としてガラスの向うに飾られる句ではない。小料理屋の壁にちょろっと掛かっていて、大ぶりの盃を口から迎えに行こうとして目に止めると、ちょいと酒がうまくなる、そういう句である。で、この原稿は、酒家と化した書斎の壁に掛かった短冊を見ながら、鎌倉「豊島屋」と逗子の「長嶋屋」の長命寺を交互にぱくつきながら、安いが旨い菊正宗樽酒720mlの壜を手酌で、ぐびっと楽しんでいるところである。虚子の俳句の師である正岡子規は、河東碧梧桐によると「病人でなかった昔から、のぼさんは下戸だった。酒の味、というものを知る機会なしだった」と書いているから(註1)、下戸の知らぬ取り合せだろう。ふふ、なかなか合うよ、のぼさん。
作者は、岩木躑躅(いわき・つつじ)。明治14年~昭46年。兵庫県淡路島生。本名喜市。上京1年で接骨医だった父の死に会い帰郷。神戸にて接骨医を開業。俳句は上京後高浜虚子を知り『ホトトギス』同人となり、さらに課題句の選者となった。関西俳壇の長老として活躍。大正7年虚子選『躑躅句集』。昭和55年虚子選年尾選『躑躅句集』。
(明日につづく)
註1:河東碧梧桐『子規を語る』付録「のぼさんと食物」(岩波文庫)。
春の部(四月)桜餅・上
猫髭 (文・写真)
君還るなかれ燈火の桜餅 岩木躑躅 大正10年
桜の季節になると、町の和菓子屋には桜餅が並ぶ。わたくしは東男なので、桜餅と言えば長命寺(ちょうめいじ)餅だが、家内は京女なので、桜餅と言えば道明寺(どうみょうじ)餅である。したがって、我が家では長命寺餅と道明寺餅を両方買って来る。桜湯などを飲みながら、「とりわくるときの香もこそ桜餅 久保田万太郎」(昭和24年『冬三日月』)などと桜餅をつまむのも、団欒のひとときだろう。久保万さんは浅草生れだから、この桜餅は勿の論で長命寺餅である。蓋し、名句である。写真は鳩サブレーが有名な鎌倉「豊島屋」の桜餅。
長命寺餅というのは、虚子編『新歳時記』の「桜餅」の記述通りで「桜の葉で包んだ餅で、江戸時代から向島長命寺畔の茶亭の名物となつてゐる。餅は桜色と白とあり、塩漬の桜の葉の香がする」。今でも風流な竹編みの籠に入れて出される。山本健吉もそれに倣う。
道明寺餅に触れているのは、『カラー図説日本大歳時記』の水原秋桜子。「京阪では概ね道明寺糒(ほしい)を蒸しそれで餡を包む」。京の「鶴屋吉信」の道明寺が有名だが、見た目は『源氏物語』にも出て来る「椿餅(つばいもちい)」の椿の葉を桜葉に変えて、道明寺粉を細かく砕いて揉んで(でっちる、と言う)桜色に着色して蒸しあげたのに近い。『角川俳句大歳時記』の池田澄子は双方に目配りが効いた解説を載せている。「大雑把に分けて、関東風の小麦粉の薄焼皮で餡を巻く桜餅と、関西風の道明寺がある。有名な長命寺の焼皮桜餅は三枚の葉で平たく包む。道明寺は餅米を蒸して乾燥させ砕いた道明寺粉を蒸して作る。ともに薄紅色に作られ、塩漬けしたオオシマザクラの葉で包み葉の香りも楽しむ」。「豊島屋」の桜餅も長命寺だが、葉は二枚。
掲出句の桜餅は、これは道明寺の方が句に艶が出る。燈火に映える桜餅と言えば、艶天(つやてん。寒天を砂糖・水で溶かしたもの)を塗って照りを出した道明寺だろう。向島の元祖桜もち「山本や」の長命寺は、三枚の大島桜の大葉で包まれているので餅は見えない。
うら若き女性を引き止める艶ある句とも、桜餅で酒を酌み交わすような甘党の友への呼びかけ、あるいは下戸の甘党の友とも取れる。蓋し、道明寺餅の名句である。わたくしは甘党辛党味道に変りはあるまじきものなりという両刀遣いの呑助なので、こういう句が短冊で飲み屋の壁にでも掛かっていると嬉しくなる。甘味処に掛かっていても、ちょいと辛口の酒が呑みたくなるような句ではある。
実は、わたくしはこの句の短冊を持っている。短冊では「君還るなかれ燈火のさくらもち 躑躅」と座五はひらがな表記になっている。書家でもない俳人の短冊を集める趣味は毛頭ないが、単純にこの句が好きなので欲しかったのである。久保万さんの「とりわくるときの香もこそ桜餅」もあれば欲しい。これらの句は、芸術としてガラスの向うに飾られる句ではない。小料理屋の壁にちょろっと掛かっていて、大ぶりの盃を口から迎えに行こうとして目に止めると、ちょいと酒がうまくなる、そういう句である。で、この原稿は、酒家と化した書斎の壁に掛かった短冊を見ながら、鎌倉「豊島屋」と逗子の「長嶋屋」の長命寺を交互にぱくつきながら、安いが旨い菊正宗樽酒720mlの壜を手酌で、ぐびっと楽しんでいるところである。虚子の俳句の師である正岡子規は、河東碧梧桐によると「病人でなかった昔から、のぼさんは下戸だった。酒の味、というものを知る機会なしだった」と書いているから(註1)、下戸の知らぬ取り合せだろう。ふふ、なかなか合うよ、のぼさん。
作者は、岩木躑躅(いわき・つつじ)。明治14年~昭46年。兵庫県淡路島生。本名喜市。上京1年で接骨医だった父の死に会い帰郷。神戸にて接骨医を開業。俳句は上京後高浜虚子を知り『ホトトギス』同人となり、さらに課題句の選者となった。関西俳壇の長老として活躍。大正7年虚子選『躑躅句集』。昭和55年虚子選年尾選『躑躅句集』。
(明日につづく)
註1:河東碧梧桐『子規を語る』付録「のぼさんと食物」(岩波文庫)。
2010年4月8日木曜日
2010年4月7日水曜日
2010年4月6日火曜日
●コモエスタ三鬼12 ダンスダンスダンス
コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第12回
ダンスダンスダンス
さいばら天気
昭和8年(1933年)11月13日、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の主任教師小島幸吉(25歳)が検挙されました。新聞には「愛欲のダンス」「暴露された情痴地獄」と煽情的な見出し。小島は教え子の女性に近づいては関係を持ち、金を巻き上げる手口で知られていたそうです(*1)。
フロリダは昭和4年8月に開場したダンスホール。建築意匠や演出の独創性でたいそうな人気を集めていました。
ダンス教師が教え子の有閑マダム(死語ですね)に貢がせるなどは、スキャンダルではあっても、それが犯罪になるとは、今の私たちにはわかりかねるところがあります(よく知りませんが、ホストクラブってそうなんですよね)。法律を調べればわかるのでしょうが、すみません、その手間は端折ります。ともかく、昭和8年、東京ではフロリダだけでなく多くのダンスホールで警察による摘発が続いたそうです。
と、こう、事件を振り返ると、ダンスホールの利用客は、もっぱら金銭に余裕のある女性と思ってしまいそうですが、男性客ももちろん多い。まあ、ダンスなのですから、男女はほぼ同数なわけですが、当時のカフェのように女給さんが男性客をもてなすスタイルであったかどうか。今和次郎編・1929年(昭和4年)刊『新版大東京案内』(*2)には、
また、加太こうじ(*3)によれば、
●
下の動画(↓)は小津安二郎監督『非常線の女』(1933年)のひとこま。音楽・ナレーションとも、後から追加したものでしょうが、この撮影舞台が、フロリダ。めずらしい動画です(YouTube、すごいですね)
●
で、三鬼。
シンガポールに歯医者として渡ったはずが、歯科医院の2階をダンスホールにして、もっぱらダンス教師として、熱帯の夜々を過ごした三鬼です。三鬼がジゴロだった証拠資料は目にしていませんが、それでも、昭和8年(1933年)の三鬼といえば、神田の病院に歯科部長の職に就き、俳句に手を染めた頃。その5年前にはシンガポールでダンス教師の肩書きをもっていたわけですから、銀座や赤坂のダンスホールに巻き起こったスキャンダルを、三鬼が、自分とは無縁の出来事として無関心で過ごしたとは思えません。
運転手地に群れダンゴ上階に 三鬼(1336年)
ジャズの階下(した)帽子置場の少女なり 同
三階へ青きワルツをさかのぼる 同
「フロリダ」と題された3句(『旗』所収)。
このうち「運転手地に群れダンゴ上階に」「ジャズの階下(した)帽子置場の少女なり」の2句は、シンプルな図式。上=アッパークラス・遊興、下=レイバークラス・労働。目に見えてわかりやすい図式が、簡潔に、句になっている。こういう趣向も悪くはありません。
そこで、三鬼は?というと、「三階へ青きワルツをさかのぼる」。アッパーでもレイバーでもなく、上階のワルツに吸引されて、階段をのぼる。いわば、「階層を彷徨する」がごとく。
三鬼という人は、社会的帰属のはっきりしない印象があります。客観的にというより、三鬼自身の帰属意識という点で。
(つづく)
(*1)参考≫情痴ダンスで色魔のステップ
(*2)今和次郎編纂『新版大東京案内・上』ちくま学芸文庫/2001年
(*3)『大衆文化事典』弘文堂/1991年
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第12回
ダンスダンスダンス
さいばら天気
昭和8年(1933年)11月13日、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の主任教師小島幸吉(25歳)が検挙されました。新聞には「愛欲のダンス」「暴露された情痴地獄」と煽情的な見出し。小島は教え子の女性に近づいては関係を持ち、金を巻き上げる手口で知られていたそうです(*1)。
フロリダは昭和4年8月に開場したダンスホール。建築意匠や演出の独創性でたいそうな人気を集めていました。
ダンス教師が教え子の有閑マダム(死語ですね)に貢がせるなどは、スキャンダルではあっても、それが犯罪になるとは、今の私たちにはわかりかねるところがあります(よく知りませんが、ホストクラブってそうなんですよね)。法律を調べればわかるのでしょうが、すみません、その手間は端折ります。ともかく、昭和8年、東京ではフロリダだけでなく多くのダンスホールで警察による摘発が続いたそうです。
と、こう、事件を振り返ると、ダンスホールの利用客は、もっぱら金銭に余裕のある女性と思ってしまいそうですが、男性客ももちろん多い。まあ、ダンスなのですから、男女はほぼ同数なわけですが、当時のカフェのように女給さんが男性客をもてなすスタイルであったかどうか。今和次郎編・1929年(昭和4年)刊『新版大東京案内』(*2)には、
カフエで女給と馴染む迄には、銀座の一流店などでは相当の時間がかゝつて、馴染んだからといつて手を握ることも大つぴらでは今度の御法度で先づ許されぬことになつたのに、ダンス・ホールでは、ビール一本飲む金があれば人の前で堂々と手を触れ合つて、何分かの間といふもの誰れ憚らず踊り狂ふことができるのだ。ダンス熱に浮かされて、だから株屋の店員迄が着流し姿でダンスを習ひ始めるのは、成程尤もである。とあります。
また、加太こうじ(*3)によれば、
日本では大正末から(…)社交ダンスは、ダンス・ホール以外では、踊ることを禁止されていた。とくに、東京では男女同伴でホールへ行っても、チケットを買ってホールに勤めているダンサーと、1曲チケット1枚を渡して踊ることに決まっていた。とありますから、男性客・女性客それぞれに、女性店員、男性店員がダンスの相手をするというスタイルだったようです。
●
下の動画(↓)は小津安二郎監督『非常線の女』(1933年)のひとこま。音楽・ナレーションとも、後から追加したものでしょうが、この撮影舞台が、フロリダ。めずらしい動画です(YouTube、すごいですね)
●
で、三鬼。
シンガポールに歯医者として渡ったはずが、歯科医院の2階をダンスホールにして、もっぱらダンス教師として、熱帯の夜々を過ごした三鬼です。三鬼がジゴロだった証拠資料は目にしていませんが、それでも、昭和8年(1933年)の三鬼といえば、神田の病院に歯科部長の職に就き、俳句に手を染めた頃。その5年前にはシンガポールでダンス教師の肩書きをもっていたわけですから、銀座や赤坂のダンスホールに巻き起こったスキャンダルを、三鬼が、自分とは無縁の出来事として無関心で過ごしたとは思えません。
運転手地に群れダンゴ上階に 三鬼(1336年)
ジャズの階下(した)帽子置場の少女なり 同
三階へ青きワルツをさかのぼる 同
「フロリダ」と題された3句(『旗』所収)。
このうち「運転手地に群れダンゴ上階に」「ジャズの階下(した)帽子置場の少女なり」の2句は、シンプルな図式。上=アッパークラス・遊興、下=レイバークラス・労働。目に見えてわかりやすい図式が、簡潔に、句になっている。こういう趣向も悪くはありません。
そこで、三鬼は?というと、「三階へ青きワルツをさかのぼる」。アッパーでもレイバーでもなく、上階のワルツに吸引されて、階段をのぼる。いわば、「階層を彷徨する」がごとく。
三鬼という人は、社会的帰属のはっきりしない印象があります。客観的にというより、三鬼自身の帰属意識という点で。
(つづく)
(*1)参考≫情痴ダンスで色魔のステップ
(*2)今和次郎編纂『新版大東京案内・上』ちくま学芸文庫/2001年
(*3)『大衆文化事典』弘文堂/1991年
※承前のリンクは貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
2010年4月5日月曜日
2010年4月4日日曜日
●おんつぼ30 ケチャ 関悦史
おんつぼ30
ケチャ
関悦史
おんつ ぼ=音楽のツボ
2010年4月1日夜は暴風がひどかった。家が根こそぎ揺すぶられ、周り中から得体の知れぬ軋み音、打撃音、摩擦音、破砕音がひっきりなしに聞こえてくる中、久しぶりにケチャのCDをまるまる一枚聴き通した。
『神々の森のケチャ~バリ島シンガパドゥ村の呪的合唱劇』というビクターの「JVCワールド・サウンズ」なるシリーズに入っているCDで、ずいぶん前から持っているのだが全曲聴き通したことはあまりない。
例の「チャチャチャチャチャチャ」の複雑強烈なリズムがインパクトがあり過ぎて他のことが手につかなくなり、BGMにならないからである。
解説によるとケチャ自体は太古の昔から連綿と続いていたわけではなく、「サンヤン」なる強い集団トランスをもたらす呪術的儀礼を母胎に、わりと最近、1930年代に創始された芸能らしい。
誕生の経緯をかいつまむと、「サンヤン」は1922年の疫病流行の折に大々的に行われたのを最後に廃れかけていたが、バリ島に住み着いていたドイツ人画家ウォルター・シュピースがそれを惜しみ、とはいっても神聖な宗教儀礼では濫りに上演は出来ないから、そこから音楽的要素だけを抜き出して古代インドの大長編叙事詩ラーマーヤナの物語と組み合わせ、バリ島以外の人たちも楽しめるよう、芸能として作り直すことを島民に提案。
1933年、ブドゥル村の人々と隣のボナ村の応援部隊が総勢約160名で最初の実験を行い、その2年後の1935年、ボナ村の人々が工夫を加えて再上演したものが現在のケチャの原型になっているという。
そういうわけでケチャにはラーマーヤナの物語が織り込まれているので、CDの収録曲一覧を見るに、シータ姫がラバナ王に略奪されたり、《猿の勇者アノマン》がラバナ王の宮殿を破壊したり、《悪魔の王子メガナダ》の放った矢が鉄の蛇となってラーマ王子とラクサマナ王子に巻きついたり、その鉄の蛇をまた《神の鳥ガルーダ》が退治してラーマ王子とラクサマナ王子を助け出したりといろいろしているわけだが、音だけ聴いている分にはひたすら「チャチャチャチャチャチャ」であってどこが何やらさっぱりわからない。
わが家は先日突然ひどく雨漏りがし始め、そちらの処置は一応済んだものの、退避させた本の山が家のあちこちに無造作に積んであって壁には大きな染みが残り、本棚も戻せず未だに被災家屋然とした状態にある。
大風の騒音だけでも寝付けないものだが、さらに昨夜は自分の家のどこがいつ引き剥がされるかわからない不安を抱えていた。眠れるものではない。
ここでケチャである。
聴いている間はあのリズムに引きずり込まれ、撹乱されて、まとまったことは一向に考えられないし、暴風のおそろしい轟音の中なので多少ボリュームを上げても隣近所には聞こえない。
未明の小一時間ほど、大音量でケチャをかけた。BGMにならないという性質を逆手に取って不安をまぎらわせるのに使ったわけである。
そのうち疲労のため、うつらうつらしてきて、後半あたりから少し眠った。
起きたら家の裏口のトタン屋根が吹き飛ばされ、その辺に落ちていた。
思考撹乱度 ★★★★★
合宿で真似したことがあるので懐かしい度 ★★★★
≫画像
■投句ボード
「週俳」4月の投句ボード
●兼 題 7題 「演」「目」 「義」「経」「千」「本」「桜」
●投句期間:2010年4月4日(日)~4月17日(土)
●当季(無季アリ)
●他誌・他サイトとの重複投句はご遠慮ください。
●兼 題 7題 「演」「目」 「義」「経」「千」「本」「桜」
●投句期間:2010年4月4日(日)~4月17日(土)
●当季(無季アリ)
●他誌・他サイトとの重複投句はご遠慮ください。
2010年4月3日土曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔12〕花冷・下
ホトトギス雑詠選抄〔12〕
春の部(三月)花冷・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
もともと俳句は和歌の道から生まれ、和歌の雅な「四季の詞(ことば)」を「竪題」とし、俳諧以後の俗の傍題を「横題」として歳時記が編まれたから、「季題」と言っても、京都を中心とする歌の伝統を踏んでいる。「花冷」もそうである。「時雨」と言えば京の北山と同じで、「花冷」に「花篝」と言えば、虚子が「京都祗園の花篝は殊に名高い」と歳時記に特筆したように円山公園の枝垂桜が趣きの深いものとされた。
いずれの歳時記も「花冷」には京都が引き合いに出される。しかし、これだけ雅な季題でありながら、花冷えの和歌を寡聞にして知らない。
春たてば花とや見らむ白雪のかゝれる枝にうぐひすの鳴く 素性法師
霞たち木の芽も春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける 紀貫之
といった雪を花と見立てる歌や、
またや見む交野(かたの)の御野(みの)の櫻狩花の雪散る春のあけぼの 藤原俊成
さくら色の庭の春風あともなし問はばぞ人の雪とだに見む 藤原定家
庭の面は埋みさだむる方もなし嵐にかろき花の白雪 津守國助
泊瀬川(はつせがは)凍らぬ水に降る雪や花吹きおくる山おろしの風 細川幽斎
といった花を雪に見立てた歌は枚挙に暇が無いにも関わらず。
山本健吉も『カラー図説日本大歳時記』の解説で、わたくしと同じ疑問を感じたのだろう。「花冷えという言葉自身、京都で言い出したのではないかと思う」と述べた後で、
花冷に欅はけぶる月夜かな 渡辺水巴
であり、水巴と言えば「ホトトギス」初期の立役者の一人である。虚子に花冷えの句はない。だが、選は多い。明治41年の雑詠選開始から辿ると、大正4年、8年、9年と「花の冷」で詠まれた句が並び、
山影をかぶりて川面花の冷 西山泊雲 大正9年
は「ホトトギス」6月号の巻頭句の一句である。
これは、西村睦子『「正月」のない歳時記』においても、初出は、明治37年の松瀬青々句集『妻木』に載った、
花の冷雨寂々とふりにけり 青々
とされ、「花の冷」として最初は詠まれていたということがわかる。子規に師事した青々は膨大な個人句集『妻木』を編んだ大阪の俳人で、青々に師事した右城暮石、暮石に師事した茨木和生の師弟は、師青々の詠んだ季語は当然として、詠まない季語にも挑戦するといった試みをしていたと記憶する。暮石には、
我が家まで勤めもどりの花の冷え 右城暮石 昭和15年
があるが和生句は、全句集には目を通したつもりだが、見当たらなかった。こういう美し過ぎる季語は和生句には似合わないという気もするが。
「花冷」で詠まれた句が出るのは、
花冷の顔うちよせし篝かな 野村泊月 大正15年
からである。野村泊月(のむら・はくげつ)は虚子が命名した銘酒「小鼓」の西山酒造場の主で「ホトトギス」の重鎮、西山泊雲(にしやま・はくうん)の弟で『進むべき俳句の道』でも兄弟で紹介されている。
泊月の句は勿論京都円山公園の枝垂桜の夜桜である。そして、昭和2年の素十の句が「ホトトギス」6月号の巻頭を飾る「花冷」の句の最初の句ということになり、以降「花冷」の季題でほとんどが詠まれている。
こう見て来ると、「花冷」という季題を虚子は詠んでいないが、西村睦子が、
山本健吉もわたくしと同じように、和歌の伝統を踏まえた季題と勘違いするくらい、虚子がそのようにも見える「伝統」を作ったのだという、これは一つの事例である。虚子に言わせれば、勘違いしたのはそっちの勝手ということになるだろうが、こちらとしては、まるで王朝時代から続いている「伝統」のような雅な「季題」の顔つきに、なるほど「伝統」というのはこういう風に作るのかと感心する顔つきをするしかない。
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春の部(三月)花冷・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
もともと俳句は和歌の道から生まれ、和歌の雅な「四季の詞(ことば)」を「竪題」とし、俳諧以後の俗の傍題を「横題」として歳時記が編まれたから、「季題」と言っても、京都を中心とする歌の伝統を踏んでいる。「花冷」もそうである。「時雨」と言えば京の北山と同じで、「花冷」に「花篝」と言えば、虚子が「京都祗園の花篝は殊に名高い」と歳時記に特筆したように円山公園の枝垂桜が趣きの深いものとされた。
いずれの歳時記も「花冷」には京都が引き合いに出される。しかし、これだけ雅な季題でありながら、花冷えの和歌を寡聞にして知らない。
春たてば花とや見らむ白雪のかゝれる枝にうぐひすの鳴く 素性法師
霞たち木の芽も春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける 紀貫之
といった雪を花と見立てる歌や、
またや見む交野(かたの)の御野(みの)の櫻狩花の雪散る春のあけぼの 藤原俊成
さくら色の庭の春風あともなし問はばぞ人の雪とだに見む 藤原定家
庭の面は埋みさだむる方もなし嵐にかろき花の白雪 津守國助
泊瀬川(はつせがは)凍らぬ水に降る雪や花吹きおくる山おろしの風 細川幽斎
といった花を雪に見立てた歌は枚挙に暇が無いにも関わらず。
山本健吉も『カラー図説日本大歳時記』の解説で、わたくしと同じ疑問を感じたのだろう。「花冷えという言葉自身、京都で言い出したのではないかと思う」と述べた後で、
古俳書には見えず、明治の俳書にも見えないから、大正以降になって盛んに言い出した季語ではないかと思う。だが、華やかで陽気な花の季節におそってくる意外な現象の名として、きわめて適切であり、俳人たちに愛用されている。と結んでいる。山本健吉が最初に掲げた例句は、
花冷に欅はけぶる月夜かな 渡辺水巴
であり、水巴と言えば「ホトトギス」初期の立役者の一人である。虚子に花冷えの句はない。だが、選は多い。明治41年の雑詠選開始から辿ると、大正4年、8年、9年と「花の冷」で詠まれた句が並び、
山影をかぶりて川面花の冷 西山泊雲 大正9年
は「ホトトギス」6月号の巻頭句の一句である。
これは、西村睦子『「正月」のない歳時記』においても、初出は、明治37年の松瀬青々句集『妻木』に載った、
花の冷雨寂々とふりにけり 青々
とされ、「花の冷」として最初は詠まれていたということがわかる。子規に師事した青々は膨大な個人句集『妻木』を編んだ大阪の俳人で、青々に師事した右城暮石、暮石に師事した茨木和生の師弟は、師青々の詠んだ季語は当然として、詠まない季語にも挑戦するといった試みをしていたと記憶する。暮石には、
我が家まで勤めもどりの花の冷え 右城暮石 昭和15年
があるが和生句は、全句集には目を通したつもりだが、見当たらなかった。こういう美し過ぎる季語は和生句には似合わないという気もするが。
「花冷」で詠まれた句が出るのは、
花冷の顔うちよせし篝かな 野村泊月 大正15年
からである。野村泊月(のむら・はくげつ)は虚子が命名した銘酒「小鼓」の西山酒造場の主で「ホトトギス」の重鎮、西山泊雲(にしやま・はくうん)の弟で『進むべき俳句の道』でも兄弟で紹介されている。
泊月の句は勿論京都円山公園の枝垂桜の夜桜である。そして、昭和2年の素十の句が「ホトトギス」6月号の巻頭を飾る「花冷」の句の最初の句ということになり、以降「花冷」の季題でほとんどが詠まれている。
こう見て来ると、「花冷」という季題を虚子は詠んでいないが、西村睦子が、
〔ホ雑詠〕では、「花冷」の項目を立て大正4年~昭和9年に47句。両歳時記に載ったことで大きな題になった。と記したように、虚子が「花の冷え」を「花冷」という題として立てたことで定着した季題であると言えるだろう。
山本健吉もわたくしと同じように、和歌の伝統を踏まえた季題と勘違いするくらい、虚子がそのようにも見える「伝統」を作ったのだという、これは一つの事例である。虚子に言わせれば、勘違いしたのはそっちの勝手ということになるだろうが、こちらとしては、まるで王朝時代から続いている「伝統」のような雅な「季題」の顔つきに、なるほど「伝統」というのはこういう風に作るのかと感心する顔つきをするしかない。
●
2010年4月2日金曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔12〕花冷・上
ホトトギス雑詠選抄〔12〕
春の部(四月)花冷・上
猫髭 (文・写真)
花冷の闇にあらはれ篝守(かがりもり) 高野素十 昭和2年
がたぴしと入るゝ襖や花の冷 川田十雨 昭和10年
わたくしが住んでいる鎌倉と逗子にまたがる丘は、結界のように桜並木に囲まれており、満開になると空が見えなくなるほど道の両側から万朶の花が張り出す。桜吹雪で花屑が道を埋め尽くすと、バスはモーゼのように桜の海を分けて進む。桜は夜も咲き通しだから、坂道に花のトンネルがライトに浮かび上がって1キロ近く続くと、帰宅するというより凱旋するといった豪勢な気分になる。
今年の鎌倉の開花は、平年より6日早く昨年より1日遅いと言われた3月22日の東京の開花宣言よりひと月も早く、段葛(だんかずら)の染井吉野など、2月20日にはほつほつほころびはじめていた。彼岸には我が家の下の桜並木の空が赤くなるほど、桜の蕾がふくれあがり、いつ一斉に咲いてもおかしくはない陽気が続き、見ているそばから蕾が割れて白蝶が羽化するように開花してゆく風情だったが、三分ほど開いたところで、27日(土)あたりから冬に逆戻りしたかのように、昼間は11℃前後、夜は氷点下になり、庭のメダカの鉢など分厚い氷が張った。3月29日には京に「桜隠し」の雪が降ったという。まさに「花冷」である。近年、彼岸が明けてから、これほど「花冷」という季題が体を通った年はなかったように思う。
打って変って4月1日萬愚節は、午後から春嵐が吹き荒れ、深夜になっても16℃を越え、風が虎落笛を鳴らし、電線を鞭のように打ち続け、今日2日の朝が明けても、桜並木はおんおん幹ごと揺れていた。歩くのもきついほどの風にも関わらず、まだ咲き満ちていないせいか、花は散ることもなく、空に雲を飛ばしてぐるぐるぐるぐる揺れ続けた。冒頭の写真はちょっとピンボケだが、風に押し倒されそうな中で撮った写真としては、これが一番実感に近い。
「花冷」の句は昭和7年の『ホトトギス雑詠全集(三)』に16句選ばれており、素十の掲出句もその中の一句である。
高野素十(たかの・すじゅう)。明治26年~昭和51年。茨城県取手市出身。本名高野与巳(よしみ)。水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝とともに「ホトトギス」四天王の一人として頭文字から4Sと称された。東京帝大卒。法医学を学び血清化学教室に所属し、同じ教室の先輩に秋桜子がいたため、秋桜子に俳句を学び、大正12年「ホトトギス」に投句、以後虚子に師事した。昭和32年「芹」を創刊、主宰。句集『初鴉』『雪片』『野花集』『高野素十自選句集』(村松紅花選)、『素十全集』(全4巻、明治書院)。
素十は虚子の「ホトトギス雑詠選」から生まれ、虚子の「客観写生」を邁進し、その俳句は「純粋俳句」と呼ばれた俳人である。素十以前に、虚子が別格として一目を置いた弟子は、飯田蛇笏と原石鼎の二人しかいない。蛇笏と石鼎は「雲母」と「鹿火屋」というそれぞれの主宰誌を持ってからは、「ホトトギス雑詠」への投句を止めたが、素十と青畝は、虚子が死ぬまで投句を続けた。
虚子が素十を高く評価したので、先輩である秋桜子や、「客観写生」に飽き足りなかった日野草城は、素十の句を、例えば秋桜子は「甘草の芽のとびとびのひとならび 素十」を評して【何草の芽はどうなつてゐるかということは、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない】(昭和6年「馬酔木」)】と評し、草城は【平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。高野素十君の「風吹いて蝶々はやくとびにけり」の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません(昭和5年「山茶花」)】と評した。
この辺の、虚子に対する反感を素十に代理戦争を仕掛けるような真似は、さいばら天気氏が「コモエスタ三鬼」の第5回「新興俳句の夜明け」で、虚子の言説「元来広く文芸といふものには二つの傾向があります。一つは心に欲求してをる事即ち或理想を描き出さうとするもの、一つは現実の世界から自分の天地を見出すものとの二つであります。」(高浜虚子「秋桜子と素十」『ホトトギス』昭和3年12月号所収)を引いて、
閑話休題。素十の句には、鷹羽狩行の名鑑賞があるので、ここではそれを取り上げる。『カラー図説日本大歳時記』(講談社)に掲載されている。
勿論、後世がガタピシ襖を採ることはなく、と言うと十雨句に悪いが、
花冷や剥落しるき襖の絵 水原秋桜子
花冷の夕べ日当る襖かな 岸田稚魚
といった渋い句や美しい句を選ぶ。齋藤慎爾編『必携季語秀句用事用例辞典』(柏書房、平成9年)然り、『カラー図説日本大歳時記』然り。
だが、虚子がそこまでこだわる句を何度も読んでいると、なかなか味のある句ではある。「がたぴしと入るゝ」というところに、「花冷」という季題を作者が確かに体を通したというような温もりがあるせいだろう。
素十の句にも篝守という人は登場するが、鷹羽狩行の鑑賞にあるように「あたかも花が花冷えに堪えかねて花篝を呼び出したかのような趣き」まで、作者は篝守の陰に見事に隠れている。
「花冷」は晩春の時節・気象の季題だが、歳時記の中でも美しい雅な季題のひとつであり、十雨句は雅に俗を、素十句は雅に「これこそ花冷だなと思ったが」という主観をそのまま匂い付けのように託す。
(明日につづく)
註1:川田十雨(かわだ・じゅうう)。明治28年~昭和36年。高知県出身。県立第一中学校卒業後、同郷の俳人若尾瀾水に師事し21歳で虚子門に入った。大正13年から俳号を「十雨」とし、「勾玉」創刊主宰。昭和32年高知県文化賞受賞。句会の席で心臓麻痺のため逝去。
昭和6年、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社が募集した『高浜虚子選日本新名勝俳句』の海岸編「室戸岬」に第一位で入選したのが、
汐けむりあがりし磯の遍路道 川田十雨 昭和5年
であり、他に6句入選している。
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春の部(四月)花冷・上
猫髭 (文・写真)
花冷の闇にあらはれ篝守(かがりもり) 高野素十 昭和2年
がたぴしと入るゝ襖や花の冷 川田十雨 昭和10年
わたくしが住んでいる鎌倉と逗子にまたがる丘は、結界のように桜並木に囲まれており、満開になると空が見えなくなるほど道の両側から万朶の花が張り出す。桜吹雪で花屑が道を埋め尽くすと、バスはモーゼのように桜の海を分けて進む。桜は夜も咲き通しだから、坂道に花のトンネルがライトに浮かび上がって1キロ近く続くと、帰宅するというより凱旋するといった豪勢な気分になる。
今年の鎌倉の開花は、平年より6日早く昨年より1日遅いと言われた3月22日の東京の開花宣言よりひと月も早く、段葛(だんかずら)の染井吉野など、2月20日にはほつほつほころびはじめていた。彼岸には我が家の下の桜並木の空が赤くなるほど、桜の蕾がふくれあがり、いつ一斉に咲いてもおかしくはない陽気が続き、見ているそばから蕾が割れて白蝶が羽化するように開花してゆく風情だったが、三分ほど開いたところで、27日(土)あたりから冬に逆戻りしたかのように、昼間は11℃前後、夜は氷点下になり、庭のメダカの鉢など分厚い氷が張った。3月29日には京に「桜隠し」の雪が降ったという。まさに「花冷」である。近年、彼岸が明けてから、これほど「花冷」という季題が体を通った年はなかったように思う。
打って変って4月1日萬愚節は、午後から春嵐が吹き荒れ、深夜になっても16℃を越え、風が虎落笛を鳴らし、電線を鞭のように打ち続け、今日2日の朝が明けても、桜並木はおんおん幹ごと揺れていた。歩くのもきついほどの風にも関わらず、まだ咲き満ちていないせいか、花は散ることもなく、空に雲を飛ばしてぐるぐるぐるぐる揺れ続けた。冒頭の写真はちょっとピンボケだが、風に押し倒されそうな中で撮った写真としては、これが一番実感に近い。
「花冷」の句は昭和7年の『ホトトギス雑詠全集(三)』に16句選ばれており、素十の掲出句もその中の一句である。
高野素十(たかの・すじゅう)。明治26年~昭和51年。茨城県取手市出身。本名高野与巳(よしみ)。水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝とともに「ホトトギス」四天王の一人として頭文字から4Sと称された。東京帝大卒。法医学を学び血清化学教室に所属し、同じ教室の先輩に秋桜子がいたため、秋桜子に俳句を学び、大正12年「ホトトギス」に投句、以後虚子に師事した。昭和32年「芹」を創刊、主宰。句集『初鴉』『雪片』『野花集』『高野素十自選句集』(村松紅花選)、『素十全集』(全4巻、明治書院)。
素十は虚子の「ホトトギス雑詠選」から生まれ、虚子の「客観写生」を邁進し、その俳句は「純粋俳句」と呼ばれた俳人である。素十以前に、虚子が別格として一目を置いた弟子は、飯田蛇笏と原石鼎の二人しかいない。蛇笏と石鼎は「雲母」と「鹿火屋」というそれぞれの主宰誌を持ってからは、「ホトトギス雑詠」への投句を止めたが、素十と青畝は、虚子が死ぬまで投句を続けた。
虚子が素十を高く評価したので、先輩である秋桜子や、「客観写生」に飽き足りなかった日野草城は、素十の句を、例えば秋桜子は「甘草の芽のとびとびのひとならび 素十」を評して【何草の芽はどうなつてゐるかということは、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない】(昭和6年「馬酔木」)】と評し、草城は【平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。高野素十君の「風吹いて蝶々はやくとびにけり」の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません(昭和5年「山茶花」)】と評した。
この辺の、虚子に対する反感を素十に代理戦争を仕掛けるような真似は、さいばら天気氏が「コモエスタ三鬼」の第5回「新興俳句の夜明け」で、虚子の言説「元来広く文芸といふものには二つの傾向があります。一つは心に欲求してをる事即ち或理想を描き出さうとするもの、一つは現実の世界から自分の天地を見出すものとの二つであります。」(高浜虚子「秋桜子と素十」『ホトトギス』昭和3年12月号所収)を引いて、
主観vs客観、こころvsモノ。誤謬を怖れずさらに展開すれば、私性vs非・私性。秋桜子系の俳句と素十系の俳句の対照(あるいは対立)は、2010年の俳句のうち数多くに当てはまるように思う。と述べているように、敷衍すれば、蕉門の虚実論争まで遡るものであり、俳人が自分の中の読者の目でそれぞれの俳句に接すれば、それぞれ一家を成した俳人であり、それぞれの佳句を楽しめても、自分の中の作者の顔で侃侃諤諤やると、水掛け論になるテーゼなので、いずれ秋桜子や草城に触れる機会も出て来るので、ここでは論じない。
閑話休題。素十の句には、鷹羽狩行の名鑑賞があるので、ここではそれを取り上げる。『カラー図説日本大歳時記』(講談社)に掲載されている。
花冷えは、桜の咲く頃に、意外に気温が下がることをいう。この句では、ちょうど爛漫と桜が咲く夜に、これこそ花冷だなと思ったが、そこに姿をあらわしたのが松明をもった花守りで、花篝の薪に火をつけ、桜の花を照らし出す。-花冷えには、あたたかい火を求める心もあろうから、あたかも花が花冷えに堪えかねて花篝を呼び出したかのような趣きがある。夜の花冷えのヒシヒシと迫る寒さ、それが一転して華やかなものに変る、その一瞬を詠みとった。虚子の『新歳時記』に残された句は、この句と、昭和16年『新選ホトトギス雑詠全集(一)』に「花」の季題の元に収められた川田十雨(註1)の二句のみである。花冷と襖や障子を取り合せた佳句はあるのだが、「がたぴし」が虚子のツボに嵌まったらしく、結局虚子は素十の句は「花冷」ではなく「花篝」に入れたから(この選択は、鷹羽狩行の鑑賞と同じ鑑賞を虚子もしたということだ)、虚子が歳時記に残した花冷の一句はガタピシ襖のみということになる。
勿論、後世がガタピシ襖を採ることはなく、と言うと十雨句に悪いが、
花冷や剥落しるき襖の絵 水原秋桜子
花冷の夕べ日当る襖かな 岸田稚魚
といった渋い句や美しい句を選ぶ。齋藤慎爾編『必携季語秀句用事用例辞典』(柏書房、平成9年)然り、『カラー図説日本大歳時記』然り。
だが、虚子がそこまでこだわる句を何度も読んでいると、なかなか味のある句ではある。「がたぴしと入るゝ」というところに、「花冷」という季題を作者が確かに体を通したというような温もりがあるせいだろう。
素十の句にも篝守という人は登場するが、鷹羽狩行の鑑賞にあるように「あたかも花が花冷えに堪えかねて花篝を呼び出したかのような趣き」まで、作者は篝守の陰に見事に隠れている。
「花冷」は晩春の時節・気象の季題だが、歳時記の中でも美しい雅な季題のひとつであり、十雨句は雅に俗を、素十句は雅に「これこそ花冷だなと思ったが」という主観をそのまま匂い付けのように託す。
(明日につづく)
註1:川田十雨(かわだ・じゅうう)。明治28年~昭和36年。高知県出身。県立第一中学校卒業後、同郷の俳人若尾瀾水に師事し21歳で虚子門に入った。大正13年から俳号を「十雨」とし、「勾玉」創刊主宰。昭和32年高知県文化賞受賞。句会の席で心臓麻痺のため逝去。
昭和6年、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社が募集した『高浜虚子選日本新名勝俳句』の海岸編「室戸岬」に第一位で入選したのが、
汐けむりあがりし磯の遍路道 川田十雨 昭和5年
であり、他に6句入選している。
●
2010年4月1日木曜日
●今日は西東三鬼の忌
今日は西東三鬼の忌
万愚節半日あまし三鬼逝く 石田波郷
野遊びの遠い人影三鬼亡し 佐藤鬼房
竜巻の柱して西東忌を呼べり 平畑静塔
三鬼忌の舟虫つひに顔出さず 青柳志解樹
釘ぬきに釘きしませて西東忌 土生重次
釘買つて出る百貨店西東忌 三橋敏雄
三鬼忌のつひにしづかに吹くあらし 三橋敏雄
三鬼忌のハイボール胃に鳴りて落つ 楠本憲吉
三鬼忌の終わりて回る夜のレコード 寺井谷子
殴られて壊れるビルや三鬼の忌 高野ムツオ
万愚節半日あまし三鬼逝く 石田波郷
野遊びの遠い人影三鬼亡し 佐藤鬼房
竜巻の柱して西東忌を呼べり 平畑静塔
三鬼忌の舟虫つひに顔出さず 青柳志解樹
釘ぬきに釘きしませて西東忌 土生重次
釘買つて出る百貨店西東忌 三橋敏雄
三鬼忌のつひにしづかに吹くあらし 三橋敏雄
三鬼忌のハイボール胃に鳴りて落つ 楠本憲吉
三鬼忌の終わりて回る夜のレコード 寺井谷子
殴られて壊れるビルや三鬼の忌 高野ムツオ