2019年10月31日木曜日

●木曜日の談林〔高政〕浅沼璞


浅沼璞








鮨鮒やつひは五輪の下紅葉   高政
『古今俳諧師手鑑』西鶴編(延宝四年・1676)

ここのところ連句が続いたので、しばらくは発句を。


鮒ずしに用いる鮒を「鮨鮒」という。

秋、重石の下のその鰭は紅色になる。
 
ちょうど食べごろで「紅葉鮒」ともいう。
 
それを五輪塔(墓石)の下の紅葉のようだ、と奇抜な「見立て」をしたのである。
 
土葬の匂いがどのようなものか知らないが、嗅覚にもうったえてくる句かもしれない。
 
(むろん鮒ずしの味わいがその臭気に裏打ちされているように、土葬における追悼の念もまたその匂いに媒介されていたかもしれないが)


作者はこうした奇矯な作風から伴天連社高政と呼ばれた京都談林の雄。

その発句を、大坂の雄・阿蘭陀西鶴が編著『古今俳諧師手鑑』で模刻・収載したのである。
 
談林の両雄、相まみえた感じだ。


とはいえ師・宗因の死後、ふたりは真逆のコースをたどる。
 
俳諧師に加えて浮世草子作家としても活躍し始めた西鶴を尻目に、高政は目だった活動をしなくなる。
 
ついには生没年すら未詳で、〈つひは五輪の下紅葉〉は予言的ですらある。


そんな高政の一句、現代のゴリンピッ句として読んだなら、どうであろう。
 
熱中症の真っ赤なイメージは言わずもがな、海の異臭という嗅覚的な危機感も手伝って、やはり予言的なものを感じさせはしないだろうか。

2019年10月28日月曜日

●月曜日の一句〔伊藤宇太子〕相子智恵



相子智恵







惜しげなく呉れて教えず茸山  伊藤宇太子

句集『角巻』(ふらんす堂 2019.9)所載

ある人が、自分で採ってきた茸を〈惜しげなく呉れ〉た。松茸など、高級で貴重な茸も入っているのだろう。たっぷりの立派な茸に驚き喜びながら、話の流れで「こんなに立派な茸、どこで採れたんですか?」と尋ねると、「それは秘密に決まっているじゃないか」と教えてくれなかったというのだ。茸はくれても、茸採りをする者にとっては(特に茸採り名人ともなれば)、茸の採れる宝の山は秘密にするのが常識なのである。その落差が面白い。

句集の中には〈誰からとなく声ひそめ茸山〉という句もある。こちらは実際に自分が数人で茸採りに行った句だが、やはり「宝の山」という感じがして面白い。茸採りの本意とはこういうものなのだな、と思う二句である。

2019年10月26日土曜日

●土曜日の読書〔文章に惚れる〕小津夜景



小津夜景








文章に惚れる


そこそこ惚れっぽい友達がいて、たまに会うと目下好きな人の話を聞かされる。

あのね、さいきんほにゃららさんのことが好きなの。むかしはそう言われるたびに、へえ、あの人のどこがいいんだろう、好みってのはいろいろだなあと感心していたのだけれど、つきあいが長くなるにつれて、ふうん、人を好きになるのにそんな角度があるんだ、とずいぶん勉強させてもらっていることに気づいた。

ひとつ当たりさわりのない例をあげると、友達は文章の上手い男性に弱い。先日も好きな人から来たというメールを見せてくれたのだが、コンマの打ち方、間合い、文量のセンスが絶妙である。なるほど、これなら現実世界でひどい男性だったとしてもしょうがないか、と思えるくらいに。

実のところ、惚れられやすい文章、というのは存在すると思う。ここでいう「惚れられやすい文章」とはあくまでも俗な意味なので、芸術的才能にあふれたものは除外して考えてほしい。本人が魅力的だったり有名だったりという場合も、どこからどこまでが文章の力なのか判断が難しいので考慮しない。仕掛けのはっきりした文章も、魔法がただの手品に堕したものとして無視しよう。そういった様々な手口なしで、文章だけで惚れられるというと、いまふっと、小沼丹の名が思い浮かんだ。
夕方近くになって、金魚のことを思い出したから、雪を踏んで小川迄行ってみると、寒い風の吹く洗い場に片腕の女の人が蹲踞んで泣いていた。片手で目を押えて、肩を震わせていたようである。足音で此方に気附いて、女の人は泣くのをやめて洗濯を始めた。傍に洗濯物の入った手桶があったから、洗濯の途中で泣いていたのだろう。
それを見たら、その女の人が可哀そうでならない。何だか此方が急に大人になって、先方が子供になったような気がした。何とか慰めてやりたい気分になっていたら、お神さんが此方を向いて、
ーー暗くなるから早くお帰り。一番星が出たよ……。
と云った。途端に此方は子供に逆戻りしたから、物足りなかった。小川には金魚もいなくなっていたから、うん、と点頭いてそのまま帰って来たが、そのとき一番星を見たかどうかは覚えていない。
(小沼丹「童謡」『埴輪の馬』講談社文芸文庫)
巧みすぎず、文章にこれといった秘密のなさそうなところが、たぶん色っぽい。いま「たぶん」と書いたのは小沼丹がわたし好みの作家ではないからなのだけれど、それでもこういう佇まいを好きな人がいることは想像がつく。

わたしもまた上手い文章というものに弱い。が、この場合の「上手さ」の定義についてはこの上なく狭量だ。するすると一本の線から生まれてきた風景のような、安西水丸のイラストっぽい文章が目の前にあったらきっと惚れるだろう。けれど、そんなシンプルかつスタイリッシュな文章にはなかなか出会わないし、残念なことに安西水丸の文章もぜんぜん安西水丸のイラストっぽくないのだった。


2019年10月25日金曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句」は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2019年10月24日木曜日

【俳誌拝読】『豈』第62号(2019年10月)

【俳誌拝読】
『豈』第62号(2019年10月)


B5判・本文120ページ。発行:豈の会。

特集に《現代俳句の古い問題「切れ字と切れは大問題か」》。川本皓嗣、仁平勝、高山れおな、筑紫磐井4氏の論考。

週刊俳句・第650号(2019年10月6日)掲載の特集『切字と切れ』と併せて読めば、現状と論点・問題点がはっきりする。

俳句作品は同人諸氏作品のほか、第5回攝津幸彦記念賞の正賞1作品・準賞2作品、および「新鋭招待作家作品」2作品を掲載。

(ぶつ)として残つてしまひ陶枕は  打田峨者ん

永劫回帰いつかわたしが被る虹  佐藤りえ

図書館は鯨を待っている呼吸  なつはづき

以上、攝津幸彦記念賞の正賞・準賞作品より。

毛虫の毛密々として重ならず  大西朋

物流の果ての渚を歩む蟹  福田若之

以上、招待作品より。

(西原天気・記)

2019年10月23日水曜日

●アスファルト

アスファルト

アスファルトかがやき鯖の旬が来る  岸本尚毅

人が咳犬が咳きをるアスファルト  川口重美

春雨や灯のほとはしる土瀝青〔アスファルト〕  西原天気〔*〕


〔*〕「るびふる」
http://hw02.blogspot.com/2017/03/blog-post_25.html

2019年10月21日月曜日

●月曜日の一句〔森下秋露〕相子智恵



相子智恵







枝豆と殻入れ同じ皿二枚  森下秋露

句集『明朝体』(ふらんす堂 2019.9)所載

なんでもない景が描かれているのに、ふっと笑えて、のちに「もののあはれ」がある。俳味があるというのはこういう句のことをいうのだろう。

二枚の皿を描いた句では、〈秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎〉が有名だ。石鼎の句には〈父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、伯州米子に去って仮の宿りをなす〉という前書きが付されている。掲句を読んで、〈二つ〉と〈二枚〉の数詞の語感の違いに改めて気づかされた。

石鼎の、人妻との駆け落ちが失敗した米子の仮住まいの食卓で詠んだ、形見に分けた夫婦皿と模様の揃わないもう一つの皿のあはれは〈二つ〉。秋露の、おそらくは現代の居酒屋で詠んだであろう、きれいに揃った人工的な皿のあはれは〈二枚〉。皿への思い入れの深さが〈二つ〉と〈二枚〉の違いに表れている。それぞれの俳句の背景が自然に呼び込んだ数詞の違いにハッとするのである。

掲句、特に食器にこだわりのない(コスト的には、割れにくい丈夫な皿であることが大事)チェーン店の居酒屋を想像した。注文した枝豆がやってくる。「枝豆の殻はこちらに入れてください」と店員から一緒に差し出された皿を見れば、それは枝豆がのった皿と同じ模様の、揃いの皿であった。

ぴったり揃った人工的な二枚の皿の中に、一方には莢の中でふくふくと育った枝豆がこんもりと盛られ、一方には、実だけが食べられて、がらんどうの食べ殻となった莢がどんどん積まれていく。二枚の揃いの皿の中の枝豆と食べ殻の対比が、可笑しみの中にあはれを誘うのである。

2019年10月19日土曜日

●土曜日の読書〔抽斗〕小津夜景



小津夜景








抽斗

いまこの部屋に、何を入れてもいい自分用の抽斗がある。

その抽斗に、ふだんはとっておきたいモノを何でも入れている。切れた豆電球。狂った目覚まし。道や海に落ちていた羽根、石、枝、シーグラス、植物のかけら。街路樹の押し葉。細切りにして鳥の巣っぽくまるめた紙。先の曲がったフォーク。計量カップの把手。点かないライター。はずした洋服のタグ。乗り物の半券。ほかいろいろ。

ある夜、抽斗をあけると、ランプの当たり方のせいか、どことなくモノたちの雰囲気がいつもと違っていた。まるで生きているかのように、ぴょんぴょん目に飛び込んでくるのだ。

これ全部、なんでここにあるんだっけ。

モノたちのようすにとまどいながら、ふとそう思った。知り合いからもらったモノについては、ここにある理由がはっきりしている。問題はそれ以外だ。自分用の抽斗は2段しかないから、すべてのモノをとっておけるわけではない。どうしても優先順位をつけねばならず、つまりわたしはふだんから究極の取捨選択と知らず知らずのうちに向き合っているはずなのだ。

だが夜も遅いので、何も考えずに寝ることにした。

あかりを消して、仰向くと闇である。耳栓をしているから音もない。眠りに落ちるまでのつかのまは、鼓動の拍を耳の骨で感じ、音ならざる音としてそれを聞いている。
我々が洞窟の入り口を眺める時(冬には鴉がそこに巣をつくり、時には何かに驚いたようにカアカア鳴きながら空へ舞い上がる)そこに見えるのは、単なる真暗闇ではない。鍾乳石や石筍を、さらには天井や壁の凹凸を心の中で光らせ、その燐光を頼りに進んで行くのである。無論、その光は日暮れのように朧気だが、我々はたしかに明るさへの途を歩んでいるのだ。我々はむしろ夜明けを思う。洞窟が与えてくれる第一の教訓は、夜など存在しないということである。(ピエール・ガスカール『箱舟』書肆山田)
時間という壮大な抽斗の中は、行き方しれずになったモノやヒトでいっぱいだ。もしかするとわたしは時間の地質学者になりたいのかなあ。ピエール・ガスカールが教えてくれた、かすかな光を伝うやり方で。あるいは完全な闇の時は、遠すぎて見えない星を想い、胸の火を焚きつけて。あいかわらず鼓動の拍は、ざり、ざり、と砂を刻むようにくりかえし、わたしはそれを聞いている。そして砂の上を、一足ずつゆっくりと辿りつつも、しだいに足をとられ、色も香りもない抽象的な時間そのものに埋もれてゆく自分の光景を夢のとばぐちから眺めていた。


2019年10月17日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴〕浅沼璞


浅沼璞








 音に啼く鳥の御作一躰   西鶴(前句)
月は水膠の大事とかれたり  仝(付句)
『大矢数』第九(延宝九年・1681)

前回に引きつづき、西鶴による謡曲『鵜飼』のサンプリングから。


前句――
「音(ね)に啼く鳥」に「鳥の御作」をかける。
「鳥の御作(ごさく)一躰」は飛鳥時代の仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって作られた仏像一体の意。
鞍作鳥は飛鳥大仏や法隆寺の釈迦三尊像で知られ、止利仏師(とりぶっし)とも記す。

付句――
「月は水」は「月ハ水之精ナリ」(暦林問答集)という当時の認識。
「膠(にかわ)の大事」は乾漆像制作における膠の用法の、その大切さを意味しよう。
だから「とかれ」には「膠の大事を説く」と「膠を水に解く」の両意がかけられている。


二句の付合は難解だが、鞍作鳥による仏像一体は、乾漆技法における膠の大切な解き方を、それとなく人々に説いている、といった感じだろうか。

詞付としては、音に啼く鳥→鶯→法華経→大事(西鶴文芸詞章の出典集成)。

そして謡曲『鵜飼』の、「げにありがたき誓ひかな 妙の一字はさていかに それは褒美の言葉にて 妙なる法と説かれたり」(新潮日本古典集成)からのサンプリング(下線部)。

くわえて「音に啼く鳥→鶯」(春)から「月は水」(秋)への季移りでもあり、かなりの力技だ。

前回の西吟との付合みたいな協調性は微塵もない。


結語――
西鶴独吟はときに強引である。

2019年10月15日火曜日

●クレーン

クレーン

はわはわとクレーン休日の鴎は  毛呂篤

此の道や行く人なしに秋のクレーン  高山れおな

冬の靄クレーンの鉤の巨大のみ  山口青邨


2019年10月12日土曜日

●土曜日の読書〔文字の泡〕小津夜景



小津夜景








文字の泡

むかしは手紙を書くのにとても時間がかかった。まずなにを書こうかかんがえないことには書き出せなかったし、言葉づかいや文章のながれにも頭を悩ませた。それから筆跡にもこだわっていたと思う。

いまではそのような気苦労がない。頭をからっぽにしていきなり書き出し、思いつきをそのまま自由に綴ってゆく。手紙はそれでじゅうぶんだということがわかったのだ。文字の巧拙はもはやどうでもいい。というより最近はひじきみたいなじぶんの文字を面白がっている。

文字は存在である。それは書き手の分身だったり、また時に書き手のまったくあずかり知らない生き物だったりする。なにもない空間から、身をよじるようにして文字があらわれるのを、書きつつ眺めるのはたのしい。踊っていたら、身体の先っぽから知らない生き物がどんどん湧いてくるみたいなきもちだ。なにもないと思っていた空間に、こんなにたくさんの文字が眠っていたとは。眠りを破られ、ぬっと起き上がった文字のよじれは寝癖のように可愛らしく生々しい。こんな生々しいすがたを人前にさらしていいのかしら。そんな思いをよそに、起き上がった当の文字は伸びたり縮んだりしながらどこ吹く風で遊んでいる。

筆跡へのこだわりがなくなってから、かえって人の字をよく観察している。また書体というものの成り立ちにも関心が向くようになった。
「葦手」というかながきの形式は、水辺の草のなびいている感じに、行間や行の頭を不揃いに、連続体のかなで書かれたもので、手紙などが多いが、いかにも王朝の抒情的な文章をつづるのにふさわしい形式である。時代が下って勘亭流の書、また芝居の文字、その楷書とも行書ともつかぬ書体は、江戸の町方の、かたくるしくない生活感情から生まれた表情を持っている。あきまを少なく太く埋めるような書き方にはユーモアもある。(篠田桃紅『墨いろ』PHP研究所)
篠田桃紅の文字は、生活ではない、もっと純粋で透き通った場所にあるけれど、そんな彼女が彼女自身とは別の、生活の中で使われた文字の意匠心をよろこんでいる。生活の息づかいのある意匠かあ。それならわたしの文字は、あっちへうかんだり、こっちにしずんだり、行先のない文章をつづるのにふさわしい、泡のような意匠を奏でてほしい。またそんな文字が、わたしの言葉をもっとゆるやかな場所へ連れていってくれたら、とてもうれしい。


2019年10月11日金曜日

●金曜日の川柳〔大西泰世〕樋口由紀子



樋口由紀子






形而上の象はときどき水を飲む

大西泰世 (おおにし・やすよ) 1949~

生きている象はもちろん水を飲む。しかし、形而上の象は水を飲むという行為はしない。「形而上」とは抽象的で観念的なものであるから、形をもって存在することはない、しかし、作者は「水を飲む」と言い切る。常識的にはない世界を自分の考えをもって、言葉によって創り出す。日常に対する作者自らの感覚、反応なのだろう。

その姿はどのようなものなのだろうか。その姿が見える視力の良さを感じる。人にうまく説明できないモノを表出している。ひょっとしたら、私の中にもそのような象が存在しているのではないかと思ったりする。いままでと違った目で物事を感じたくなる。日常の感触が変質する。〈さようならが魚のかたちでうずくまる〉〈次の世へ転がしてゆく青林檎〉〈号泣の男を曳いて此岸まで〉 『世紀末の小町』(1989年刊 砂子屋書房)所収。

2019年10月9日水曜日

●炊飯器

炊飯器

炊飯器秋が深むと置かれあり  手塚美佐

動き出す春あけぼのの電気釜  小久保佳世子

炊飯器噴き鳴りやむも四月馬鹿  石川桂郎


2019年10月7日月曜日

●月曜日の一句〔中嶋憲武〕相子智恵



相子智恵







迷宮へ靴取りにゆくえれめのぴー  中嶋憲武

句集『祝日たちのために』(港の人 2019.7)所載

〈えれめのぴー〉とは、「きらきらぼし」のメロディで幼児が歌う「ABCの歌」の

  A-B-C-D-E-F-G(きらきらひかる)
  H-I-J-K-LMNOP(おそらのほしよ)

の、「LMNOP」の部分を「エレメノピー」と歌うあれのことだろう。城に靴を取りに行くのは『シンデレラ』を思い出したりもして、全体に童話のような雰囲気がある。

〈迷宮へ靴取りにゆく〉を、これから迷宮へ靴を取りに出発するところだと読めば〈えれめのぴー〉が〈迷宮〉の扉を開く「呪文」のように思えるし、迷宮へ靴を取りに行っている最中ならば、〈えれめのぴー〉は靴を取りに行った人が迷って出られなくなって叫んだ「悲鳴」のようにも聞こえてきて、何だか怖い。しかも平仮名で書かれていて脱力感があるので「おもしろくて、やがて怖い」感じだ。「LMNOP」のことだと知ってはいても、その意味を無化してしまうこの平仮名が妙に頭の中にこびりついてしまって、忘れられない一句となった。

2019年10月5日土曜日

●土曜日の読書〔読書、ある〈貧しさ〉との戦い〕小津夜景



小津夜景








読書、ある〈貧しさ〉との戦い

この「土曜日の読書」は週刊俳句からの依頼ではなく、わたしがやらせてほしいとお願いしてはじめた連載である。はじめた理由は読書がしたかったから。わたしは本が嫌いで、なんの強制もなく読書することができない。それで強制の機会をつくってみたのだ。

それはそうと、どうして本が嫌いなのか。それは、たぶん、読みたいのに読めない期間が長すぎたからだと思う。つまり俗にいう卑屈である。罪のない本に八つ当たりしているわけだ。実家にいたころも、結婚してからも、わたしが読書すると周囲は嫌がった。病弱だったからだ。本当に誰ひとりいい顔をしない。暴力的な手段で禁じられ、監視されていたこともある。世話する方は地獄だったことだろう。が、世話される方もまた地獄だった。

けれどもわたしは本が読みたかった。誰にも気づかれないように事に及ぶ方法はないものか。そう作戦を練りつづけて、おのずと辿りついたのが詩歌の世界である。詩歌であれば、ほんのちょっとした隙に、数行をぱっと盗み読むことができる。またしずかに眠っているふりをして、盗みおぼえた作品を心の中で確認し直すこともできるだろう。そんなジャンルが他にあるだろうか。

わたしが詩歌にのめりこんでいったのは、こうしたやむにやまれぬいきさつだった。フランスに来てからは、10年以上一冊も新しい本を読まなかったのだけれど(これはお金がなかったのも大きいけれど)、そのあいだもずっと空を見ているふりをしながら、頭の中にあるなけなしの詩歌を、真剣に反芻していた。ただのひとつも忘れないように。

で、いまの話に戻って、ここ数年はぴんぴんしている上に、この連載のおかげで毎週かならず本にさわっている。こんな生活は30年ぶりである。30年前は親元を離れて入院していた施設に立派な図書室があったので、誰からも干渉されず本だけは読むことができたのだ。

とはいえ我慢に我慢を重ねてきた時間が長すぎて、読書に対する天真爛漫なよろこびというのはいまもってわからない。わたしにとっての読書とは、さまざまな〈貧しさ〉との戦いの記憶とあまりにも分かちがたく結びついてしまっている。

本当は大好きと言えるはずだったのに、そしていまでもきっとそうなれるはずなのに、いざ頁をひらくとかつての怒りと悲しみがこみあげて、涙が頬をつたう読書というもの。そんな大嫌いな読書が、わたしに対してつかのま優しくなるのは、たとえばこんなささやきを思い出すときだ。

「書物」

この世のどんな書物も
きみに幸せをもたらしてはくれない。
だが それはきみにひそかに
きみ自身に立ち返ることを教えてくれる。

そこには きみが必要とするすべてがある。
太陽も 星も 月も。
なぜなら きみが尋ねた光は
きみ自身の中に宿っているのだから。

きみがずっと探し求めた叡智は
いろいろな書物の中に
今 どの頁からも輝いている。
なぜなら今 それはきみのものだから。
(ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』草思社文庫)


2019年10月4日金曜日

●金曜日の川柳〔鳴海賢治〕樋口由紀子



樋口由紀子






郵便番号038の牛の舌

鳴海賢治 (なるみ・けんじ)

まず郵便番号の038を調べてみた。青森市・弘前市・つがる市など広範囲に渡っている。特別「牛」に関連する地域でもなさそうである。次に地図を見てみたが、その地域と特に形が似ているようには思えなかった。

いろいろ考えた。もちろん、その地方にも牛はいる。そして、牛には舌がある。だから、「牛の舌」も行政区割では「郵便番号038」になる。「牛の舌」に関して、なんらかの通知が届くこともあるかもしれない。なんの脈略もないと思っていたものにつながりができてきた。言葉がおもしろく絡まって、風変わりな認識を与えてくれた。〈現実は桃が流れていないこと〉〈見慣れないカマキリが海を見ている〉〈第二幕やはりグンゼの下着かな〉〈病院のスリッパで病院の中へ〉

2019年10月3日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴・西吟〕浅沼璞


浅沼璞








鵜の首をしめ出しに逢ふ恋の闇   西鶴(前句)
 小舟の篝越るはしの子      西吟(付句)
『西鶴五百韻』第一(延宝七年・1679)

西鶴俳諧というと独吟連句のイメージが強いけれど、大坂談林との一座も少なからず残っている。

この五吟五百韻を収録した『西鶴五百韻』もその一つで、西鶴が編集、水田西吟が版下を担当。
ともに宗因門で、のちに西吟は『好色一代男』の版下・跋文によって世に広く知られることとなる。

そんな二人の息のあった付合。
前句――「鵜の首をしめ」と「しめ出し」は掛詞になっている。鵜飼の鵜のように恋の闇に締め出されるイメージ。

付句――「闇」に「小舟の篝」とくれば、謡曲『鵜飼』(注1)のサンプリングとわかる。「はしの子」は梯子のことで、「恋の〆出し」との付合語(俳諧小傘)。鵜飼舟の篝火で恋の闇路を越える、そんな梯子のイメージ。

鵜飼の付合と、恋の闇の付合が混交し、談林らしいカットアップとなっている。


じつはこの九月上旬、長良川の鵜飼舟を初体験。

あいにく雷雨だったけれど、そのせいで篝火の強さを知った。
終盤、つぎつぎと川に篝を沈める光景には息をのんだ。
雷光の川面にわきたつ嘆声と煙。
いやでもあの名句がうかんだ。

おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉   芭蕉(貞享五年・1688)

これも謡曲『鵜飼』(注2)のサンプリングだけれど、ここに恋の闇の文脈を加えたなら、「おもしろうてやがてかなしき」両義性がいや増しに増すであろう。


(注1)鵜舟にともす篝り火の 後の闇路をいかにせん」「鵜舟の篝り影消えて 闇路に帰るこの身の 名残り惜しさをいかにせん」(新潮日本古典集成)

(注2)「鵜使ふことの面白さに……鵜舟にともす篝り火の 消えて闇こそ悲しけれ」「罪も報ひも後の世も 忘れ果てて面白や……月になりぬる悲しさよ」(同上)

なお連歌寄合集『連珠合璧集』によると「後の世の酬」と「恋死」は寄合語との由(同上)

2019年10月2日水曜日

【週俳アーカイヴ】川柳✕俳句

【週俳アーカイヴ】 
川柳✕俳句


柳×俳 7×7 樋口由紀子×齋藤朝比古:第6号・2007年6月3日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77.html

「水」のあと 齋藤朝比古×樋口由紀子:第7号・2007年6月10日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/blog-post_10.html

「水に浮く」×「水すべて」を読む:上田信治×西原天気:
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/blog-post_4958.html


柳×俳 7×7 小池正博✕仲寒蝉:第8号・2007年6月17日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77_17.html

「悪」のあと 小池正博✕仲寒蝉:第9号・2007年6月24日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/blog-post_23.html

「金曜の悪」「絢爛の悪」を読む 島田牙城×上田信治:
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/blog-post_2712.html


柳×俳 7×7 なかはられいこ✕大石雄鬼:第16号・2007年8月12日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/77.html

「愛」のあと 大石雄鬼×なかはられいこ:第17号・2007年8月19日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_19.html

「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)遠藤治✕西原天気:
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_4958.html

「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(下)遠藤治✕西原天気:第18号・2007年8月26日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/16-77.html


柳俳合同誌上句会 投句一覧:第382号・2014年8月17日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2014/08/blog-post_17.html

選句結果:第383号 2014年8月24日
http://weekly-haiku.blogspot.com/2014/08/20148.html