2009年6月28日日曜日

〔ネット拾読〕大型徳用マッチ、とりわけ象の絵の

〔ネット拾読〕07
大型徳用マッチ、とりわけ象の絵


さいばら天気


発声練習 from B.U.819
http://819blog.blog92.fc2.com/blog-category-11.html

おもしろうございます。そこそこ泣きどころもございます。

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さて日曜日の午後はおなじみ〔ネット拾読〕。くつろいでまいりましょう。なにしろ日曜日なんですから。

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アメ横 2009-6-25 from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51184003.html
東大というところは外国のようだ。外人(見るからに異国の人)が多くいて、あちこちから外国語(主に英語)が聞こえてくる。
そこから歩いて20分ほどの、上野御徒町も外国のようだ。外人(一見日本の人)が多くいて、あちこちから外国語(主に中国語)が聞こえてくる。
あざやかな対照。

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[俳句短歌]丁稚の云ひ分第4回 from 亭主の日乗
http://yaplog.jp/hiroshimaya/archive/1792
で、最近ちょっと疑問に思っていることがあります。それは、句集(あるいは歌集)の冒頭に、その作者の師匠筋に当たる方の文章が掲載されていることです。で、それはだいたい「第一句集(歌集」である、ということなんですね。

これはなぜ?

また別の句集か歌集のあとがきに「これは第二句集(歌集)だから冒頭の文章はいらないでしょう、といわれたので」うんぬん、と書いてあったんですね。

うーん。いわゆる業界の不文律、慣習ってことですかね。一体これはいつからでしょうか? 何となく推測できるのですが、俳句業界も短歌業界も、ほぼ同じ、というのが面白いですよね。
「短歌業界」には不案内ですが、句集のこの不文律は知っています。結社所属の場合ですけど、こうなってるようです。つまり、筋を通すってことですよね。ノヴィスたる著者(第一句集を出す人)にとっては、200~300句をモノすることができたのは主宰(師匠筋)のおかげという…。

筋を通さずに第一句集を出して、結社にいられなくなったという話は聞きます。不寛容な主宰なら、そうなるんでしょう。

主宰(師匠筋)側からいえば、新しい書き手を、俳句世間に向かって紹介する、という感じ。「まあ、こんなんですが、ひとつ、よろしく」。最低限の保証みたいな機能もあるでしょう。

このスタイルの起源がどこにあるのか知りませんが、「そういうことになっているから、そうする」という、習俗・慣習の受容は、作り手側には、あってもいいと思います。読むとき目障りなら、そのページを繰らなければいいわけです。実際、私は「序」は飛ばして読みます。推薦や解説なしの白紙状態で一句目から読みたいから、句を読み、なんなら繰り返し読み、それから「序」を読みます。

ただその限りでなかったのが、鴇田智哉の第一句集『こゑふたつ』(2005年)の今井杏太郎の「序」。
「いろいろと、胡乱のありそうな俳句ですが、
黙って、静かに、この作者の息遣いを読んであげてください」
この2行だけ。これほど短い「序」は見たことがない。たった2行だから、いやでも目に入り、ぜんぶ読んでしまいます。ずるい。


それはそれとして、第一句集というのは、俳人/俳句愛好者にとって一大イベントだろう。だから例えば、ブログで告知する場合も、「大々的に」がよろしいのです。なのに…

夏蝶 from 高柳克弘のページ
http://sun.ap.teacup.com/katsuhiro/181.html

なんですか、このちっちゃい扱いはw

(含羞か、絶大なる自信か。おそらくその両方)

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共感するってそんなに大事? 2009-6-24
from 千野帽子「毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090622/198219/?P=1
※読むにはログイン(無料入会登録)が必要。
(…)共感とか感情移入などといったものは、豊かな読書体験の必須条件ではない。
むしろ、「共感とか感情移入ができない本はダメな本」という考えかたは、本との出会いを狭めてしまう。それはとても恐ろしいことで、
「共感できない人間のことは、まともに取り合ってやらなくていい」
という考えかたとどこが違うのか、私にはわからないのだ。
共感がないと楽しく読めない人って、どんな料理出しても「醤油ない?」って言う人なんですよね。〔引用者責任で改行・スペース適宜除去〕
こ の「共感病」は、読書だけでなく映画やドラマの見方にも言えるのですが、もちろん俳句も同様。いやむしろ俳句世間においてとりわけ深く広く蔓延・浸透している病かもしれません。句会でも一句観賞でもなんでもいいのですが、「共感」をキーワードにした句評・感想をこれまでどのくらいたくさん聞 いてきただろう→それはもう、うんざりするくらい。

きっと、こんな意見もたくさんあります。曰く、「共感も、俳句にとってひとつの価値。共感を否定することはない」。こうした言説に向かっては、前掲記事を繰り返すしかないわけで、引用の一部を、俳句に置き換えてみます。

「共感とか感情移入ができない俳句はダメな俳句」という考えかたは、俳句との出会いを狭めてしまう。それはとても恐ろしいことで、
「共感できない俳句のことは、まともに取り合ってやらなくていい」
という考えかたとどこが違うのか、私にはわからないのだ。

共感は、愛国心とちょっと似ています。それ自体は悪いこととはいえない。けれども、扱い方が難しくて、たやすく「排外」を呼び寄せてしまう。--共感できない句は視界の外へ、という排外。

ところで、なぜ少なからぬ俳句愛好者がかくも「共感」を求めるのか、わからない。共感とは、自分の中にすでに在るもの(記憶・経験、感情、嗜好…)と近しいものを、読んだものに感じ取ることだろう。ところが、これが私には不思議だ。「すでに在る」なら、読むこともないのでは?と思ってしまう。

これについて、ある人は、「他人と通じ合うもの、共通するものの存在を確かめて安心したいのでしょう」と言っていた。でも、そんなもの、確かめる必要はない。だいじょうぶ、あなたの精神が怪物的に特別である可能性は限りなくゼロに近い。莫大な数の似たような精神があり、われわれはそれをひとつずつ保有している。他人と似ているという事実など、確かめるまでもない。

とゆうようなことで、この件は、また別の機会に違うかたちで書きますね。

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それではまた次の日曜日にお会いしましょう。

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