2009年7月31日金曜日

■今治で「俳諧と俳句」展

今治で「俳諧と俳句」展

開催期間:7月29日~8月31日
詳細は↓↓↓
http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20090729/news20090729346.html

■田中裕明賞

田中裕明賞

応募資格:満45歳までの方の2009年1月1日から2009年12月31日までに刊行された句集/締切:2010年1月31日
詳細は≫こちら

2009年7月30日木曜日

●おんつぼ19 ミシシッピ・フレッド・マクダウェル 山田露結


おんつぼ19
ミシシッピ・フレッド・マクダウェルMississippi Fred McDowell


山田露結





ミシシッピ・フレッド・マクダウェル(1904 - 72)はギター一本で弾き語りをする、いわゆる“カントリー・ブルース・マン”です。
この手の人では「ロバート・ジョンソン」がギターの名手として有名ですが、案外“へなちょこ”な人が多いのもこのジャンルの特徴です。
たとえば「スリーピー・ジョン・エスティス」、「ボ・カーター」、「ビッグ・ジョー・ウィリアムス」…などなど名前をあげたらキリがありません。
さて、「ミシシッピ・フレッド・マクダウェル」です。
彼はスライド・ギターが得意です。
低音弦でリズムをとりながら“シュイ~ン、シュイ~ン”とスライドします。
何とも形容しがたい不思議な音階ですがアルバム一枚を聞き終えた後、全部同じ曲だったような気がします。
これはほとんどすべての“カントリー・ブルース・マン”に共通して言えることですが、CDを買った時は一通り最後まで聴くのですが、その後アルバム一枚を通して聴くのはナカナカ苦痛です。
それでもCD屋さんに行くとまた、ついついカントリー・ブルースを買ってしまうのはナゼなのでしょう?
今ではカントリー・ブルースが私のCDコレクションの中でかなりの割合を占めています。
この音楽には聴く者を麻薬のように病みつきにさせてしまう不思議な力があるようです。
ある日、友人を車に乗せて「ミシシッピ・フレッド・マクダウェル」を聴いていた時、「なんか、変わった音楽だな。」と友人に言われ、何とも返事のしようがなかったのを覚えています。


ワンパターン度 ★★★★★
トランス度 ★★★★



おすすめアルバム

2009年7月28日火曜日

●祐天寺写真館20 氷屋

〔祐天寺写真館20〕
氷屋

長谷川裕


この看板には、お話がありそうでなさそうなものを感じる。しかし、いわゆるトマソン物件ではない。トマソン物件は明確である。迷いがない。撮影者はトマソン物件が見えてこない体質なのである。


2005年3月 文京区湯島 Canon IXY DIGITAL 320

2009年7月26日日曜日

〔ネット拾読〕眠っている顔の上を何かが駆け抜けていった

〔ネット拾読〕11
眠っている顔の上を何かが駆け抜けていった


さいばら天気


はい、こんにちは。また日曜日がやってまいりました。

 * * *

ちょっと旧聞ではありますが、祇園祭。

宵々山 from けふえふえふとふてふ
http://yaplog.jp/ef_ef/archive/177

宵山 from ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記
http://blog.zaq.ne.jp/blenheim/article/518/

 * * *

豈 weekly 第49号
http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/07/49.html

記念号。新デザイン、いいですね。

 * * *

後記+プロフィール(山口優夢) from 週刊俳句・第118号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/07/118.html
さいばら天気さんから、編集やってみませんか、というお話をいただいたのがおよそ1か月前。/(…)パスタをご馳走になり、あまりおいしいので長居し過ぎて終電を逃しました。
はい。事実です。パスタで釣りました。

若い人に動いてもらいたいときは、「腹いっぱい喰わせる」。それは、私が若い頃、そうされていたから。
ネットを使えばいろんな人に会える、いろんな話が聞ける。それはこれまで週刊俳句をまつまでもなくいろんなサイトが証明してきたことだし、今更そんなことみんな分かっているようなことでもあるでしょう。
俳句関連サイトの老舗のひとつに「ねずみのこまくら」があります。1997年1月1日開設ですから「週刊俳句」の10年先輩。このサイトのご主人、高澤良一さんの10句を「週刊俳句」にいただけたことをとても光栄に感じています。

 * * *

時間 from Rocket Garden~露結の庭
http://yamadarockets.blog81.fc2.com/blog-entry-144.html
時間というのが人間の考え出した概念だとしたら人間にだけ時間が流れている、と言うことも出来るだろうか。
いいえ、言えません。〔概念〕は人間の側にある(人が考える)ものですが、〔概念化される事象〕はいつも人間の外にある。流れているのは「時間」であって、「時間概念」が流れているわけではありません。当たり前のこととして、草木にも石にも時間は流れる。
「もの」は古くなる。/ここで「もの」というのは、いわゆる人間のつくったもの。人工物。/自然は古くならない。/草木は枯れて人間は老いるけれども、また新しい命が次々に生れる、という意味ではそれは永遠とも言える。/だとすると、人間のつくった「もの」だけが古くなる。/建物も車も洋服も、それから言葉も。
いくつかの紛糾があるようです。こういう指摘は無粋ですが。

恣意的に、「古くなる」ことにのみ「時間」概念が割り振られています。しかし、「新しい命が次々に生れる」のもまた「時間」なわけで。

つまり、こういうことだと思うのです。雑駁に言って、時間にはふたつの時間がある。仮に、上記の文脈に合わせれば、自然の時間、人工の時間。言い換えれば、事実的時間と人間的時間、客観的時間と主観的時間(ほんと雑駁でつまんないですが)。

事実の時間は、不可逆的。石にも草にも人間にも例えば「一年」は同じく過ぎる。

人間の時間は、止まったり繰り返したり「矢の如く」過ぎ去ったりする。

人間は、「時間」を知覚したり、知覚しなかったり(=「無時間」を知覚したり)。ぐにゃっと曲げてみるなんて、しょっちゅう。そうとう、いいかげんです。それは「事実の時間」にまったくいいかげんなところがないから、かもしれない。

興味とお暇のある人はエドマンド・リーチの「クロヌスとクロノス」に関する論考なども(『人類学再考 Rethinking Anthropology』思索社・絶版/所収「時間とつけ鼻」)。

そして鴇田智哉「俳句とは何だろう」全12回(「雲」誌連載ののち週刊俳句に転載)は、絶えずこのテーマの周囲を経巡っていました。こちらは必読。

 * * *

それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。

2009年7月24日金曜日

●河童忌

河童忌


河童忌の庭石暗き雨夜かな  内田百閒

河童忌と思い出し居り傘の中  伊丹三樹彦

河童忌の白き腕に葡萄糖  攝津幸彦

水ばかり飲んで河童忌過ごしけり  藤田あけ烏

河童忌やたつたひとりに大広間  中西夕紀


青空文庫・芥川龍之介

2009年7月23日木曜日

●団子虫 野口裕

団子虫

野口 裕


スライドを映写して見せる。1枚目は晩秋の山道、落ち葉がたくさんつもっている。2枚目は夏の山道。あれだけあった落ち葉が見あたらない。どこにいったのか? そこで、3枚目に出てくるのが団子虫。せっせと落ち葉を食べて綺麗に分解してしまうのだ。

昔々中学校の理科を教えていた頃、生産者・消費者・分解者の区別を説明するのにそんなことをやった。もっと遡ると、子どもの頃にいったん丸くなったものがいつになったら元に戻るのか、じっと見ていた記憶もある。結局、元に戻るのを待ちきれず放り出してしまったようだが。

その団子虫が、オカダンゴムシというヨーロッパからの帰化動物だったと知ったときの驚きは大きかった。似た種のワラジムシも同じく帰化動物らしい。

ダンゴムシ≫http://homepage2.nifty.com/e-mon/dango/dango.html
ワラジムシ≫http://ja.wikipedia.org/wiki/ワラジムシ

数多ある歳時記を全部ひもといたわけではないが、ダンゴムシもワラジムシも季語ではない。そのせいか俳句データベースで、ダンゴムシ(団子虫)やワラジムシ(草鞋虫)を検索してもほとんどヒットしない。(俳句検索で1句、続俳句検索で10句)夏の季語となっているフナムシ(船虫、舟虫)を検索した場合(船虫で俳句検索18句、続俳句検索で13句、舟虫で俳句検索75句、続俳句検索で66句)との差は歴然としている。

フナムシは昔からいるが、ダンゴムシはそうではない。その差ではないかと考えることもできるだろう。たしかに、在来種のダンゴムシは森の奥や海岸にいたらしいので、人目に付く量には差があったのかも知れない。

そこで同じ時期に日本にやってきたものと比べてみる。団子虫がいつ頃、日本に渡ってきたかについて確定的なことは言えないようだが、おそらく明治時代に渡ってきたのではないだろうか。同じ頃に渡来したと思われる詰草(クローバー)を検索してみるといくつかの句が見つかる(詰草で俳句検索5句、続俳句検索6句、クローバーで俳句検索17句、続俳句検索で10句)。季語であるかどうかの差が若干出ているようだ。

季語という、言葉に対して仕掛けた社会的装置の威力は非常に大きい。そのため、外界への認識に対してフィルターをかけることの結果がその差だろうか。団子虫の句、もうちょっと増えても良いように思う。

2009年7月22日水曜日

●祐天寺写真館19 食堂の眼

〔祐天寺写真館 19〕
食堂の眼

長谷川裕


こういう写真にはコメントがつけにくい。ダメなコメントになるか、写真をダメにしてしまうかのどちらかだ。沈黙をもってしか応じられないというのは、悪くない。


2008年12月 神奈川県藤沢市 Nikon D300

2009年7月21日火曜日

●夏の月

夏の月


1969年7月21日(日本時間)はアポロ11号が月面着陸した日。

  蛸壺やはかなき夢を夏の月  芭蕉

  市中は物のにほひや夏の月  凡兆

  夏の月いま上りたるばかりかな  久保田万太郎

  馬の死にでけでけでけと夏の月  攝津幸彦


NASAのホームページ(含:40周年記念特集)
http://www.nasa.gov/home/index.html

2009年7月19日日曜日

〔ネット拾読〕1000円と信じていたのに1750円だった高速料金

〔ネット拾読〕10
1000円と信じていたのに1750円だった高速料金


さいばら天気


さあ、いよいよ7月22日(水)は、日蝕です。
http://www.astronomy2009.jp/ja/webproject/soecl/image/map-japan.jpg

でも、太陽を「見つめる」のはとても危ないのだそうです。
↓↓↓
世界天文年2009 日食観察ガイド
http://www.astronomy2009.jp/ja/webproject/soecl/ng.html

ところが、日蝕観察めがね、軒並み売り切れの模様。

 * * *

梅雨 from 日々,子持ち。
http://plaza.rakuten.co.jp/sinmik/diary/200907160000/

…呪詛のようで、たいへんおもしろうございます。

 * * *

梅田望夫氏の「残念発言」はもっともだ 「ネット敗北宣言」の本当の意味 中川淳一郎
http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20090624/162684/

旧聞に属するが、日本のネットをめぐる「ネット識者」の見解多数。議論沸騰。ネットに関する著作の多い(よく売れた)梅田望夫氏の「残念発言」をかいつまむと、書いてほしい人・書くべき人は書かず(ネットで言論を展開せず)、ロクでもない有象無象が発言しまくる日本の現状を「残念」と切り捨てたもの。例えば、本も読まずに、またたとえ読んでもまともに咀嚼できないような輩が、書評に向かって、言いたい放題のコメントを付けるというのは、どうなんですか、それ、という話。

記事の書き手・中川淳一郎氏は『ウェブはバカと暇人のもの』の著作があり、梅田発言をおおむね擁護する立場からの記事。リンクがていねいに貼ってあるので、暇人(笑)はリンク先もどうぞ(実は暇人じゃなく多忙であっても、目を通すことはできる。精読と粗読を使い分ける術を理解すれば、手間や時間はそれほどでもない。読むのに慣れた人は、特に論考=文芸以外を読むときのコツを知っている)。

ところで「週刊俳句」界隈は、記事にコメントが付くことがあまりなく(理由は複数あるのだろうが、よくわからない)、インターネットの「集合知」ならぬ「集合愚」にも、幸か不幸か遭遇する機会がない。

けれども、ロクでもないコメントが膨大に集まったとしても(いわゆる炎上)、そのいちいちに目を通す人など、いるのだろうか。いたとして、当の書き手か運営者くらいのものだろう。精読と粗読の使い分け以前に、人は取捨選択という術を知っている。

 * * *

インターネットに関するクリシェ(紋切型)のひとつに「膨大すぎる情報量」がある。それを言う人は本屋に行ったことがないのだろうか。書店一軒は、例えば私には「膨大すぎる情報量」である。けれども、それを前にして立ちすくんだりしない。仮に書籍すべてが真っ白なカバーだとしたら、立ちすくむ。とりつくしまがない。けれども、内容のタグ(ラベル)はいたるところに付されているし、経験が「勘」のようなものをもたらす。本屋に1時間いて、おもしろい本が1冊も見つからないとき、出版業界を呪うより、見つけられない自分を責めるほうが、よほど正当であり現実的である。

「屑のような情報が多い」というのも、ネット・クリシェのひとつである。そこに拘り続ける人は本屋に行ったことがないのだろうか。一度でも行けば、本屋の書架や平台に、屑のような本が膨大に置かれていることを知っているはずなのだ。

こうした話題は別立てがいいのかもしれません。『豈』第48号の特集に「媒体論」がありました。俳句世間では、定期的にインターネットが話題にのぼります。

 * * *

あ、インターネットの話など、しちゃいました。もう15年も経つというのに、ね。インターネットが日本に普及してから。

 * * *

それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


  

2009年7月17日金曜日

●中嶋憲武 夜のぶらんこ(下)


夜のぶらんこ(下)

中嶋憲武


誂えたお菜をあらかた食べてしまい、飲みものも2杯ほど進んだところでうどんにしようかと話がまとまった。ぼくは鴨南蛮を誂え、鳥子さんは釜玉を誂えた。

運ばれてきたうどんを啜りながら、鳥子さんは問わず語りに中学生のころの話をした。

弟はいつも部屋でひとり拗ねていて、父親は働かないもんだから、母は毎日のように父と喧嘩していたの。弟はいま30を越してるけど、仕事しない。定職についてない。アルバイトに週に何日か行ったかと思うと、辞めて帰ってくるっていう繰り返し。ふだんは家に引きこもってる。きっと働くのが厭なんだよ。むかし、家族で海に行くことになって、わたしも弟もよろこんで駅まで行ったんだけど、駅で母と父が口喧嘩になって、海には行かずみんなで家に逆戻り。そんな家族。父は離婚して遠くに住んでる。だから家が厭で厭で。よくグレなかったと思うよ。

鳥子さんはにこにことそんな話をした。

うどんを食べ終わって店を出た。もうすっかり暗くなっていた。風が首筋に生暖かい。すこしべとべとする。どこへ行くという当てもなく、夜をただ歩いた。墓地があったので、そちらへ歩いて行った。広い墓地だった。幼児のころみていたテレビドラマで、幽霊となった男女が墓石に座ってギターを弾きながら、なにかというと「宙ぶらりん宙ぶらりん」と歌う場面があった。なんていうタイトルであったか、どんな歌であったか忘却の彼方だが、そこの歌詞だけ覚えている。宙ぶらりん宙ぶらりん。ぼくたちもまるで宙ぶらりんなのであった。

墓地を宙ぶらりんで歩いていると、小さな公園があった。ぶらんこと雲梯と象の乗り物しかないような公園だった。鳥子さんは、わあ、ぶらんこぶらんこと言いながらぶらんこの方へ走っていき、ぶらんこに乗った。ぼくも何年ぶりかでぶらんこに乗り、漕いだ。

青白い電燈の下で、ぼくと鳥子さんの影が追い付いたり離れたりした。だんだん加速して行き、弧が大きくなっていった。むかしはもっと空へ近づけたような気がする。星のない梅雨の空を見上げながら漕いだ。もっと近づけ、もっと近づけとぐんぐん漕いだが椅子から体がはみ出してしまいそうで、そのたびに現実に引き戻される気がした。鳥子さんがいつまでも漕いでいるので、減速しかけたところだったが、足の裏で地を思い切り蹴って、空へ近づくために漕いだ。そうして二羽の鳥は追い付いたり離れたりしながら、南の空へ南の空へ時間の足を追いかけつづけた。

2009年7月16日木曜日

●中嶋憲武 夜のぶらんこ(上)

夜のぶらんこ(上)

中嶋憲武


うどんを食べにいきましょうと誘われ、待ち合わせることにした。

以前にも二三度いったことのある店だ。

待ち合わせの駅に着くと、薄暮のやや青みがかった空間にぽつんと鳥子さんはいた。駅の殺風景な蛍光灯が白さを増してゆく時間だった。

待ち合わせ場所から、霧のような会話を交わしながらうどん屋へ入った。

まず、飲みものである。

鳥子さんは中生。ぼくは烏龍茶。いつも烏龍茶では芸がないと思い、アルコールフリーのビールテイスト飲料というものを試してみようかと、目を皿のようにしてメニューを探したがない。テレビジョンとか電車の車内吊りとか、広告は目にするのだが、そのものを置いている店はすくないようである。コンビニエンスストアーとかスーパーマーケットとか、店内を隈なく回ってみたが、そのものを置いている店はすくないようである。いったいどこで飲めて、買えるのだろうか。21世紀にもなって、こんな問題で頭を悩ませるとは思わなんだ。さびしい。21世紀の寂寥がぼくを襲う。仕方なくやはりいつものやつにした。

お菜は新じゃがと鶏肉、茗荷のしらす和え、それと野菜を何品か誂えた。お店のひとが中生と烏龍茶を持ってきたとき、烏龍茶をぼくの前に、中生を鳥子さんの前に置いたかと思うと、中生をぼくの前に、烏龍茶を鳥子さんの前に置き直してのれんに引っ込んだ。その所作が風のようにさり気なく、マイケル・ジャクソンのターンのように素早かったので、微笑を禁じ得なかった。そのお店のひとのものの考え方や、生活態度の一端が垣間見えたような気がして、おかしかったのだ。

茗荷のしらす和えをつまみながら、この前この店に来たときの話などをした。鳥子さんは箸を巧みに美しく操作する。ぼくは箸の使い方があまり得手ではないので、そこを見抜かれないように気を配りながら喋った。箸を巧みに操作出来ぬという一点を取ってみても、社会人として機能していないのではないかと、自らの欠陥を顧みる。鳥子さんは、そんなぼくの怯えにはまったく無頓着のように、にこにこと話しつづける。

ものを写生するときは、ものをそのまま描いてはいけないのだと言われたという。

ものを描いている気分とか湿度みたいなものを描き込むことこそが、肝要なのだそうだ。そんな話をするので、最近絵に関心があるのかと聞くと、ううん、全然と言って笑った。


(明日につづく)

2009年7月14日火曜日

●祐天寺写真館18 紅顔

〔祐天寺写真館 18〕
紅顔

長谷川裕


ここからスタートして語りだすのは、比較的容易だと思う。その話に正解はない。各自が好きなように通路を選び、どこかへ行けばいい。しかし、この場からさほど遠くまで行けるようにも思えない。ひっぱられそうだ。難しいところ。


2006年3月 横浜中華街 RICOH GRD

2009年7月12日日曜日

〔ネット拾読〕フエキ糊とアラビア糊それぞれの語感

〔ネット拾読〕09
フエキ糊とアラビア糊それぞれの語感


さいばら天気


はい、こんにちは。また日曜日がやってまいりました。

思うところあって、朝ご飯は、トップスのチョコレートケーキでした。いい年して、こんなもの食べて、申し訳ないです。

 * * *

まず、野球ファン必読の記事から。

●“魔将”ガイエルの超能力? ヤクルトの大砲が見せる職人芸 from Number Web
http://number.bunshun.jp/npb/column/view/3966/
・打席に立てばほとんどバットを振らずに、四死球を選びまくる。
・平凡なフライを打っても敵チームの選手がなぜか落球してしまう。
・折れたバットが打球といっしょに相手野手を襲い、タイムリーヒット。
・ライトスタンド一直線のホームランを打っても、なぜかスタンドは静まり返って無反応(通称サイレント・ホームラン)。
・実況のアナウンサーも解説者も、気づかないうちに盗塁成功(通称サイレント・スチール)。
繰り返しますが、必読です。

 * * *

●句集よんだり from B.U.819
http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-341.html
青春ッて、基本アタマワルイと思うんです。/アタマイイと、青春と同じラインに立てないんだよ。/そういう人ッて下から見上げたり、上から見下ろしたりして、青春に焦がれてる。
なるほどです。青春とは物語。たくさんの人(若い人)がそれぞれの立ち位置から眺めている「青春」がある(と信じられている)という意味で。

あ、もちろん、青春が「アッタマワルイ」(ッで強調してみました)ことは真実そのとおりで、その意味の青春を一生かかえて生きていたりします。年齢じゃないところがある。つまり、加齢が聡明をもたらすなんて、もし考えている人がいたら、それは若いうちだけの甘い読み、大きな誤解です。

ところで、俳句において、青春性などというものが(質を問われず)称揚されるとき、その青春性とは、老人の「回春剤」に過ぎないので、そうとうにどうでもいい。

ただ、人は、その年齢その年齢での「見晴らし」を獲得できるものです。
若い頃、人間の中心は若い人間だとしか思えなかった。老人は全てに通じていて完璧で、でもどこやら気の毒な人々に思えた。中年の私は、若者はまだ半端で、世の中心は中年以上にあると感じた。そして若くなくなってみて、若者から見た私は、若い日の私が見た気の毒な人種なのかもしれない。いや、そうなのだろうと思う。年長者は、もちろん大人で全てを知っていて何もかも上達していて完璧な、でも前途のない淋しい人々、そのどれでもないことも分かってきた。/金子光晴が自分自身に目を見張った晩年があったように、知らない自分が現れるかもしれない。(…)
池田澄子「葉桜盛り、人盛り」(『あさがや草紙』角川学芸出版・2008年)
「知っている自分」とばかり付き合い続けるなんて、地獄です。「知らない自分」という最後の一文、希望の光です。「老い」とは未来なんですから。

青春は、物語であれ、アタマワルイであれ、(若者と子どもを除けば)いちおうは過ぎたことです。もういいでしょう。人間、これからのことに興味があるものです。

で、現実問題として、老人俳人たちの「回春」趣味、あれ、どうにかならないもんですかね。

 * * *

それではまた次の日曜日にお会いしましょう。

2009年7月11日土曜日

●ほおづき 近恵

ほおづき

近 恵


子供の頃、庭のほおづきをよく食べた。

鳴らしたりはしない。赤い皮をぱりぱりと剥いて、中の宝石のようにぴかぴかつやつやした丸い実を口に放り込み、齧る。

中からすっぱ苦い汁がでてきて、種っぽい実をじゃりじゃりっと齧る。皮は少し厚いので、最後まで口の中に残る。それを奥歯で擂り潰すように砕き、飲み込む。ほおずきは大きくって、火のようなオレンジ色だった。

その大きなほおづきは、当時家で飼っていた犬のゴンが日々マーキングをしてくれていたおかげでスクスクと育っていた。人の家に行くとほおづきが仏壇に飾ってあったりしたけど、家には仏壇がなかったから、ほおづきは飾られることなく食べられた。

特に種をまいた覚えもないが、ほおずきは毎年同じところに生え、毎年ゴンのマーキングを受け、毎年スクスクと育ち大きな実を付けた。青い皮が少しずつオレンジ色になってゆくのが楽しみだった。

ほおづきは食べ物です。

 あかあかと四万六千日の舌  恵

2009年7月10日金曜日

●四万六千日

四万六千日


ふところに四万六千日の風  深見けん二

四万六千日なる大き夜空あり 岸田稚魚

滝なすや四万六千日の雨  有馬朗人

軍艦に四万六千日の波  高澤良一

四万六千日人混みにまぎれねば  石田郷子

四万六千日の臍が歩いてゐる  攝津幸彦


2009年7月9日木曜日

●鴎外忌

鴎外忌


団子坂上り下りや鴎外忌  高浜虚子

町川の鯉金に照り鴎外忌  皆吉爽雨

伯林と書けば遠しや鴎外忌  津川絵理子


≫青空文庫・森鴎外

2009年7月7日火曜日

●祐天寺写真館17 腕の影

〔祐天寺写真館 17〕
腕の影

長谷川裕


自分の腕か、彫刻の腕か。もう記憶がない。影一般のなかに溶けてしまった。


2006年7月 静岡県長泉町 RICOH GRD

2009年7月5日日曜日

〔ネット拾読〕品質のほどがよくわからない阪神ブラゼル

〔ネット拾読〕08
品質のほどがよくわからない阪神ブラゼル


さいばら天気


はい、こんにちは。また日曜日がやってまいりました。

 * * *

2009年7月2日(木) ピエール瀧 ペラ☆ペラ 
http://www.tbsradio.jp/kirakira/2009/07/200972-1.html
皆でサイクリングに行くと僕だけ三輪車だったり、
電車に乗ったら車内にカニがたくさんいたり、
となりの家にはなわさんが4人住んでいたり、
朝起きると自分の顔がテーブルに置いてあったり、
夢の話とパーティーの話ほど退屈なものはない、と言ったのはロラン・バルトでしたか。夢もパーティーも、本人には奇異でおもしろくて興奮して他人にしゃべるのですが、聞かされたほうは、たいしておもしろくない。「夢だから、ヘンテコなのは当たり前でしょ?」ってなもので。俳句でも、夢で解決する句は、ほとんどつまらない。

でも、例外があるんですね。夢の話にもおもしろいものがある。「はなわ」が4人暮らしているってw

 * * *

[俳句短歌]丁稚の云ひ分第5回 from 亭主の日乗
http://yaplog.jp/hiroshimaya/archive/1799

前回、句集のアタマに「なんで、主宰/師匠筋の序文がつくの?」との疑問を取り上げました。その記事への軽いレスポンス。

いや、私だって、「なんで?」と思いますよ、そりゃ。つまり、心情的には「亭主の日乗」さんに近いです。

それどころか、「垢抜けねえなあ」とか、「おむつも取れねえのに、本だすなよ」とか、「謝礼めあてに序文書いてんじゃねえよ」とか、そんなことをおっしゃる人もいらっしゃいます。んんと、半分は同意、でも半分は前回書いたように「それほど気にすることはない」。

とはいっても、外から見て奇妙な慣習は多いです。句集にしても俳句世間全般にしても。

 * * *

「共感できない本」を読めないあなたは、共感されたいだけ。
from 毎日が日直「働く大人」の文学ガイド」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090626/198716/?P=1
※読むにはログイン(無料入会登録)が必要。

前回の「共感病」の続き。記事タイトルですでに十全。パラフレーズすると、〈「共感できない俳句」を読めないあなたは、共感されたいだけ〉。

伝わったでしょうか。千野帽子氏の素敵な文章をひっぱってきて言いたいのは、つまり、「共感なんてクソくらえ」ということ、いや、もとい、「共感だけじゃないですよー」ということです。

 * * *

眼玉の直径 from Rocket Garden
http://yamadarockets.blog81.fc2.com/blog-entry-122.html

たしかに、俳句は、読むぶんには、まるごと一瞬にして眼玉に入ってくるものだけれど、聞くぶんには、ひとつながりの線。

俳句は、文字である前に/文字であるよりむしろ「声」というのが私の捉え方。

もちろん、いったん聞いてしまえば、それは線(時間を伴う旋律)ではなく、ひとかたまりの音の響きにはなるのですが、はじめの出会いは、アタマの一音から最後の一音まで連なった「声」という感じがしています。

 * * *

それではまた次の日曜日にお会いしましょう。

2009年7月3日金曜日

〔俳誌拝読〕ににん第35号 

〔俳誌拝読〕
ににん 
第35号/2009年夏号(2009年7月1日発行)64頁



岩淵喜代子氏が代表を務める「ににん」の季刊誌。

座談会「石鼎を語る」前編が読み応え充分。出席は、齋藤愼爾、酒井佐忠、清水哲男、正津勉、土岐光一、岩淵喜代子(司会)の6氏。原石鼎(1889~1951)と虚子の関係、松沢病院への入院等を柱に、史実、資料面の要点を岩淵氏、土岐氏がよく押さえ、ありがちな感想・見解の応酬に終わっていない。一部引くと…
齋藤 虚子の犠牲になった人びとはたくさんいるよ。
岩淵 実際に虚子からホトトギスをやめろと言われましたね。それがいつまでも尾をひいているように書かれています。小島信夫(*註)も書き方はそれに準じていると思いますが。
清水 社会人として考えると、言われてもしょうがないですよ。
その後、話題は「秋風や模様のちがふ皿ふたつ」の前書き(「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、伯州米子に去つて仮の宿りをなす」:筆者補)へ、この句の背景にある「意外な事実」(?)へ。なかなか興味深いものがあります。後編が楽しみ。

(*註)小島信夫『原石鼎 二百二十年めの風雅』河出書房新社・1990年


なお「ににん」のホームページは≫こちら 当号入手の可否は不明

(さいばら天気)

2009年7月1日水曜日

●117BPM 中嶋憲武

117BPM

中嶋憲武


満月だった。
ぼくとキクチサヨコは、海岸通りを走っていた。

父に借りたまっ黒なルノーは、真夜中に近い時刻をカーテンのように静かに走った。
カーステレオから、友だちの編集したカセットテープ。世界中のありとあらゆる曲がごったに編集されていて、実にさまざまな音楽が飛び出してきた。やれやれ。仕方ない。ぼくもキクチサヨコもそういう種類のものを好んでいたのだから。

キクチサヨコは、いつでも物理学特講のいちばんうしろの席に座っていた。ぼくより2つ年下であったが、整った顔立ちをしていて、伏目になったときの睫毛の作る陰翳が彼女を大人びてみせ、てっきり年上と思っていたのだ。

彼女はぼくらの撮っていたホラー映画のヒロインで、ぼくはいつもハンディカムのフレームのなかの彼女をみていた。撮影が終ると、たまに一緒にデニーズで食事したが、おおかたは彼女はまっすぐ帰った。

ある日、物理学特講の講義に顔を出すと、キクチサヨコがいたのだ。それまで同じ講義を取っていることに、まったく気がつかなかった。6月のどんよりと蒸し暑い日だった。キクチサヨコは、ノースリーブの肩をみごとに晒して泰然と最後尾の席で熱心にノートを取っていた。

終業時間が近づくと、物理学特講の非常勤講師は大きなラジカセの再生ボタンを押した。毎回生徒にガブリエル・フォーレやアントン・ヴェーベルン、シェーンベルクなどを聞かせるのだ。その日はフォーレの「インスブルックよ、さようなら」だった。

ゆったりと明るい調べのなかで、キクチサヨコと目が合った。彼女はそっと微笑むと、目で「取っていたんですか?」というような表情をしたので、ぼくは頷いた。

それが縁というものだ。

海面は月光を受けて、黄金を佩いたようにきらきらとしていた。このような間接光をアトモスフェリック・ライトというのだ。印象派の画家たちが追求した光だ。

カーステレオの曲はクリエイションの「暗闇のレオ」からマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」に替わった。
キクチサヨコが、
「この曲のビリー・ジーンって、キング夫人から取ってるんでしょ?」と尋ねてきた。
「ビリー・ジーン・キングね」
「日本でいうと、伊達公子は恋人じゃないって歌詞になるんでしょ?」
「スゴイ歌詞だよね。よくプロデューサーのOKが降りたね」
「ホントー。発想に空いた口が塞がらないというか」
「キング夫人って、岡ひろみと対戦してるよね?」
「あー、そーだ。で、岡ひろみが勝っちゃうんだっけ?」
「どうだったっけ。勝つんだっけ」
「勝ったような印象があるんだけど」
「この曲って、117BPMなんだよな」
「 ピーピーエム?」
「いや、パフ・ザ・マジックドラゴンでもレモントゥリーでもなくて」
「ロック天国でもなくて」
「ビーピーエム」ぼくはビーをことさら強調していった。
「ビート・パー・ミニットの略で、1分間に何回4分音符を刻むかってことなの。ふつうのダンスミュージックは120BPMが主流なんだけど、この曲は特殊な117BPMで、それがかえって気持ちいい感じするから不思議」
「テンポいいね。自然に気持ちいい」
「BPMが同じ曲同士だと、例えば2台のCDプレイヤーに違う曲をそれぞれセットして、同時スタートするとリズムが合って1曲に聞こえちゃうんだよ」
「ふーん」
「DJテクニックを使わず、DJみたいなことできる」
「ふーん。どうして120じゃなくて117なの?」
「分からない。作り手のセンスかな」
曲は60年代の知らないソフトロックになった。

しばらく走ると月光のなかでキクチサヨコは寝ていた。
やっと鎌倉の朝比奈まできた。東京まではまだまだ長い。
キクチサヨコよ、眠れ。


●7月の動画

7月の動画(サイドバーの下のほう)はキューバ音楽特集。お楽しみください。