〔ためしがき〕
『ゴドーを待ちながら』の問い
福田若之
サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を最初に観るとき、ひとが問うのは、おそらく、ゴドーはいつ現れるのだろうか、ということだろう。
つぎに観るとき、そのひとが問うのは、おそらく、ゴドーはいつか現れるのだろうか、ということだろう。だが、そんなことは分からない。それは何度この劇を観ても分からないことだ。だから、ひとはついついこの問いのもとで立ち止まってしまう。そのとき、このひとは図らずも『ゴドーは待ちながら』の登場人物のひとりになってしまうだろう。
だが、この演劇が提起している問いはもっと別にあるのではないか。たとえば、昨日ゴドーが来なかったという出来事と、今日ゴドーが来なかったという出来事とは、本当に、同じ、ゴドーは来なかったという出来事だろうか。この問いがこれまでの問いと違っているのは、もはやゴドーが何者であろうとかまわないという点である。
ゴドーはいつ現れるのだろうかという問いも、ゴドーはいつか現れるのだろうかという問いも、結局のところ、ゴドーとは何者なのかという問題に行きついてしまう。だが、それは分からない。したがって、こうした問いをめぐる一切は、結局のところ、思考の空費に終わるだろう。要するに、この劇においてはゴドーが何者であるかはそもそも問題にされていない以上、この劇にふさわしい問いは、ゴドーが何者であろうと問題にならないものであるはずなのだ。
だいたい、なぜ、ひとびとは、自分にとってほとんどどうでもいいような連中が待っている相手のことをそこまで知りたがるのだろうか。どうでもいい連中が待っている知らない奴のことがどうしてそんなに気になるのだろうか。ゴドーが神であろうと知ったことではない。考える価値のある問いは、おそらく、もっと別のことである。
2017/10/20