シーサイドバウンド 1995.8.26 saturday中嶋憲武風鈴の音には気がついていた。
目を開ける気にはならず、もうすこし目をつむっていようと思い、素足の先をしれしれと擦り合わせる。怠惰だ。
隣のアパートのどれかの窓に下がっているであろう風鈴が、心許なくちりんちりんと鳴っている。
概ね10時頃だろう。今日のバイトは午後1時からだからまだすこし時間がある。このところしばらく詩を作っていない。バイト先では「詩人」と呼ばれている。詩を作らない詩人だ。はは。腹が減った。冷蔵庫になにがあったっけ。トマト。きゅうり。それと食べかけの桃缶。トマトに塩振って食うのもいいな。カレンちゃんのために起きるか。ゆうべ僕は酔って帰ってきたのだ。詩の同人誌のひとと渋谷で一緒に飲んだのだ。
クロカワさんとはいい雰囲気だった。何回かキスもした。僕はそろそろかなと思っていたのだ。だから誘った。クロカワさんは背が高く、さらさらの長い髪で、伏目になったときの睫毛のつくる陰がなんとも色っぽい女性だった。大きなバストも僕を魅了して止まなかった。アルコールに弱い僕は、薄い水割りの2、3杯でいい気分になって、その夜を歩いていた。道玄坂を歩いていると、ホテルの灯りがちらほらと目に入ってきて、「ちょっと休んで行こうか」と僕は言った。それまでなごやかだったクロカワさんの態度が一変し、冷めた口調で言った。「いつもそんな風に軽々と誘っているの」僕は返す言葉が見つからず、どぎまぎとしていると、「幻滅だわ」とクロカワさんがぽつりと言った。幻滅幻滅幻滅…。その言葉はたちまち僕の脳内を満たした。僕は激しく後悔し、気取っている場合ではなかったと思った。「幻滅」の二文字は、クロカワさんから平手打ちを食らったようなものだ。それからどこをどう歩いてクロカワさんの気を取り成したものか、さっぱり覚えていない。覚えている最後のショットは、山手線に乗り込むクロカワさんの、かけがえのない笑顔だった。そこまで思い出すと、突如として不安になった。僕とクロカワさんの愛の未来って、明るいものではないのではないか。腹が減った。愛の前に食事である。僕は起きることにした。
カレンちゃんには、僕の姿が視界に入っているのかいないのか、天上天下唯我独尊といった態で、悠然と泳いでいた。昨年の秋、知人に二匹の流金をもらった。冬に一匹は死んでしまい、残った一匹のために水草を増やし、バクテリアを与えるなどして生き残っているのがカレンちゃんだった。フレーク状の餌をぱらぱらとやり、僕はぼりぼりときゅうりを齧った。「カレンちゃん、気分はどう」この部屋で唯一の話相手は、冷たいガラスに囲まれている。カレンちゃんの天下は、日曜大工センターで買ってきた60センチの水槽だ。僕の天下は家賃5万2千円の1Kの、染みだらけの天井を眺めて暮らす、この部屋に他ならない。それぞれの領分で邪魔にならないように、お互いひっそりと生きている。きゅうりを齧り、トマトを齧り、桃の缶詰を缶のまま食べた。缶詰を片手に持って窓を開けると、むっと熱気が入ってきた。11時前なのに、もう30度を越えているのかもしれない。窓に腰掛けて、缶詰のよく冷えた白桃へフォークを差し、ゆっくりと口に運ぶ。往来は暑そうに人がのろのろ歩いている。こういう瞬間が幸福なのだ。幸福は切れ切れにやってくるものだ。往来をのろのろとゆく、あの太ったおじさんは、自分こそ幸福であって、おんぼろのアパートの2階の窓辺に腰掛けて、桃の缶詰を啜っている三十男を不幸だと見るかもしれない。幸福と不幸はしょせん相対的なものだ。不幸だと思えば不幸だし、幸福だと思えば幸福だ。ならばどんな貧乏をしようが、生きたいように生きている自分は幸福だと思いたい。僕は幸福だ。
僕のアパートは総武線の平井駅で降りて、眼鏡屋、ふぐ専門店、不動産屋などの並ぶ路地をくねくねと歩いて5分ほどのところにある。木造モルタル造りの2階家だ。1階は薬屋だが、何年も前につぶれてそのままになっている。2階に3部屋あり、僕は通りに面した部屋を借りている。4つ下の妹は中央線の東小金井に住んでいて、名前を言えば誰でも知っている商事会社の総務部に勤めている。時々会社の帰りに、僕の部屋へ来て夕食を作ってくれることもある。器量はまあまあだが、彼氏はいないらしい。今年30才になるのだが、のんびりとしたものだ。一体何を考えているのか。最近の娘の考えることはよく分からない。じゃあ、お前はどうなんだという、もうひとりの僕の声が聞こえてくるが、その問いには答えない。自分のことは棚に上げてこれまでの人生を過ごしてきた。これが僕の流儀だ。
桃の缶詰を食べてしまうと、何もすることはない。ごろりと横になって、カレンちゃんの水槽を眺めた。大きな水槽にカレンちゃんはひとりぽっち。長い尾びれをひらひらさせて泳いでいる。「カレンちゃん、今度、彼氏買ってきてあげるからね」と話しかけてみたが、カレンちゃんは夢でも見ているような顔つきのまま、つんと向こうを向いてしまった。カレンちゃんの考えていることは皆目分からない。
カレンちゃんの考えている事が分からないので、アルバイトへ出かける事にした。暑い。全く暑い日だ。恋人はやさしくレモンのジュースを作ってくれるけれど、心も動かないといったような歌があったと思うが、大いに同感。じゃんじゃん同感。歩くのは好きなほうであるが、右足くんも左足くんも、僕の意志に反して重い。これから働きに行くから足取りが、なおさら重いのではないか。いや、そんな事はない。働くのは好きだ。本当に僕は働く事が好きなのだろうか。とまあ、こううじうじと考える事自体、働く事が嫌いということではないのか。うじうじと電柱を追い越し、パチンコ屋の滝のような喧噪を通り過ぎ、前からやってくるタンクトップの大きなバストの娘とすれ違い、自転車のサドルの群がぎらぎらと灼けついているあたりを通り越し、アルバイト先へ着いた。「北十字」という名前の大きな二階建ての喫茶店である。二階への階段は、ゆるやかな弧を描いている。むかしヒッチコックの何と言う映画だったか、ケーリー・グラントがミルクを持って階段を上がってくるシーンがあったが、そのような階段だ。洋風建築の大きな屋敷にあるような古めかしい手摺の付いている階段。店内に流れている音楽は、レーモン・ルフェーブルとかマントヴァーニーとか、そういった退屈な音楽。僕の散文的な日常が始まった。午後9時半のラストオーダーまでひたすら同じ動作を繰り返すのだ。
更衣室へ入り、「木戸修一郎」とネームの入ったロッカーを開ける。黒いズボンに白いワイシャツ、黒い蝶ネクタイを締めていると、桃川という長身の若者が入ってきた。
「おっ、詩人、おはよう」
桃川は僕より15歳も年下であるが、店では先輩であるので、丁寧体を含まない物の言いようをする。
「おはようございます。桃川さん、昨日は通しだったんですか」
桃川はただのアルバイトであるが、先輩であり、強面でもあるので、僕自身の気弱な性格も手伝って、自ずから丁寧体を含む物の言いようをしてしまう。
「そうだよ、今日は遅番だけど、明日も通しだよ。詩人も一回やってみたら。生活、困ってるんでしょ」
「ええ、まあ」
「この店だってさ、いつまでもつか、分からないんだから」
「つぶれるって事ですか」
「長尾さんが言ってたよ」長尾さんとは、調理場の主任だ。
「それで、桃川さんはどうするんです」
「つぶれたら、つぶれたまでよ」一説によると、桃川はどこかの御曹司だと言う。うつけ者なのかもしれない。それにしてもこの店が危ないとは初耳だ。長尾さんに聞いてみる価値はありそうだ。
着替えて、トレンチを携えフロアーに出る。なるほど、言われてみれば土曜日の午後だと言うのに心なしかお客の数が少ないような気がする。お客が去ったあとのテーブルを片付け、サンデーグラスと空のコップを、パントリーのステンレスの上へ置く。調理場のデシャップで、今起きたような顔をして長尾さんが、こちらを見ていた。長尾さんへ近づいて行き、「暇ですね」と僕は言った。長尾さんは二重瞼を瞬きもせずに僕を見ていた。
「ちょっと、小耳に挟んだのですが」
「なに」
「この店って危ないんですか」
「危ないね。お客、少ないだろ。周りに安いコーヒーのチェーン店も出来てるし、銀行もつぶれてるだろ。あと2、3年したら、もっとすごい事になるよ」
「ヤバイですね」
「ヤバイよ。詩人、バイトなんか止してさ、ちゃんと働いたら。いくつになるんだっけ」
「34です」
「まあギリギリのところだね。早い方がいいよ」
「長尾さんはどうするんです」
「俺、俺はカミさんの実家、手伝うかな」
「奥さんの実家って何やってるんですか」
「小倉で魚屋やってんだよ。いずれにしても、あと2、3年が勝負だよ」
フロアーに戻って、不安な気分だけが残った。考えなければならないのだろう。あと2、3年か。そう言われてみても2、3年という時間の束をうまく把握出来ないのであった。
「冷やタンの補充しとけよ」フロアーの主任の金本さんが通りすがりに言った。金本さんは平素ポーカーフェイスの人である。嬉しいのか、苦しいのか、ぱっと見では分からない。僕はちょっと前髪に手をやってから、冷やタンの並んでいるスタンドに立った。お客は来ない。言われた通り、冷やタンを補充しておく必要があるだろうか。
「何、ぼーっとしてるの」声をかけられた。振り向くと、園田ひろみが立っていた。
「冷やタンの補充の必要性と暇な土曜日の午後の相関関係について」
「わあ、詩人。トゥヘ」園田ひろみは、僕が普段と違う言い回しをすると、決まってこういう反応をする。ひろみは郊外にある短大に通っている1年生だ。トレンチを提げて、並んで立つ。2階のフロアーが見え、桃川が柵の向こうを行ったり来たりしていた。
「桃川さん、今日2階なんだ」園田ひろみが言った。
「2階を任せられるようになると、ベテランなんだって」僕が言った。
「わたし、2階はやんないな」
「どうして」
「そんなに長くやらないもの。詩人はそのうち任せられるよ」
「ひろみちゃん、夏休みが終ってもバイト、続けるの」
「わからない。気分でね」
「カレンちゃんみたいだ」
「カレンちゃんって?」
「うちの金魚。空のなかへ逃げてゆく水のように気分次第よ」
「わあ、詩人」
「パクリだけどね」
「なんだ」
「お客さんだ」
「あたし行く」
冷やタンをトレンチに載せると、すらりと園田ひろみは新しいお客の方へ歩み寄った。入口の方へ向かったので、光へ向かう、その細いシルエットはまさに夏だと思った。考えなければならない。近未来の事など。この夏が終るまでに。と言ってもあまり時間がないが。
金本さんは、親指と人指し指と小指の3本でトレンチを支える。どんなにティーカップやケーキやパフェなどを載せようが、そのスタイルを崩す事は無い。客の年配のカップルの紳士が、その支え方を見て、「ああ、あの持ち方だよ」と感じ入ったように呟いたのを、聞いた事がある。おそらくその紳士も若い頃は、喫茶店で働いていた事があったのだろう。3本指で支え持つやり方は、うちのような歴史のあるところや、ちょっと高級なところでは必ずやっているようだ。多分、その方がバランスを保ちやすいし、見た目にプロフェッショナルな感じを与えるからだろう。僕はと言えば最初はやりにくかったが、慣れてしまえば手のひらでべったりと持つよりもやりやすい。日焼けした金本さんが3本指で、すいすい運んでいる姿は、格好良くサマになっている。金本さんの3本指とポーカーフェイスは、この店のトレードマークになっているようだ。金本さんを見ながら、僕は自分の中途半端な存在を疎ましく思っていた。僕は一体どこにいるのだ。逃げ道をいつも探しているような、頼りない存在でしかない僕。そんな僕の書く詩など、どれほどの力があるのだろう。薄っぺらい風でしかあり得ないのではないか。通り過ぎてしまえば、それでおしまい。いや、風にすら成り得ないのではあるまいか。
園田ひろみもラストまでだったので、終ってからお茶に誘った。駅の反対側の地下の喫茶店だ。バイト先の近所だと誰かに見られてしまうかと思ったのだ。別に疾しい事をしている訳ではないのだけれども。臆病というか、用心深いところが僕にはあった。四角い小さな白い卓を挟んで、僕とひろみは座った。この喫茶店に入ってしまった事について、軽い自己嫌悪を覚えつつ、かねてから気になっていた事を質問してみた。
「ひろみちゃん、よくトゥヘって言うよね」
「言うねー。無意味に」
「あれは、こりゃ一本取られたとか、こりゃ参ったとかのニュアンスなのかな」
「別に意味ないよ。ナンセンス。その時のノリで言ってるだけで」
「なんかのマンガのセリフなの?」
「そうじゃなくて、わたしが教育実習で田舎の商業高校に行ったときにね」
「ふむふむ」
「英語の授業だったんだけれど、教科書を読んでもらおうと思って、最前列の女の子を指したの」
「へめ」
「なに、それ」
「ふむふむばかりじゃ、能がないと思って」
「それはちょっと詩が足りないかも。でね、そしたらその女の子、教科書をじっと睨んでたかと思うと」
「かと思うと?」
「THEで始まるフレーズだったんだけど、はははは」と、ひろみはいきなり笑い出した。
「その女の子、もう切羽詰まったような感じで、いきなりトゥヘ!って言ったの」
「ほう」
「THEが読めなくて、そのまま読んだんだね。ローマ字式に」
「はははは。ローマ字式か。なるほど」
「それ以来、気に入っちゃって使ってるわけ」
「そうだったんだ。教育実習のときの女の子ね」
僕は日頃の疑問が氷解したので、さっぱりした気分で運ばれて来たコーヒーを口にした。コーヒーにうつつを抜かしていると、ひろみが最近書いた詩を見せろと言った。
「最近って言っても、もう2か月くらい経ってるからな」
「それ、立派に最近だと思うけどな」
僕は根負けして、しぶしぶと言う身振りでノートを開いたが、思いがけなくひろみに詩を見せろと言われて、内心すこし嬉しかったのだ。開かれたページには次のような詩が4Bの鉛筆で、黒々と認めてあった。
夜会
あかるいひかりに満たされた
ドーナツ屋のひとすみの席を占め
店内音楽の旋律が
つぎからつぎへと夜景のごとく
それらの夜景のなかには
見知った顔などめったに通らない
夜はいつでも不躾にかがやいて
たちまち俺は沈殿してしまう
離れた席のひとりの女は
指を奇妙なかたちにねじ曲げて
書き物に余念が無いが
その頬はくちづけを受けたがっている
夜になってみんなひとりぼっちになった
遠い海のうえで誰も来ない夜会がはじまる
ひろみは、ノートをしばらく見ていたかと思うと、顔を上げてにこっとした。
「どう?」僕は自信を持って尋ねた。
「分かりやすい詩だけど、なんかつまらないな。もうひとつ物足りないっていうかさ」
「……」
「詩人も孤独なんだね」
僕はその詩に自信があり、自惚れていたのだが、ひろみのストレートな物言いに少々傷ついた。
「孤独でなければ詩は書けないよ」
「そうだね」と、ひろみはまたにこっとした。
「出ようか」
「出ようよ」
外へ出ると、涼しい風が吹いていた。今夜は湿度がさほど高くないのだろう。心地よい夜気だった。もう秋なのだと思うと、何かやらなければという思いが沸き起こって来た。
「あと2、3年か」僕は言った。
「なにが」
「勝負どきだよ」
「あたしも考えなくっちゃ、就職」ひろみのてんで軽い物の言いように笑ってしまった。重く考えてたって、どうにもならない。僕は何がしたくて、どこへ行きたいのか。
「踊りにゆこうよ、青い海のもとへ」不意にひろみが歌い出した。それは僕も好きな曲だった。
ふたりで歌おう
あかるい恋のリズム
でっかい太陽が
恋の女神なのさ
踊りにゆこうよ 海はともだちなのさ
シーサイドバウンド ゴーバウンド
「シーサイドバウンド、ゴーバウンド」
すらすらとひろみは歌い、ラストの一節を繰り返し歌った。
「もう秋だね。今年、海に行かなかったな」
「僕なんて、もう何年も行ってないよ」
「来年、行こうよ。一緒に」
「そうだね」
来年の今頃、僕はどこで何をしているのだろう。それを考えると暗い気分になった。
駅に着いて、改札を抜けてからひろみと別れた。ホームへの階段を降りながら、歌った。
シーサイドバウンド
ゴーバウンド
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