2010年1月19日火曜日

●コモエスタ三鬼03 乳香と没薬の日々

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第3回
乳香と没薬の日々

さいばら天気



1900年(明治33年)5月15日、岡山県苫田郡津山町大字南新座84番地(現在の津山市南新座)に生まれた三鬼が、生地にとどまるのは18歳まで。6歳で父を亡くし、18歳で母を亡くし、このとき長兄・武夫にひきとられ、藤沢市鵠沼(神奈川県)に移り住む。この年1918年の冬に、青山学院中等部に編入、1920年には同高等部(旧制ですから今なら大学)に入学した。

※このあたり『西東三鬼全句集』所載の年譜(鈴木六林男編)による。

前回、「狂騒の1920年代」を三鬼は如何に、と話題をつないだ。三鬼の1920年代は、東京の高等学校で幕を開けたわけである。ところが、青山学院高等学校は半年で中退、翌21年4月には日本歯科医学専門学校(1909年設立・現日本歯科大学)に入学。

関東大震災(1923年)は、在学中の出来事。しかし、三鬼と関東大震災を結びつける記述をまだ目にしていない。

日本歯科医学専門学校は、現在の日本歯科大学の所在地と同じ、千代田区富士見(飯田橋駅の南、靖国神社の裏手)にあった。麹町区(当時)は、震災被害が東京東部と比較すればそれほどではなかったものの、三鬼も罹災者のひとりであったにちがいない。

以降、年譜をかいつまむと…
1925年3月 日本歯科医学専門学校を卒業。
同年11月 結婚
同年12月 歯科開業すべくシンガポールへ。
シンガポール行き(註1)は、日本郵船シンガポール支店勤務の長兄の指示に従ったもの。6歳で父を亡くした三鬼にとって、長兄は父親のような存在だったのだろう。

三鬼は8歳のとき、この長兄の当時の勤務先、上海に1カ月間出かけている。今のように誰もが海外に出かける時代とは違う。むかしの日本郵船といえば、大商社と並んで「海外」を象徴する企業。長兄・武夫にはグローバルビジネスの最前線で颯爽と活躍する姿が想像できよう。武夫は日本郵船ロンドン支店長、上海支店長などを歴任後、大日本航空(JALとは無関係。為念)の副総裁に就任。職業人として一流の人のようだ。

閑話休題。シンガポールに渡った三鬼の暮らしぶりについては、鈴木六林男による年譜の一年分をそのまま引くことにする。
1926年 昼はゴルフに熱中。夜は近東の友人と交遊。観光日本人のガイドをつとめる。即ち、熱帯の夜々、腋下に翼を生じて、乳香と没薬の国を遊行。ために医業大いに怠る。岳人三田幸夫を知る。日本から古典文学書をとりよせ耽読。
つまり、ろくに仕事もせず遊び呆けていたということですね。

乳香(にゅうこう)と没薬(もつやく)を、その字面から…

  セックスとドラッグ?

…と早合点しそうだが(私だけ?)、そうではない。ともに樹脂。香料などに用いられる(註2)

文中「岳人三田幸夫」の岳人はアルピニスト。日本山岳会会長も務めた三田幸夫は、貿易会社「紀屋」を経営しており、のちに三鬼はこの会社に勤めることとなる(1938-42)。

その「紀屋」に押し掛け三鬼に弟子入りする三橋敏雄の証言(『俳句現代』2001年1月号)によれば、三鬼は、シンガポールに開いた歯科医院の二階ホールで、現地の日本人にダンスを教えていたという。

南方の楽天地で大いに羽根を伸ばした三鬼だが、渡航の翌々年1928年にチフスに罹り、熱心でもなかった歯科医院は開店休業状態。長兄の指示により医院を畳み、帰国することとなる。シンガポール滞在中にこしらえた借金は兄たちが処理。りっぱな兄、どうしようもない弟。対照くっきり、である。

なお長兄・武夫は1953年11月5日に死去。

死顔や林檎硬くてうまくて泣く  三鬼(1953年)

この句を含む5句は『変身』(1962年・角川書店)に収録されている。

さて帰国後は、東京・大森区入新井(現在の大田区大森北。JR大森駅の南あたり)に住み、歯科を開業。1929年には長男・太郎が生まれる。



というわけで、三鬼の1920年代は、前半が東京での学生生活、後半がシンガポールでの遊行・放蕩。

「狂騒の20年代」という世界潮流とあざやかにクロスする、というわけには行かなかったが、「享楽」という部分で、時代の空気を存分に吸っていたと言えなくもない。この時点で、私が三鬼に思うのは…

  ええかげんなやっちゃなあ

…ということ。

とても親しみを感じる。


(来週の火曜日につづく)

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(註1)戦前の英領シンガポールへの渡航を、当時の絵葉書をからめておもしろくまとめたサイトがあった。
こちら≫http://www4.big.or.jp/~naomy/acard/singapore/sgp.htm

(註2)「乳香と没薬」の表現は、三鬼自身が、帰朝後の生活を描写した一文にも現れる(年譜はここから採られたのだろう)。
東京外神田の、ある組合病院の歯科部長が、私の職であったが、私は不忠実、不熱心な部長であった。それは私が去らざるを得なかった、赤道直下の乳香と没薬の国の魅力が、いつも私の心をとらえていたからである。/その熱帯の港町へ、私は東京から出発したのであるが、再び帰り着いた東京で、私は亡霊のような異邦人であった。(「俳愚伝」・『俳句』1959年4月-60年3月)
シンガポールから日本に帰り、勤め人の職を得たあとも、「赤道直下の乳香と没薬の国の魅力」を忘れることができず、腑抜けのような暮らしを送っていたというわけである。病院への就職は1932年。帰国してから4,5年も経とうかという時期にこれだから、南方の経験がそれほど強烈だったのか、あるいは三鬼という人、よほど怠け者なのか。

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